東都アロエ

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アジアンエンタメ&お江戸後期。外国奉行や長崎海軍伝習所がご贔屓☆ BYはな。

日本を訪れた外国人の旅行記を読むのはとんでもなく大好物。
なぜなら細密な描写があるので、当時の日本の様子や会話が
リアルな感覚で味わえるからだ。

というわけで、前回の水野外国奉行問題が出たところこともあり、
今回は日仏修好通条約のためにやってきたグロ男爵一行の記録を紹介。
もちろん独断と偏見にみちているので、外交会談のところだけ。
このときの外国奉行はもちろんあの五人。

筆頭全権委員 水野筑後守
第二全権    永井玄蕃頭

そして、英国使節と同じく、いつものツートップなわけです。
(井上と岩瀬はハリス掛で忙しいし、堀は箱館奉行兼任なので)

六人(目付を外国奉行と間違えている)の外国奉行に別れの挨拶をし、
フランスでの再会を約束した。
そして第二全権委員永井玄蕃頭はチュイルリ宮つきの大使に拝命ずみであると
我々に説明した。(略)・・・・


そこでどのように渡仏するのかとたずねると、永井は、

日本人の乗組員とともに日本の軍艦に乗ることになるだろうし、
軍艦はメーンマストに国旗、つまり白地に日の丸をなびかせてツーロン港に
接岸するだろう、とのことだった。


提督、なんだかかっこいいですぞ(笑)←なぜか
つまり徳川海軍でおフランスへ参るという素敵な計画だったのです。
きっと勝も矢田堀も沢も榎本もわくわくしていたに違いないでしょう。
でも艦長(というか船将)は勝麟さんより、矢田堀さんのほうを推薦します。
慎重な性格なので長い航海向きではないかと思われるので。
・・・・という妄想はさておき。

こうしてこの時代についての本を読んでいると、日の丸ってしみじみと
徳川ジャパン(サッカーみたいか!?)の旗しるしなのですね。
思うに、なんで明治新政府はこれをそのまま採用したのか?(と意地悪なつぶやき)
「維新」したなら旗もかえればよろしいのに!
おほっほっほっ (フランスだけにベルサイユ風@宝塚)

いささか飛びすぎましたが、さてさて。
この旅行記の珍しいのは、岩瀬の記録がないこと。永井だけなのも珍しい。
・・・・・さては岩瀬さん、英語習得に夢中でフランス語には興味なしか!?

というわけで、英国の記録に続き、安政五カ国条約締結の記録から
外国奉行の部の紹介でした。

「フランス人の幕末維新」 有麟堂新書53 
第一章 全権団随行員の日本観 より

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# by aroe-happyq | 2007-01-20 10:55 | 長崎伝習所系 | Comments(0)
とうとう中根ワールドに着手。
この人は松平春嶽の懐刀。嘉永6年~明治にかけての記録を
丹念につけてくれていた人。ありがとう、中根さんといいたくなる貴重な
書簡の写し、日記、メモなどなどがたんまり登場する。
ただし、春嶽とその仲間たちの華麗なる(爆)陰謀劇のやりとりが中心だ。

今回は全4巻のうち、2巻まで借りてきた。
黒船が来たところから、大獄前夜の安政五年二月あたりまで。
最初はおもに、阿部伊勢守と春嶽(この両人非常に仲が良いし血縁関係でもある)
と、水戸斉昭、島津(松平)斉彬、宇和島藩の伊達宗城・・・・そして、海防掛
が登場して、やはり黒船の取り扱いの活発な意見交換、開国するか否か、
軍艦製造解禁についてなどなど。
がしかし、当初から春嶽は将軍継嗣問題に熱心。
優秀な一橋慶喜を次期将軍に、といろいろな方面に働きかけている。
それが一気に沸騰するのは、そういう継嗣問題を声高に叫ぶのを春嶽に
いさめ続けていた阿部伊勢守正弘が死んで後である。

みるみる一橋派が形成されていき、
開明派官吏の岩瀬たち海防掛目付にもその「勧誘」が始まる。
そこで驚いたのが、水野筑州が・・・・・・見事にとりこまれ(爆)、
海防掛のなかで誰よりも熱心に書簡をおくり、動いているのだ。

安政五年一月十四日の項に、
「水野筑州を御手に附らる」とあり、「水野筑後守ヲ正論ニ服セシム」とある。

昨年来御周旋ありし西城の事を片端洩らし聞えさセ給へハ筑州涙を流して
感歎に及はれ・・・・


水野が泣いちゃったぞ!これは一大事だ!!

西城とは西の丸継嗣問題・・・・・つまり次期将軍候補の問題ということで、
雪江さんは西城の件、という言葉でそれを示す。
たしかに家定将軍では心もとないのはわかる。
国事多難のおり、英雄のような(ナポレオンみたいな?(笑))強い将軍
がほしいと思うのは人情であろう。
阿部の後継の堀田老中でも心もとなかっただろうし。
そんなとき、冴えてる慶喜が輝いてみえちゃったのだろう(涙)。
この人、宮廷政治などは本当に冴えていることだし。
そして水野が泣くのも、国の明日を思ってのことなのだ。

そしてこの日以来、水野は継嗣運動に加わる。
もちろん、岩瀬肥後、永井玄蕃、堀織部、鵜殿民部は「無二の同志」である。
(のちに井上も加わったらしい。、もちろんその兄の川路も同志だ)

だがこの時期以降、ハリスの問題に忙しくて岩瀬や井上、永井の名は登場せず、
堀は箱館勤務中につき、
おもに水野と鵜殿が春嶽の近辺で運動に加わっている。

そこで、ふと、思い出すのはコレ

水野が外国奉行から邪魔にされてはずされた、と井伊一派はみているわけだが、
これってひょっとして、水野は一橋派運動担当ということで、
外国との談判は岩瀬&永井&井上などがやるとして、あえて皆で申し合わせて
役職からはずしたのではないか????
としたら、外国奉行としては井伊派への見事なカモフラージュであり、
連携プレー大成功か!?
などと思ったりするのだが、これは邪推だろうか。
・・・・・だが、なにより岩瀬や永井は重い罰をくらったが、水野はこれだけ
活動していながら、さほど重い処分は受けていないのだ。
最後までカモフラージュが効いたとみるべきではないだろうか(笑)。
そのかわり、永井と岩瀬の願いを叶えようと、咸臨丸をアメリカに派遣する件で
これを実現させるべく水野はすごく動いた。仁義に篤い人なのだ。

さて、話は脱線したが、そんなわけで第二巻ともなると、
かなり込み入った政治陰謀劇だらけである。わくわくである(笑)。
西郷吉兵衛が大奥を取り込もうと、かなり画策している、などというのも出てくる。
橋本左内も大活躍している。

だが結論を知っている身としては、これらのがんばりは見ていてちと辛いかも。
それでも残り2冊を読むだろうし、その続編シリーズも次々読んでみようと思う。

最後にちょっと面白かったのは、
江戸城における大名総登城の大会議で、開国と日米修好通商条約について
朗々と大演説をおこない、また開国にむけて個々に、
有志大名への説得に歩いた岩瀬肥後守が、
めずらしく説得に失敗し、「負けた」という記述があった。
岩瀬という人は能弁家で、あの攘夷の水戸斉昭でさえも、開国へ意見を傾かしめ、
「一緒にアメリカにいきましょう」と語り合うところまで持っていった説得のプロだが、
珍しいことに、山内公の頑固さには勝てなかったらしい。
二人はそれこそ斬りあいになるのではないかいうほどの激しい舌戦を展開したが、
(互いに怒鳴り声など出てかなり凄かったらしい)
その果てにとうとう山内公は開国へ折れることはなく、保留されたらしい(爆)。
やはり、山内容堂公は一筋縄ではいかないお人のようでした・・・・。
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# by aroe-happyq | 2007-01-19 14:45 | 外国奉行ズ | Comments(0)
「江戸文人のスクラップブック」
工藤宜 著 新潮社 1989年発行


聖堂にいったので、久々に大槻磐渓の本をひもとく。
この本には優雅でおだやかな文人の馨りが漂っていて、
自分としては本を広げただけでアロマテラピーに近い効果がある(笑)。

仙台藩の蘭学者の家に生まれたが江戸生まれ育ち。
本人は漢学者であり、詩人で、砲術家。
その大槻が長年にわたって、チラシや友人の絵、写真などを
貼りつけた膨大なスクラップブックが現存しているそうだが、その一部を
大槻の自伝とともに解読したのがこの本だ。

友人も幅広い。高島秋帆、佐久間象山、吉田松陰、渡辺崋山、岩瀬忠震、木村芥舟・・・・。
なんと蘭学者の敵、鳥居耀蔵まで聖堂で知り合いになっていた・・・。
もちろん岩瀬つながりで永井尚志、岩瀬の用人にして欧州使節に加わった市川渡まで、
いろいろいる。有志大名とも親しいらしいが、それはまた別の話(爆)。

さて、この本で注目したのは江戸文人たちの海外知識だ。
すごい・・・・と思うのは、彼らがほぼリアルタイムでナポレオンとフランス革命
の情報を詳細に知っていて、とくにナポレオンは彼らのヒーローだったこと!(笑)
身分の低いところから皇帝になり、哀れ最後は島流しという、日本人の魂の琴線に
触れまくりのナポレオンの伝記は文人たちのあいだで大ヒットして、
将軍までが伝記を読んで、みんなであれこれ朝まで語ったらしい。
(それで合点がいった! なんで榎本釜次郎たちが留学途中でセントヘレナ島で
ナポレオンの墓に顕花して、感動のあまり榎本は日記を投げ捨てようとすてしまった
のか・・・・。榎本の父親の世代からのあこがれのナポレオンだったのだ)

もちろんフランス革命だけなく、ヨーロッパの歴史もちょいちょい知っていたらしい。
この時代、洋書を手にするには困難なため、もっぱら清で漢訳されたものを
輸入して、和訳出版していたらしいので、どこまで正確かはさだかではない。

そして可笑しいのは黒船渡来のとき。
絵のうまい大槻磐渓は藩命によって、黒船の絵を描いて来いといわれて、
なんと幕府の応接所@横浜に草履取りの格好で「潜入」した。
通詞の森山多吉郎とは師弟(漢学では大槻が師匠で、蘭学では森山が師匠)
関係だったのでそのツテで潜入したものの・・・・・。
佐久間象山とばったり出くわして、二人でひそひそ話をしていたのが不自然だった
らしく、小人目付に「わりゃだれだ」と誰何されてしまう。しかし小人目付も相手が
只者ではないと悟ったのか、「ひっこんでいさっしゃい」というなり去ったという。
ひっこんで、と丁寧な「いさっしゃい」はあまりドッキングして使うことはない。
大槻と佐久間はかなり大受けだったとか・・・・(笑)。

岩瀬忠震と大槻は木挽町町内のご近所さんで、かつ親友だった。
岩瀬が向島に岐雲園という別宅を購入すると、もちろんそこへも招かれた。
スクラップブックには岩瀬手書きの案内図がある(この本にも掲載されている)。
そこで永井なども含めて詩作会など行ったかもしれないが長くは続かなかった。
岩瀬と永井は永蟄居の処分をくらってしまう。そしてそれから一年ほどで岩瀬は
他界してしまったのだ。
この本によれば、岩瀬の一周忌に大槻が岐雲園を訪れたという。
そこで永井とばったり会って、二人で詩作をしつつ少々酒を酌み交わすと、
それぞれ帰ったという。
どうでもいいことだが、大槻の記録では五月となっているが、
岩瀬の命日は七月だ。それにちょうどこの一周忌ごろに、永井の処分が解かれて、
晴れてお天道さまの下を歩けるようになったので、五月だとちょっと遠出は無理。
大槻さんの記憶違いかも?
さて、その大槻磐渓も江戸を去る日がきた。文久の改革で諸藩の者は国許へ
戻ることになった。大槻も木村芥舟に餞別でもらった毛皮を着て泣く泣く、仙台へと去った。

仙台余生を送るはずだった彼も戊辰戦争に巻き込まれた。
彼は藩主の信頼も厚く、その開明的な知識を求められ藩の参謀をつとめた。
榎本釜次郎が東北列藩同盟の面々と話し会いに赴いたとき、そこに大槻はいただろう。
榎本の顧問格(笑)の永井が同行していたら、大槻と再会しただろうか?

敗戦後、戦争犯罪人として裁かれた大槻磐渓は終身禁固となった。
その後、自由の身になると最晩年には東京に移り住み、明治11年に亡くなったという。
(磐渓の息子は父は無罪であると再三運動し、磐渓の死後11年後名誉回復をしている。)
愛してやまなった江戸が変り果てていくなか、文人大槻磐渓はなにをみつめながら、
東亰で暮らしたのだろうか。

こうしてみてくると、
江戸も幕末寸前までなんと優雅な(でも金欠にかわりなしだが)文人たちの
サロンがあったことだろう。
彼らが穏やかで平和な時期に培った見識が幕末の混乱でもっと生かされたらよかったのに。
いや、少なくとも岩瀬や永井、木村世代の仕事にはこうした「馨り」があるし、
安政五カ国条約締結までは彼らの文人パワーがうまく生かされていたのだ。
そして若い世代のなかで、永井さんは果敢に新しい西洋の知識に飛び込みつつも、
たった一人で最後まで文人の馨りを手放さなかった、彼らの生き残りであったといえよう。

それよりもこのスクラップブック、全容をたっぷりみてみたいもの・・・・・だ。
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# by aroe-happyq | 2007-01-17 19:26 | | Comments(0)
坂の途中にあるのが湯島聖堂。またの名を昌平坂学問所(昌平黌)。

正門から入ろうと遠回りしたのだが・・・・・・なんと改修工事中だった・・・・。
だが中に入れないはずはない!と再び聖橋の裏門へ回ると、門があいていた。

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なかなか荘厳な・・・・古代中国なムード満点の世界がそこに!
(堺正章の「西遊記」のロケ地なだけある!?)
平日なので閉まっていますがそれはそれ、なかなか風情があります。
(土日祝は開いているそうです)

ここで遠山の金さんも、岩瀬肥後守も永井玄蕃頭も、堀織部正も、
(以下なぜか敬称略)矢田堀景蔵も、榎本釜次郎も、大槻磐渓も、原市之進も、広沢富二郎も、
みんなここで若い頃勉学に励んだのなぁと思うと感慨深いものがありました。

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しかしここはいったいどこなのだ、と思わせるような別天地。
まるで蘇州のお寺さんみたいです(ずいぶん昔の蘇州、です。今はきっとコテコテにペンキが塗られて風情は変わってしまっているはずだ)。

こんなに静かなら真面目に学べそうです。

そして孔子像。

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そして、外壁にはなんと!
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今でも学べるのですね!
・・・・・・素読講座まである。す、すごい。
なんだか一瞬、タイムスリップしてしまい、まるで
学問所に入ろうとか迷うどこかの江戸の人になってしまいました。

大槻磐渓や岩瀬修理が教授だった頃なら、一度でいいから、
聴講生として授業を拝聴したいものです。
(なんだかすごく楽しそうなので)

真冬にもかかわらず、いささかINドリームしてしまいました。
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# by aroe-happyq | 2007-01-15 14:47 | 江戸東京あれこれ | Comments(0)
小川町に用事があったが、すぐに済んでしまったので
「そうだ、湯島聖堂にいこう」
ということでずんずん歩き出して、突然散歩は始まったのでした(笑)。

突然なので地図もない。だけど大丈夫!
頭のなかには江戸切絵図がしっかり入っている。
頭のなかは江戸の道、歩いているのは平成の道ということで、
あっけなく御茶ノ水の聖橋に到達し、すぐに湯島聖堂発見。

で正門に入ろうとぐるっと回り道していると、神田明神が!
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というわけで中途半端な初詣をして、
揚げまんじゅうを購入しつつ、天野屋に寄ってとうとう本場で
芝崎納豆も購入。

なぜか頭のなかには銭形平次の主題歌が回りだしつつ、
いざ湯島へ!
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# by aroe-happyq | 2007-01-15 14:14 | 江戸東京あれこれ | Comments(0)

本年お初の芝崎納豆

東京在住の我が家でちーさなこだわりの味があるとしたら、
納豆と谷中しょうが(夏だけですが)でしょうか。
昔は畳いわしとか、くさやなども食卓の必須アイテムでしたが、
最近まったくお店でみなくなりましたので、さみしく今はたったの二品。
そのひとつ、この納豆じゃないと・・・頑固に
長く買い続けているのがこの芝崎納豆なのでした。

神田明神下の老舗天野屋の納豆で、明治から流行りだした水戸納豆より
ずっと前から存在するお江戸の味。

江戸の人は納豆が大好きで、刻んで味噌汁に入れちゃうほどだったらしい。
今ではちょっと考えられないが、笊に山盛りにして納豆売りが歩いていたとか。
さすがにニオイはすごかっただろうなぁと思いつつ・・・・。
(明治になって、この売り方は臭いので包んで売るようにお達しが出た)

さて、芝崎納豆は粒が大きく、かなりネバリが強い。
いまどきのパック納豆では味わえない芳醇な香りで、懐かしい本当の味がする。
(この芝崎納豆も同じくパック入りなのですけどね)
我が家では神田明神で買わず(ちょっと遠い)、近所のデパートで購入しているが(笑)、
年始は天野屋さんがお休みなので、12日以降にならないとこの納豆は
出回らない。で、さっそくさきほど今年初の納豆を買ってきた。

昼ごはんで食べたが、やはり癖になるこのお味。美味しい。

普通のパック納豆よりも値段が張る分、ケチな我が家では毎日食べるわけでは
ないが(爆)、でもやめられない感じだ。

・・・・・・さてと写真を撮ろうと思い立ったが、すでに遅かった。
袋は捨ててしまった後で、あわてて救助したがクシャクシャになっていた。
す・・・・・すいませんっっ。トホホ。

次回購入の際には、画像をアップ予定・・・・・・(汗)。

追記
調べたら天野屋にはホームページがありました(ショップもあり)。
こちらです。

便利な世の中になりました。
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# by aroe-happyq | 2007-01-13 14:09 | 江戸東京あれこれ | Comments(0)
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好きな人はとことんのめり込み、嫌いな人はとことん嫌いになる。
そんな香港の風変わりな映画監督、王家衛。

彼といえば、優秀な美術作家の張叔平、名カメラマンのクリストファードイルの映像と合わさって、美しく斬新な映像とセンスの良い音楽、豪華な俳優陣(キャスィングが見事)で有名な作家。
・・・だが。
もともとシナリオ作家なので台本はかけるはずなのに、
たいして用意も準備もしないでクランクインするから、大スターでも
新人でも彼の作品に出る俳優さんは大冒険を味わい、
ギリギリになって仕上がった作品は配給会社もびっくりの
新しい内容に生まれ変わっている、奇怪な離れ業を繰り返すことでも有名だ。

そして観客もまたどんどん変わる設定や展開に流される・・・・。
ときどきあまりに強引ゆえにわけがわからなくなり、眠気さえ催し、
「なんだかよくわからない」と感想をもらしつつ、帰途につく。
自分もまたそうした経験を何度も味わってきた観客のひとりだ。
「花様年華」の初見のときは2分ぐらい寝ていた・・・。
(まわりはみなこっくり、こっくり・・・・肩が揺れていたし(爆))

なのに、なんだか癖になってしまった作家だ(笑)。
もちろん「恋する惑星」や「いますぐ抱きしめたい」など
わかりやすい映画もたくさんある。渋谷系?として人気のあった「天使の涙」もある。
だが、「欲望の翼」「花様年華」「東邪西毒(邦題:楽園の瑕)」など
王家衛ワールド全開の作品群もかなりいける口になってしまった。

映画としては評価が分かれるかもしれないが、
ビデオなりDVDなりで何度も、何度も見ていると、じわじわと良さが
味わいが出てくる。
あまり大きなスクリーンよりTV画面ぐらいがちょうどいいのだ。
何度も深夜にのんびりとみていると、台詞が急に胸に迫ってきたりして、
感動さえしてしまうのだ。
まさにスルメのようになんども噛みながら、味わい尽くすような作品ばかりだ。

そのスルメな映画は寒い夜にふと見たくなる(笑)。
ちょっとマニアな自分は最大級に秘蔵映像の入ったフランス版DVDを
引っ張り出したりするのだった。
2046とか、花様年華を所有しているが、
まずは古い「花様」から。
実はこのDVDを購入してずいぶん経つのに、たぶんいまだに特典ディスクを
全部鑑賞しきれていないという気がする・・・・・・。見るたびに知らない映像が
出てきたりするし・・・。通してみたら何時間かかるかわからないほど充実している。
(フランスのDVD製作担当者さんの熱き魂に感謝!)

映画の鑑賞法としては邪道かもしれないが、
この王家衛だけは何度も鑑賞で味わう方式が許されてもいい監督だと
思う。確かに完璧じゃないし、やっつけっぽい部分も多々ある。
もう少し根本の設定作りに時間をかけたらもっと面白かっただろうに、
なんても思ったりするわけだが、出来てしまったものはしょうがない。
(「2046」なんて蔵出し映像部分が一番美しかっただなんて・・・ひとにいえないっ)
↑こういうことがあるから、DVDでの鑑賞が望ましいのだ(きっぱり)。

*ここにアップした画像は日本版ポスター。そのデザインの良さから欧州ではもっぱら
この画像がファンサイトで使われている。
日本で公開されていたときには赤が強すぎかな?なんて思っていたけれど、
これもあとになってじわじわ良さがわかってきたりして・・・・・(笑)。
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# by aroe-happyq | 2007-01-10 19:02 | 香港&アジア映画 | Comments(0)

岩瀬の日記

ふとぐーぐるで調べ物をしていたら、
こんなページに行き着いた。

・岩瀬鴎所日記他 自筆 6冊
 幕末の外国奉行岩瀬肥後守忠震(1818-1861)の手記、手控帳。岩瀬は幕臣で、老中阿部正弘に抜擢され、米英等との開国条約の折衝に当った。岩瀬自筆の資料は伝わることが少なく、幕末史のきわめて貴重な資料といえる。


こ・・高額って!なんじゃそりゃ!
いやいやその前にちゃんと早稲田大学の図書館に
岩瀬の日記が戻っていたのではないか!
戻っていない話は確かに古い本に出ていたのだが、その後
だれもこの話に触れていないのでなんだかヤバイ話なのかと
思っていたら・・・・・・。

・・・・・早稲田ではこのように貴重な史料を放置っすか・・・・・・・。
誰も研究してくれないのですかねぇぇぇ。
岩瀬、すごい人材というだけでなく、その豊かな人間性が非常に面白いですよ~~ぉ。
確かに江戸ッ児侍で文人ですから、変わっているかもしれませんが、
その合理的で洒脱で開けっ広げな性格に触れるにつけ、
研究していて心が温かくなること請け合いですよ~~ぉ(って誰に語っているのだ)。
きっと日記を読み進んでいったら、「ぷっ」って噴出すことも
あれば感涙することもあるかもですよっっ。←必死
どなたか岩瀬の研究してくださーい。
(嗚呼、人生をやり直せたら日本史専攻に鞍替えするところなのに)
江戸の文書が読めれば、なんとかして写しを入手して・・・・・
(ツテがないわけではないのである・・・)
などという野望が生まれるのですが、まだ修行中でござる!(号泣)。

だいたい幕臣にはまってまだ日が浅いのに原文とわ、そんないきなり
ハードル高すぎ・・・・・です。

でもこの手控帖つてもしかしてオズボーンのおりにも手してメモっていた
それではないだろうか。・・・・・むむむ、ますます興味が・・・・。

木村摂津守さんの日記が慶応図書館から刊行されたみたいに、
早稲田さんにはぜひとも刊行してくださって、そして貴重な幕末の財産を
日本人で共有したいものです~~~。

くどいぐらいですが、岩瀬って日本人として知っておいて損のない人ですから!

*この日記の一部は「岩瀬肥後守忠震とその手記」(『史観通号62』)にて公開済み
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# by aroe-happyq | 2007-01-09 18:31 | 外国奉行ズ | Comments(0)
内館牧子さんがシナリオときいた段階でいささか不吉な予感がして、
みるのはよそうと思っていたはずなのに、あの時代の大砲を予告で
みちゃうとついつい・・・・・その動いている映像をみたくなって。
そしてついつい見てしまった。

細かいつっこみは多くの方がすでにされているはずだろうから、
ここではどーしても気になった、たったひとつだけに触れたい。

私の聞き間違いでなければ、
なんだか松平容保公が京都守護職になってほどないころから、
戦争があるようなムードになっていて、しかも負けちゃいそうな
ことをえんえん言っているのだが・・・・・。
結果的には負けましたが、会津がそんな昔から負けると決まってはいない。
しかも「立派に死ぬこと」とか、最初からネガティブ?
彼らだってそんな前から戦うつもりならもそっと装備もしていたし、
ああいう結果にならなかったかもしれないのだ。

慶応四年(明治元年ともいふ)の一月からあとはずっと、
日本中、敵味方どちらにしても予測不可能な暗夜航路のなかをすすんで
いたのだから、最初から負けると決まっているような戦いは
なかったのではないかと思われる。
(相当に勝利は難しそうという戦いは多々あったと思うが(汗))
奥州列藩にしても、奇跡のどんでん返しの勝利を思い浮かばない
はずはない。輪王寺の宮が榎本らが止めるのもきかず、
東北へむかったときにはもしかして・・・の野望があったぐらいだし。

内館さんらしく、女が元気で、ポジティブなムードがありながら、
どうしても歴史的な結果に囚われすぎでした。
(でも現代シーンはぜんぜんいらなかったです。ラストシーンが
会津魂に触れた主人公の子孫がちょっと挨拶できるようになっただけで
ワインで乾杯する家族の絵って・・・・・・白虎隊が泣いちゃいますぞ)

それから容保公は養子さんなので、あまり「会津魂」は連呼しなかった
のではないだろうか、などと勝手に想像してしまいました。
こういう事情を踏まえての、京都会津藩庁と国許とのささやかな確執とか、
いろいろな足並みのそろわない部分も、おおいなる悲劇の遠因でもあり、
いつの日か正月時代劇十時間ドラマ「松平容保」などで描いてくれたらと
思います。・・・・・ってそれは白虎隊の感想とは関係ないですね、ハイ。
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# by aroe-happyq | 2007-01-09 14:28 | ほんの世間話 | Comments(0)
秋に都立中央図書館にまいりましたところ、人文コーナーの書棚で
偶然に出会ったのがこの本。
宮地さんの本は史料本であっても、初心者にもわかりやすく丁寧に
解説くださるのでなんとなく手にとったら!これがまたなんだかやめられない
感じになってしまったのですが、その日は東京国際映画祭の上映時間の合間を
ぬってコピーにきただけだったので、泣く泣くすぐにこの本と別れた。
年末にほんのちょっとだけ予算が余ったので、思い切って古本にて購入。

正式タイトルは長い!
『幕末京都の政局と宮廷~肥後藩京都留守居役の書状・日記から見た~』
(宮地正人 編解説 名著刊行会)

元冶元年から慶応元年まで京都留守居役をつとめた、
肥後の学者・上田久兵衛の書状と日記をまとめたもの。

肥後藩は朝幕融和運動をおこなっていた派で、しかも京都の最前線にいた
上田が運動実現のため奔走する様子とともに、この時期の京都の政局の様子も
伺えるとてもありがたい史料集だ。

正直、この時期の京都の動静を把握するのはかなり難しい。
というのも、多くの藩が入り乱れて、同時多発的に物事が進んでいるからだ。
まるでオペラやミュージカルで6人ぐらいが同時に歌っていて、
個々に歌う内容がわからない状態に似ている?
・・・なので、これを読んだからといってこの時期について100%の把握は
できないが、かなりヒントはもらえる。
まだじっくり咀嚼していないが、さらさらと読んだだけでも楽しい。

さて、ここでもあの男が登場する。永井主水正(当時は大目付)だ。
上田さん、永井さんと短い時間で仲良くなり、長州征伐などについても
よく話し合っているのだ。
どうでもいい話だが、上田に煙草をお土産にもらった永井はお礼に
さっと扇子に漢詩をしたためてプレゼントしている。さすが文人、風流だ。
(酒好きなのは有名ですが、煙管なんかをカンカンとやっちゃうんですね。
永井さんは。粋だなぁ・・・(笑))

ちょっと面白かったのは、この時期の京といえば新選組。彼らの名も登場するのだ。
慶応元年十月二十二日の項に、

朝柳井来、新選組武田観柳、伊藤甲子太郎、沖田総司来、北京ニ盧俊義アルヲ知ル故也、来客多忙、夕河添来、余醉倒、
(漢字は史料のまま)

・・・・・・・このいっけんするとありえないメンバーで上田に会いにきている(爆)。

いろいろなヒントをくれた上田だが、郷里にかえって維新をむかえ、
思ってもいない形で政権がかわり、無念の思いはいかばかりだっただろうかと
推察されるが、それを押し黙って静かに余生を過ごしてたが、
西南戦争のおり、西郷に味方したとの勝手な罪状で処刑されてしまう。
京では会っていたかもしれないが、明治になって、西南戦争のおりには
一度も会っていないと主張するも聞く耳をもたれなかったらしい。
天下安寧のために奔走した上田の扱いとしては、あまりに酷くはないか?政府軍よ。
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# by aroe-happyq | 2007-01-06 11:11 | 広く幕末ネタ | Comments(0)

傷城~勝手に注目作!

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大好きな香港映画が低迷して随分経つ。
香港に行ってまでみたい映画がなくなり、DVDで鑑賞することが
多くなり、そしてそれさえもダダ減りになってはや2年。

かつてはDVDにしろ、映画をみにいったにしろ、
「おおー!」と期待していなかったのにとんでもない作品
というものに3つに1こぐらいはあった。
その出会いの瞬間の感動をまた味わいたくて、
また見てしまう・・・・・・それがわたしの香港映画だった。

もうやめよう、と数年前、最後にしようと「無間道」DVDを
香港から通販して(爆)みたところ、超ド級にすごかった。
のちにこれは「インファナル・アンフェア」として日本でもそこそこ有名になったが、
(ハリウッドで「ディパーデッド」としてリメイクされましたが・・・・・。
間違いなく「無間道」のほうが良い!)
そのスタッフと主演の梁朝偉が新たに金城武を迎えて、
新しく映画をとった・・・・・のが、この「傷城」。

まだ未見だが、なんだかよさそうな予感がする。

周星馳の新作まで、どうかわたしの香港映画魂を
この映画が癒してくれることを祈ろう。

はやくDVD出てくださーい!

追記。
ちょうど香港から帰ってきた友人がこれを観てきたそうな。
その上映回も満員でやっと見たらしく、そしてとても面白かったそうな!
まさに「無間道」のときと同じ感じだ。
ますます楽しみになってきた!!
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# by aroe-happyq | 2007-01-05 10:04 | 香港&アジア映画 | Comments(0)
年末に図書館でみつけて一部をコピった本を読みました。
といっても関心のあったのは江戸時代の肉食の普及と、明治の牛乳ブームについての項目。

肉食は安永元年(1772)に平河町に「山奥屋」という猪や鹿、猿の肉を売
っていた店があったそうで、けっこう昔からこっそり流行していたのに驚き
ました。
もちろん店が増え始めたのは安政年間のことで、これらには蘭学の影響
があったと、加茂儀一さん(榎本武揚の本で有名な!)が『日本畜産史』
で指摘されているそうです
が、やはりそういうものだったのか、とまたまた関心しきり。
肉食の話とともに興味深いのが、牛乳の話。
ハリスと牛乳、そして横浜開港と牛乳・・・・つまり外国人が住むように
なってから牛乳は次第に普及していったのですね。
この本には触れられていませんでしたが、日本で牛乳といえば水戸藩。
黄門様でおなじみの光圀公以来、
水戸藩では牛を飼い、牛乳を飲んで、たまに肉も食べていた由。
(だから慶喜さんは肉も好んで食べるので「豚一さん」と呼ばれていたの
ですよね)
だが、水戸藩と関係ところで、明治になって東京は牧場だらけになった!
武士のなかで新しい産業に手を出すものが多かったことと、旧武家屋敷
の空き地を牧場にあてやすかったことなど、理由はたくさんある、そうな。
驚くのが明治19年当時の都内の牧場数。
文京区15、千代田区14、港区29、新宿区18、
台東区16、中央区15などなど。
・・・・・たしか松本良順さんや榎本さんも牧場持っていましたっけ・・・。
都心に牧場だらけっす。
明治の東京ってなんと鄙びた・・・・首都だったのでしょう。
三条実美でしたっけ、「江戸なんて草むらに戻せばいいのだ」的な発言を
したのは。
見事に草むらっす。江戸の風情は台無しでございます・・・・(涙)。

気を取り直して。
この本では明治の牛鍋屋事情も紹介しています。
おもな客層は書生、商人、新しいもの好きな役人、そして西郷や大久保
などの政府高官がよく訪れたとか。
文明開化の名の下に、牛鍋普及につとめたので、彼らは率先して肉を
食べたのですね。

という、この本はJA東京の出版物なので、都内の図書館なら置いてあるかもです。
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# by aroe-happyq | 2007-01-04 10:32 | | Comments(0)
寝込んでしまい、3日遅れになってしまいました・・・。

ゆるい更新ではありますが、のんびりと今年もやってまいりたいと思います。

とはいえ、初詣も旧暦にいくので、
なんだか微妙に正月気分ではありません(笑)。

早くカゼを治してまた本三昧モードに戻りたい・・・。

今年の抱負は何といっても、長崎に行く! です。
・・・・・香港に行きたいけどこれを我慢して、まずは長崎。
長崎伝習所をしのぶ旅!をやらないと、です。

スケジュールとの戦いが待っている・・・・むむむ。
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# by aroe-happyq | 2007-01-03 10:18 | ほんの世間話 | Comments(0)
年末に突然パソコンを買い換える羽目になって、
てんてこまいの数日ですっかり更新が滞ってしまいました。

旧パソとの最後の夜、ふと近所の図書館を検索したら、全巻そろいでこの本があった・・・・。
ないと思って国会図書館でコピーしたのに、・・・・トホホ。
さっそく借りてきて、暇をみつけては読みまくりました。
一部コピーのときと違って、全体をみると、徳川公儀の情報収集力が
なかなかすごいことを思い知らされました。
たまたま井伊家に残されていた安政年間のものなので、
大獄前後ということもあって、暗い話題ばかりの探索書ですが、
嘘を並べ立てるのではなく、裏づけをしっかりとっているし、
かなりプロ意識をもってこの報告書は作成されています。
(この情報を煮るなり焼くなりする手腕は老中や大老まかせだけど(笑))

たとえば、馴染みなのであげさせていただくと、作事奉行岩瀬忠震に関するレポ。
これはもちろん一橋派の岩瀬を、紀州派の井伊大老としてはどうにかして、
追い込んでやりたいために調べさせたもので、できるだけ「悪い噂」を探り
ださなければならない。ところが、かなり岩瀬家に入り込んで調べても汚職といわれるネタ
がなく、プライベートな問題ばかり。
徒目付たちは、そのあたり正直にありのまま報告している。
(ちょっと悔しそう?なムードさえ行間から匂うような(爆))
ほかの探索書を合わせて読むと、かなり正確なのだ。

で、やっぱり考えてしまう。
この探索書・・・・・阿部正弘時代のものはないのだろうか?
というより、その後の幕末のものでもいい、世相もわかるし、さまざまな地方の動向も
わかるのでどんどん発見されることを願ったりしますっっ。
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# by aroe-happyq | 2006-12-31 10:13 | 広く幕末ネタ | Comments(0)
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旗本本といえば小川恭一さん。←断言

・・・・薄い本の割りにちょっとお値段がはるので躊躇していたけれど、
好奇心には勝てず、購入。

読み始めたら忽ち、はまりました。
旗本のみなさんのふつーの暮らしが目に浮かぶようで楽しすぎです!
思えば、江戸本というのは庶民の暮らしの本は多々あるけれど、
旗本さんの暮らしはあまり紹介されていないような気がする。

とにかく旗本たるもの、交友関係の行き来が激しいし、贈り物のやりとりも頻繁。
というか挨拶まわりが仕事のような、人生のような・・・・・・・・。
そして、大名だろうが、奉行だろうが、寄合だろうが、小普請だろうが、
贈り物好き。多めにもらったものをお裾分けし、
自分の庭の畑でとれたものをあげたり、もらったりしている微笑ましい暮らし。
侍が畑をやらないなんて嘘ですね(もちろん当主自らが草を刈るわけではないけど)。

そのほか、いろいろなことがわかって、とーても面白いです。
(全部紹介しては営業妨害なので差し控えます)
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# by aroe-happyq | 2006-12-25 14:41 | | Comments(0)
オズボーンの本を読んだということで、久々にとりだしたコピーの山より。

『井伊家史料 幕末風聞探索書』上にこの英国使節接待について、
誰が書いたか不明の「江戸風聞」書きがある。
(あて先は井伊大老など閣老中枢←異国風が嫌い派)
風聞探索書というのは、御徒目付や小人目付、茶坊主などが老中や大老へ送るレポで、
その内容は江戸のほか、水戸や京都など遠隔地の情報、役人の行状、
町の様子など多岐にわたっている。
今回は役人の行状についてのチェックレポということになる。

安政五年七月   (江戸風聞)

一此度英人御取扱全く御御両候御働にて、御都合宜き事。
                               岩瀬肥後守
                               永井玄蕃頭
 右(ここでは上)両人は邪智奸侫の者一印の徒の有之、御要心の事。
一堀田(備中守)同類異國風をこのみ、彼れに諂ひ候由の事。
一右様の者外國奉行申付其一術に有之、当時勤振考中の事。
                               堀織部正
                               井上信濃守

 右両人岩瀬・永井に同意の事。
 但岩瀬・永井如き邪智は無之、織部の方は随分手堅き趣にも相聞候得共、異國風に染候事は同前。

   (略)

                               水野筑後守
 右素より同役とは見込別段に付、先達岩瀬・永井等堀田へ申立、應接をはなれ候事。
一今度外國奉行の内、筑後を邪魔に致候趣に付、又々讒訴可致も難計御要心の事。
   (以下、略)  

要約すると、英国使節の応接を岩瀬・永井はよくやっていた、が!(爆)
悪知恵が働くし、外国の風俗に染まっていて危険である。                       堀と井上は岩瀬たちのように悪知恵はない。堀はかなり手堅いらしいが、彼らも外国の風俗に染まっているのは同じ。
水野は外国奉行の同僚(岩瀬・永井・井上・堀)とは意見が違い、応接役から離れた。また邪魔にされているらしい。
・・・・・という感じ。

外国奉行ゴレンジャーが揃い踏みでの初仕事だったのに、なんだか書かれたい放題。
岩瀬&永井を邪智奸侫の者だなんて、失礼な(笑)。
なんだか随分ひどいレポートだが、これなどはまだ優しいほう。
(岩瀬を弾劾したくてたまらないレポなんて、とんでもない内容だし)
彼らは一橋派だから他ではもっと書かれている。
これのように、誉められているだけでも、びっくりなのだ。

・・・・・・・しかし、水野、やはりひとりぼっちか・・・・・・・・・・。
(永井と一緒に英国使節接待をやってたはずなんだけどなぁ)


英国の本には好意的に書かれているのに、なぜか本国のレポでは
けちょんけちょんというのが哀しくて、ちょっと掲載してみました。

というかこういう裏レポが残っていたというのもなんだか凄い話ですけど、井伊さん家って。
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# by aroe-happyq | 2006-12-23 10:29 | 外国奉行ズ | Comments(0)

江島生島事件。

絢爛豪華な映画になって、六代一派をこよなく愛する自分としては
有難いやら有難くないやら(爆)。
・・・・・なにより、家宣は出てこないしだし(笑)。
ま、それはさておき。

江島事件というのは、講談やドラマで脚色されたように
艶めいた話ではまったくないのが、真実の姿。

時は、幼少の七代家継を擁して、生母月光院を守り、先代の遺志を貫く
側用人・間部詮房と学者の新井白石のツートップ体制の時代。

なんとかして彼らを追い落とそうと虎視眈々と狙う一派がたくさんあった。
ひとつは次期将軍職を狙う、紀州吉宗一派。
ひとつは側用人に実権を奪われている幕閣有志一派。
そして、家宣の未亡人にして、朝廷にも太いパイプを持つ、
天英院こと近衛熙子の京一派。

彼らは最初、間部詮房と若き将軍生母の月光院のスキャンダルを
もくろんだ。
間部詮房は能役者出身で美丈夫のうえ、独身。
(若い頃に一度妻帯したが妻が病死後は再婚せず)
月光院もまた若くて美しい女ざかり。
誰もが飛びつくネタかとおもいきや、あえなく失敗。
理由は、詮房は先代文昭院家宣とは、一身同体の仲、ということが
江戸城中の一般常識で、月光院に手を出すタイプではないと
(女に興味がないとさえ?思われていたらしい←そういうわけでもないのだが)
いうことで、スキャンダルを誰も信じなかったのだった。
そもそも間部は寝食を忘れて、屋敷にも帰らずに政務に没頭していて
そんな暇はないぞ、という仕事が生きがいなタイプ・・・・・・みたいだし。

そこで反対派は月光院の脇から崩すことにした。
それが江島疑獄。

江島は女中を連れて、文昭院のお墓参りの代参で外出した。
大奥の慣例で、代参の帰りには芝居見物をして少しだけ羽をのばしてよい
ことになっていたので、江島も当然のことながら、芝居をみてご馳走を食べた。
そこの場で人気役者の生島の挨拶など受けている。
問題は、江島一行が城の門限に遅れてしまったことだった。
しかし門番に怒られつつ、ちゃんと城に入れてもらえたし、
なんのお咎めもなく、数日が過ぎた。
ところが、しばらくして突然、門限に遅れたことが大事にされ始め、
取調べが始まるのだった。
生島ら町人には厳しい詮議があり、拷問さえあったという。
こうして江島の不義がでっち上げられ、月光院一派は大粛清をうけた。
間部や新井たちには累は及ばなかったが、彼らは味方の勢力を削がれて大打撃。
江島は高遠に流され、生島や家継のお気に入り奥医師交竹院も遠島となった。
生島にしたら、なぜそうなったのかさえ、わからないことだったろう。
彼の芝居小屋は永久に取り潰され、江戸は最後まで三座であった。
トバッチリを受けたではすまない、演劇史に深く影響したとんでもない大事件だったのだ。

せめて講談にあるように江島と生島は道ならぬ恋に落ちたら・・・・・
でもそれさえないのだから(汗)。

だが江戸の政治史をみていると、江戸出身(育ちも含む)の者は
京もしくはその近辺出身の者には陰謀の面で勝った試しがない。

間部・月光院派しかり、安政期の一橋派しかり。←皆、江戸っ子

対する天英院・紀州派、井伊&紀州派(紀州ばっか?)の入念な罠の前には
江戸産は勝てません(涙)。

それがいいか悪いかはさておき、
江島はどうみても隙があったわけで、彼女の罪といえば、
自分に置かれている場所が戦場の最前線であることを理解していなかった
ということ。まさに迂闊者だったといえよう。
(安政の一橋派の旗本連もまた同じかも・・・・・)

というわけで、江島事件とは実のところ、ロマンチックのかけらもない
ドロドロの政治陰謀事件なのだ。

とはいえ、天英院の陰謀参加目的は、やっぱり旦那の家宣が
寵愛した間部とか月光院が憎かった気持ち、嫉妬心だったかもしれない。
家宣が将軍になるにあたり、朝廷や公家関係に働きかけて、
夫を陰から支えたのは天英院熙子だった。
賢くて、男だったら相当な政治家になれたといわれ、
プライドの高い彼女は本音の感情を口には絶対出さなかったと
思われ、何十年もじっと機会をうかがっていたのかも・・・・と思うと、
女の恨みは怖い???

この事件ののち、ほどなくして家継は病死し、吉宗の世になった。
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# by aroe-happyq | 2006-12-22 14:23 | ちょっと元禄・正徳 | Comments(0)
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『東亰時代』を買いにいったとき、同じ講談社学術文庫にあったのがコレ
先月写真展で感慨深かった、あの使節団についてよく知りたくなって、思わず買った一冊。つまり衝動買い・・・・・。

咸臨丸のチームの旅は中公新書『軍艦奉行木村摂津守』にも詳しく紹介されて
いたので知っていたが、ワシントンなどを回った東海岸使節チーム(こっちが正使ですが)
については未知の世界だったので、この本はその全貌を明らかにしていて、
たいへんに興味深い内容だった。
まず、あとにもさきにもこんなにアメリカに歓迎された日本の外交団っていない!
写真展でもびっくりし感動したが、このパレードの盛り上がりぶりっていったい!?
・・・なのに、アメリカのメシはマズイ!と愚痴る人もあり(爆)、意外にも
そんな大歓迎を有難がらない、クールな日本使節メンバーに笑えてしまう。
(歓迎パレードなんかで感涙するような日本人は明治にならんと現われんのか?)
とはいえ、けっこう楽しんでいるのも、偽らざる本音。

問題はこの77人の日本人の経験がその後、ごく一部しか生かされなかったこと。
(阿部か堀田政権下で岩瀬忠震と永井玄蕃頭が行っていたら、ぜんぜん違っただろう)
本当に惜しい・・・。
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# by aroe-happyq | 2006-12-21 10:53 | | Comments(0)
榎本釜次郎さんは脱走(8月のほう)の際、ふたつの檄文ともいうべきものを、
勝さんへ手紙とともに送っている。
前々からなぜ二つあるのかな?と思っていたのでした。
内容的はそれほど変わらないのに、と。
短いほうをアレンジして、より正式な書式にしたものが長いほう?
でもなぜどっちも勝さんに送ったのだろう。

東洋文庫『後は昔の記 他 林董回顧録 』 林董 著 を
久しぶりにぱらぱらとみたら、あっさりと事情は判明。

品川を脱走、蝦夷地に赴く の章(25P)に、

此時榎本氏並に永井玄蕃氏は脱走の主意書を起草して、
外国公使の上席なる英国公使サー・ハリー・パークスに送る。
其英文は予が作る処なり。


・・・・また、永井玄蕃(爆)。出た~~という感じ。
(幕末史の舞台の袖近くにいつもあなたはいる!?)

つまり、最初に短いほうのを榎本さんが作っていて、
家来共々釣り船に変装してやってきた文人政治家永井さんに、
「徳川家臣大挙告文」という堂々たる文章にしてもらったわけ
・・・・・なのでしょうか。
(で、それを林さんが英文に直して公使館に送ったわけですね)

勝さんの慶応四年8月24の日記(勁草書房版『勝海舟全集19』)に、

是等を以て考うれば、我が軍艦の士等、
小節小細工の輩に鼓動せられ、
忽ち軽挙に及びしか、知るべからず。
永井主水の乗組みたる、尤も以って怪しむべきなり。


・・・・とまるで脱走そのものを永井の企みのように勘繰っていますが、
この告文の作者(といっても榎本さんとのコラボ作品だが)が永井とわかり、
しかも二通も送られてくれば、こういう気持ちになるのも無理はない。
・・・・ちょっと裏切られた気分?みたいな(笑)。
(これが二人のこの後しばらく続いた、関係のシコリだったりして(爆))

榎本さんの本によく出ている「徳川家臣大挙告文」を、
with永井の共同作品として、あらためて味わいたいと思う。

なにはともあれ、回顧録に書いてくれた林さんに感謝。
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# by aroe-happyq | 2006-12-19 18:56 | 長崎伝習所系 | Comments(0)

『東亰時代』、読了。

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『東亰時代~江戸のと東京のはざまで』かつてNHKブックスから刊行された本が
新たに講談社学術文庫で再登場。
・・・・したのは6月だったらしいけれど、
私は最近この本の存在に気がついた(汗)。

江戸の風景を知るのは密かな楽しみの
ひとつで、いままでも『江戸の夕栄』や
『名ごりの夢』など、幕末の江戸のふつ
うの暮らしの懐古本をわくわくして読んだ。

そしてこの「とうけいじだい」。
旧幕の人々は「とうきょう」ではなく、「とうけい」といったそうだ。

そして京の字も亰になっている、江戸でもなく東京でもない
ほんの少しの時代を描く一冊となっている。
誰もが予想していなかった、徳川瓦解。
あまりの変化に自分がその時代にいたら、どうしただろうと思うとかなり恐ろしい。
間違いなく、みんなこの混乱はたいへんだったはずだ。

それなのに人はたくましい。
みな、生き生きしている。
かなりまぶしいぞ~~!というくらいに。

人物伝や日記、書簡は大好きだけど、
たまにその人々が生きていた時代というものに触れるのも好きだ。
でもなかなこういう本って出会えないのが寂しい。

というわけで、久々に江戸~明治情緒を楽しんでみました。
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# by aroe-happyq | 2006-12-17 17:38 | | Comments(4)
オズボーン『日本への航海』を読書中。
エルギン卿の本と同じく、英国側からの記録です。
やっぱりロイヤルネイヴィー・・・・・冷静かつ大英帝国目線(誉めているつもり)の航海記。

さてそんな皮肉屋なオズボーンが珍しく誉めている!?人物。
それがなんと、永井玄蕃頭・・・・・・・・・。
船の蒸気機関の部品と用途についてすぐれた知識をもっているとか、
(長崎伝習所で生徒に混ざって講習を受けただけはあります!)

この「誇り高い提督」が日本製フリゲート艦「亡霊船」を進水させたのだから、
彼こそはあるアメリカ人たちが彼に捧げた名前、海軍卿閣下の称号を受けるにふさわしい人物だ。
(以上、『日本への航海』170ページより)

海軍卿閣下。まずそれを言っていたアメリカ人とは誰~~?
もっと言ってあげてください。

それにしても、永井を悪くいう人ってホントにいない。
立派な人だったのですね。

12月14日追記。
この条約締結のおり、英国から最新式の軍艦を日本はもらう。
その引渡し式がまたかっこいい。
日本側、英国側からそれぞれ祝砲があって、
海軍卿閣下(爆)永井氏が日本側代表として受け取ると、
日本側の乗組員がさっと持ち場について、この軍艦を動かしてみせるのだ。
(最新式蒸気機関の特訓は英国側から一週間みっちり受けたらしいが)
この時期の江戸詰め海軍メンバーといえば、一期生。
やはり矢田堀艦長、そして
中島三郎助、小野友五郎などなど勢ぞろいではなかろうか。

英国側から海軍メンバーの手際のよさを誉められて、
海軍卿閣下も鼻が高かったでしょう☆
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# by aroe-happyq | 2006-12-12 14:06 | 長崎伝習所系 | Comments(0)
『ペリー日本随行記』を読みました。

ペリーが自身で後にまとめた『ペリー日本遠征記』とは違い、随行員で日本はこれで二回目
の著者ウイリアムズの的確な観察が面白い本でした。

本当は中島三郎助のエピソードをひろって・・・・なんて思っていたら、
とんでもない文章が!!

福州(清国の大貿易港です。今の福建ですね)にいったら、
日本の小判とか、ほかの貨幣が流通、つまりそこで使えたというのです。

日本って鎖国なんてしていないじゃないの?
それって西洋(というかキリスト教の国)とあまりお付き合いしたくなかっただけで、
東洋ではフツーに交易していたわけですね。
清とは阿蘭陀とともに「通商」国としてのお付き合いがあったので、福州で通貨が使えても
おかしい話ではない。だけど、長崎限定だとばかりおもっていました。
つまり清に出かけていって商売をしていなかったものとおもっていたら、していたのですね。

たった二行だけど、ウイリアムズ、あなたも驚いたようだけど(笑)、
書き記していてくれて、ありがとう~~~。
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# by aroe-happyq | 2006-12-10 10:53 | 広く幕末ネタ | Comments(0)
古本を購入する機会は多い。
日本の古本屋さんやアマゾン(日本)、スーパー源氏、それからなくなってしまったが、
楽天フリマなどが主であった。

だけど洋書の古本はやはり、アマゾン(アメリカ)かなと思い、
ホーンブロワーにはまったついでに、マスターアンドコマンダーのメイキング本も
買ったのだ。
相手は大手の古本チェーンだった。
海外発送は個人の売り手はなかなかしてくれないのだ。

そして、
2週間以上はかかる、といわれた本は一週間以内にやってきて、
状態もとてもよかった。梱包もたいへん丁寧。

なので、さっそく評価した。

そこで驚いたのが、日本のアマゾンになくて、本家アマゾンにあったアンケート。

1.期限以内に諸品は届きましたか? YES/NO
2・売り手によって説明されるようにあなたの商品は状態で届きましたか YES/NO
3.もし、あなたが売り手に連絡をとった場合、対応は丁寧でしたか? YES/NO

ささやかなアンケートだけど、評価するひとりひとりがこれに応えた場合、
かなりのデータになる。これはナイスなアイデアだと思う。

日本アマゾンも、こういうささやかだが、的確な対応をとったらいいのにな。
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# by aroe-happyq | 2006-12-08 10:15 | ほんの世間話 | Comments(0)
勁草書房の「勝海舟全集」収録の勝海舟日記全4巻を読んだ。
勝海舟研究者の松浦玲さんによればこの全集の日記は編集者が読めないところを
飛ばしたり、勝手にカットしたりしたよろしくない日記というが、なにせ明治時代までの
日記はここでしか読めないので、古本屋でお安くみつけたのでゲットしたのであった。

知りたいことは山ほどあったので読んでいて楽しかったが、

今回は勝さんと永井さん、そして榎本さんの「それから」。

この三名は長崎伝習所以来の開国仲間だ。
永井総監のもと、勝麟太郎は苦手な数学に悪戦苦闘し、船酔い体質を克服しようとした。
第一期生にはなれなかった榎本釜次郎は親友の矢田堀の従者身分でやってきて、員外生として学び、二期生で正式な伝習生となった。
それ以後、外国奉行、軍艦奉行となった永井に、
留学したい~~と言い続けていた二人は、永井の引き立てやその同僚(水野や岩瀬などなど)のあっせんもあったりで、勝は咸臨丸でアメリカ視察に、榎本は留学を果たした。
永井と勝、永井と榎本、勝と榎本とはそれぞれが違った形での友情を築いていったように思われる。

そんななか、明治元年の脱走は、榎本釜次郎と永井玄蕃が、長崎以来親しかった勝海舟の面目を潰す行為であり、あえてそれをやったという、三人にとっては大きな転機となった。

その後、釜次郎さんと勝は疎遠になったとか、いろいろ言われているが、
日記を読んでいて、そんなことがぜんぜんないことがわかった・・・・・・・。
つか、出獄した翌日には榎本さんてば、赤坂の勝さん邸にお礼と挨拶にいっているし。
それからも回数は多くはないけど、勝さん宅にお邪魔しているし、時々榎本邸にもいっている。
(講談社版の勝海舟全集の来簡集にも、榎本さんのお手紙にロシアにいくのに勝の写真をもらいにいく(お守り代わりにするのか?)、みたいな内容があるし、あいかわらずのお付き合いをしていたらしい)

問題は永井と勝のほうかもしれない。
ずっと永井は勝さん邸に現われない。たとえ大鳥さんやいろいろな箱館関係の人が出入りするようになっても、だ。
もしかして、やっぱりこの二人、明治初年にもめたのか?

だけど、それが突然・・・・・。
すべての官職をやめた永井が親友の旧岩瀬の別荘を買って住まう時期から、
来訪がはじまっている。
おそらく岩瀬邸を買うための借金を、最初は徳川宗家に相談したらしい永井は、
「勝さんところにいってみて」ということで、顔をだしたらしい。十何年ぶりかもしれない。
なぜ、勝サンところなのかというと、勝さんを窓口にして、
旧幕人のための私設の徳川銀行が営まれていたらしいのだ。
(大鳥さんや三条さんなどがお金を用立てにもらいに来ている)
で、渋々?永井は顔をだしたところ?・・・・・・あっという間にコンビは復活。
無事にローンを組んで旧岩瀬邸に住み始めた永井さん・・・・・・・・・。
なんと、近所(向島)の地主と仲良くなるや、いらない土地の権利を、
勝さんに紹介するようになる。徳川銀行に不動産部門もあったようだ。

それからはなんだか、毎日永井と勝は不動産業の用事で会っていて(爆)、
ホントに毎日、毎日、手紙のやりとりやら、面会やらで、忙しい。
気がつけば一緒に静岡の慶喜さんところ?に旅までいくし、
その親しき関係が永井さんが亡くなる寸前まで続く。

で、榎本さんは徳川銀行のお世話になった形跡はなく、
(こういうあたりが正統派江戸ッ児釜さんという感じ。金の心配は他人にゃさせねぇ、
全部てめぇで片付けるのさ、という具合か?)
ただ勝さんとお話がしたくてやってきている。
大臣歴任時代は官舎は近くなのか、ちょっと頻繁だ。
たまに永井さんが来ている勝邸でばったり、などもあり、長崎トリオで宴会もアリだったらしい。

それにしても徳川銀行とは。
ちなみに骨董コレクション部門もあったようで、
出物があると、
家慶将軍直伝の「本物を知る男」こと超目利きの歩く鑑定士・木村芥舟さんを動員して、
勝は収集事業も展開している。
ときには流出した徳川家の家宝を買い戻し、宗家にも信頼が篤い様子だ。

よくもののホンに、勝海舟は明治時代には蓄財し、不動産や骨董もやってきた、
とあるが、どうやらほとんどは徳川銀行絡みなわけだ。

武士が銀行とはなんだ、というかもしれないが、
これも御家のための立派なご奉公だ。
財力があれば、藩閥政治はびこるなかで、
ある一定の勢力として、徳川家は維持し続けることができる。
それに旧幕人の救済もできる。
永井が旧岩瀬邸購入をきっかけにこの事業にどんどん関わろうとしたのも、
そのためなのだから。
(たまには紹介料をもらって、それで返金したりもあったようだが(笑))

おそらく明治初年、脱走する、させない、で勝さんと永井&榎本はもめたはず。
だけど、江戸侍のいいところはわだかまりを生涯は引き摺らず、
意地を張るから時間もかかるが、きっかけがあればあっという間に氷解する
あたりのサバサバ感だ。
この日記をよんで、そんな心地よさを感じた。

その後、調べたら永井の葬儀では勝と榎本がそれぞれ追悼文を読んだらしいので、
なんだか、よかった、よかったという感じ。

この日記についてはまたおりおりに触れます☆
(面白ネタも多々あったので)
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# by aroe-happyq | 2006-12-07 18:49 | 長崎伝習所系 | Comments(0)
なんと1月2日から開催です。
江戸城は、深海さんの『江戸城をよむ』でかなり内部構造に詳しくなってはきた
つもりですが、まだまだよくわからない事が多いのです。
そんなときになんとタイムリーな!築城550年記念とは!!
というわけで、江戸城展


サイトをみていると展示品のなかに、
大奥おさざれ石の絵が!!
おさざれ石とは正月に御台所が上臈年寄とおこなう儀式で、
このとき唄ったのが「君が代は~~、千代に八千代に・・・」
っておい!君が代?!という・・・・・・・いわくつきの儀式。
(明治になって紆余曲折のはてに国歌になっちゃったとか)
これについてもよく知りたいと思っていたところでした。

かならず行きます~~!!
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# by aroe-happyq | 2006-12-06 10:38 | 江戸東京あれこれ | Comments(0)

アジアンエンタメ&お江戸後期。外国奉行や長崎海軍伝習所がご贔屓☆ BYはな。


by aroe-happyq