東都アロエ

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アジアンエンタメ&お江戸後期。外国奉行や長崎海軍伝習所がご贔屓☆ BYはな。

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(←画像をアップしたら白い本なのでどこまでが本だかわからないっっ)

随分まえに近所の図書館でみかけた、浜離宮と幕末に焦点をあてた本。
本屋さんで見かけたら、もう一度読みたくなって買ってしまった・・・・。
自分はホントに御浜御殿が好きなのだ、と改めて実感(笑)。確かに十年ぐらい前、まだ汐留がJR跡地で伊達家屋敷の大規模発掘調査中だった頃に、何度も足を運んだ。
今は汐サイトとかいうビル群に囲まれてしまったが、その当時は潮風も心地よく、空もよくみえて、とても良い気分を味わった。
ただその頃は甲州藩下屋敷を偲ぶツアーとして、友人を案内したのだが・・・。
時を経て、幕末までちょっとかじってみると、むむむここは徳川海軍にとって
とても重要な場所だし、木村摂津守の育った家(爆)でもあったのだ。
この本はそうした幕末の、木村御浜奉行の管理する将軍の庭だった浜御殿から、
軍艦操練所、そして幕末を経てめまぐるしく変っていくこの場所について紹介している。

細かい箇所で間違いがあるものの(エラそうですいません)、面白い話をたくさん
知ることができる。
例えばペリーからもらった通信機をここで初めて将軍家定に披露した場であるとか、
(通信機を動かした日本初の場所になるのかな?)
家茂の棺が大阪から上陸したのもこの地。
そういえば、大阪から開陽で“帰ってきちゃった”
慶喜と会津、桑名、板倉一行もここから上陸したわけだ。
(ついでにいうと、お腹が減っていた彼らにこの浜御殿で木村芥舟がビスケットを
食べさせたという可愛い?エピソードの地でもある・・・)

最初は甲州家の海手屋敷となり、将軍の庭になり、軍艦に乗るVIPの出発の場になり、
パークスや朝廷の使いを接待する場所になり、明治になったら鹿鳴館もありましたっけ(汗)。
この江戸初期の埋立地も幕末~明治には随分活躍したのですね。
今は都民の憩いの場、公園(とはいえ有料)になっておりますが。

再訪して、しみじみと往時を偲んでみたいものですが、今は高層ビルに囲まれて
かなりしょぼん・・・なので、頭のなかだけにしておこうっと。
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# by aroe-happyq | 2007-02-04 18:27 | | Comments(0)
とうとう出ましたか!? 日本書紀が歴史の捏造だらけの証拠が!?
・・・・とわくわくしてみた、昨日のNHKスペシャル。
面白かったです!

大唐帝国や近隣諸国との融和を図りつつ、飛鳥の都の防衛を固め、天皇(でもこの時代はまだ大王)を守護する蘇我氏三代。彼らは渡来系の一族ということもあり、開明派であった。
一方、保守攘夷派の中大兄はそんな蘇我氏の方針が気に入らず、中臣鎌足とともに、
ついにクーデターを起して、蘇我氏を滅ぼす。
蘇我氏亡き後、中大兄は新たな改革案もないまま、天皇への忠誠を強めようとキャンペーンを展開(尊王キャンペーンとでもいうか・・・)なんとかその場をしのいだが、
同盟国百済が唐や新羅連合軍に攻められると、情勢判断もしないまま、意気揚々と大軍を派遣して、見事なまでの惨敗を喫した(白村江の戦い)。
その後、天智天皇となった彼はあわてて、唐からの攻撃に恐れつつ、中央集権、律令国家の道へと歩み始める。
・・・・・・・つまり、大化の改新といわれるものはなかった。

というのが、発掘や史料の読み直しから現時点で分析したこの番組の説。

大化の改新については以前から怪しいなぁと思っていた。
信用がおけない日本書紀でもいくつか真実といえる記述を拾っても、
蘇我氏が奸臣だとするなら、それを倒した中大兄に向かってその母斉明天皇が、なんということをしてくれたのだとひどく怒ったとか、改革の具体案がぜんぜん載っていないとか、蘇我氏の名前が馬子だの入鹿だのとわざと動物の名前に変えているクサイとか(一生懸命蘇我氏を貶めないと自分たちが肯定できないのか?という疑問が)、日本古代史の素人の自分からみても、なんとも釈然としなかったのです。
そんなわけで、昨夜は少しだけすっきりしました(笑)。

しかし、開明派っていつの世も脇が甘いのですかね?(涙)
頭の固い保守派にあっさりやられちゃう。
そして日本って開明派より復古的な保守派が「~○新」とかいって、秩序をぶっ壊すだけ壊して、せっかくの進歩の芽を摘んで、(でも必要に迫られて結局は開明派のやろうとしたことを急いで真似て)わざわざ遠回りをするのが好きな国なのか?

ちょっと重いため息がでちゃいます・・・・・・。
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# by aroe-happyq | 2007-02-03 10:52 | ほんの世間話 | Comments(0)
昨年?おととし?のCUTで初めてこの映画の製作を知ってからずっと楽しみだった映画。
ソフィア・コッポラ監督なら予算はかけまくりだろうし、
ポップな映画になるだろうと思っていたら、
まったくそのとおりのゴージャスな作品になっていた!

とはいえ・・・・映画をみて驚いちゃったのは、
「ベルサイユのばら」って改めて、凄いってこと!

この映画は最近出されたイギリスの歴史家のマリーアントワネットに関する伝記をもとに
作ったそうだけど、「それまで悪女というイメージだけでない、等身大の彼女の姿がはじめて浮き彫りにされた」というが、日本の漫画はもうン十年前に、すでにその境地に到達していたのだ。
池田理代子さん、よくぞお調べになられました。すごいです、ホント。
なので、あらすじは昔に親しんだベルばらを思い出しながら、まるでなぞっていった感じで、
単にオスカルとアンドレ、というかジャルジェ家がないだけ!?(爆笑)でした。
いやぁ、日本の名作漫画のレベルの高さに改めて驚きっす。

というストーリー面は置いといて、ベルサイユ宮殿全面協力という恵まれた映画だけあって、
英語という以外は(フランス語のほうがムード出る!)、とても満足でした。
お菓子も美味しそうだし、フランス王朝の因習(王族にプライバシーはなく、出産までギャラリーがいる世界)についても本で読んではいたけど、映画でみるととんでもなく、ぎゃほー(@のだめ)な感じでした。
マリーといえば「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」
で有名ですが、これってただのゴシップ記事だった、というのは新鮮でした。
いや、こうして反対派の宣伝がまるで事実のように歴史で語り継がれてしまうって
ままあること。怖いですね、悪意あるメディア情報と人の噂って(汗)。

さてさて、この映画、賛否両論だそうですが、
歴史映画って真面目で、暗いだけじゃ面白くない。
ホントはこういう映画をフランス人の手で作ってほしいけど、なかなかブルボン王朝を賛美
するっぽい映画はまだまだ作りにくいだろうし。
だから、ハリウッド映画で、現代からのこういう形のアプローチもアリ!だと思いました。

ただタイトル的には「ベルサイユのマリーアントワネット」のほうが妥当かな?
(ネタバレになるのでわけは書けません)
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# by aroe-happyq | 2007-02-02 10:51 | ほんの世間話 | Comments(0)
本日、2月1日は旧暦の12月14日。
つまり、元禄15年に赤穂浪士が吉良邸に討ち入った日。

たしかその日って大雪の次の日だったはず。

平成の今日は雪の気配ゼロの、かなりの暖冬です!
昨日なんて春かと思っちゃいました。
この気候の違いはなんだ!(笑)

赤穂の浪士の義挙、ということで有名だけど、
吉良さんの事情を思うとちょっと胸がいたい。

賄賂をねだったとか、いじめたとか、こういう有名な話は実のところ、
浅野さんがなぜ吉良さんを襲撃したのか、はっきりしないゆえの憶測にすぎない。
吉良が「まったく、なぜ斬りかかられたのかわからない」
と3月14日の事件後の取調べで証言しているのは本音ではないか。
浅野に賄賂をねだるほど銭に困ってないし、勅使の接待の準備で、
いじめる暇もなかったのだ。
もし浅野さんが怒ったとしたら、ちょっと心あたりがあるのですがそれは旧暦シリーズの
3月14日の日に(爆)。

さて、浅野に斬りつけられてからの吉良はさんざんだった。
将軍の下した吉良への処分が軽すぎたのも、世間の悪い評判に油をそそぎ、
痛くもない腹をさぐられ、高家のトップ的役割からはおろされ、
ついには屋敷を本所に移すことになった。
まさかそんなことになるとは思いもしなかったため、移転前の一等地にあった屋敷は
趣向をこらした素敵な家にリフォームしたばかりだった。
それを捨て、泣く泣く本所へ。
華麗な交友関係の友人ともなんとなく疎遠になり、吉良は気鬱の病で床についてしまう。
やっと床から這い出して12月の初旬には茶会など催して(実は赤穂のみなさんは
茶会とぶつかるのを避けて14日に討ち入り予定日を変更している)
再び家はきれいにしたいと、本所屋敷をリフォーム中に12月14日はやってきた。
改装中だったため女中たちは別の屋敷にいたことで助かったが、どうやら
赤穂浪士に襲撃されるなど露とも思っていなかったらしく、無防備なままで襲われている。
いや、しかし予兆はあったはずだし、幕府の知り合いからは危ないよと警告は受けていたと思うので、それを信じなかったというべきか。
「まさかそんなこと・・・・」
とおもっていたのかもしれない。だって天下泰平の世だもの。

討ち入りされなくても、吉良はすでにしおしおでよれよれで、やはり同情してしまう。
もちろん、主人の一瞬の暴挙で無職になった赤穂の浪士も気の毒だ。
この事件、誰が悪いって、やっぱり松の廊下事件で、
微妙な裁定をくだした綱吉だと思うのだが、どうだろうか?

よくある「裏の裏の歴史」というやつで、実は徳川家康は征夷大将軍になるため、
源氏の系図を吉良家から買ったという話があるとかないとか(笑)。
それゆえ吉良家に頭が上がらず、五代将軍としてはいいかげんなんとかしたかった・・・・
なんて、それはただの噂ですけど(笑)。

でもやっぱり義挙ということになっていますが50人弱で
明け方に屋敷を襲うって、どんなに理由をつけても武士のモラル的にそれって・・・・。
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# by aroe-happyq | 2007-02-01 14:56 | 旧暦シリーズ | Comments(0)

あれよあれよで半年。

気がつくと、八朔の日にいきなり思い立って始めたこのブログも半年が経ってしまいました。
元来飽きっぽい自分がこんなに続けてこられたのも、
ひとえにもふたえにも、わざわざこちらのお越しくださり、
言いたい放題のつたない文章を読んでくださるみなさまのおかげです。
謹んで御礼申し上げますっっ。ありがとう~~!!

半年にしてやっとこさリンク集コーナーをつくったという亀亀すぎるブログですが
これからもどうかよろしくお願いします~~~。

半年記念ということで、いきなりスキンも春!にしてみました。
梅よりも桜が好きなもので・・・・・・・。
でもきっと今頃、皇居東御苑(旧江戸城)では梅が見ごろです(笑)。
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# by aroe-happyq | 2007-02-01 09:35 | お知らせ | Comments(0)

リンクを少しずつ・・・

初心者にはちょっとわかりにくくて、なかなかリンクコーナーを作れず半ば放置(汗)
していたのですが、その方法がわかったので、このたびちょいちょい作業を始めました。

おそらく解説をつけるべきなのは、風俗博物館ではないでしょうか。
源氏物語を前面にどーんと打ち出してはいますが、
ページの下のほう・・・・・・・・の日本風俗史のコーナーの、
江戸時代や近代の服装というところがツボでして。
最近は行っていませんが、以前はこの博物館では時代ごとに特集をしていて、
京都へ行ったときに寄ったりして、運がよいと自分の興味ある時代の風俗人形が
たくさん出迎えてくれたのです。
(ま、最近は源氏というか平安絵巻がどーんと・・・・・・・・)

そんなわけでまだまだつたないばかりのブログではありますが、
あいかわらずのマニア心で、こつこつと進めてまいりたいと思いますので
よろしくお願いいたします☆
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# by aroe-happyq | 2007-01-30 11:03 | お知らせ | Comments(0)

国会図書館に行く。

仕事の調べもの・・・・・・という理由をつけて、今年初の国会図書館にいってまいりました。
調べものをしながら、本を請求し、雑誌を請求し、コピーにいき、雑誌はオンラインコピー
したり・・・・・・といつものごとく、落ち着いたかとおもうと動く!の繰り返しでしたが、
今日はとっても空いていて♪、サクサクと作業が進みました。
(論文シーズンはそういえばほぼ終わり?のはずなので、それもそうかと・・・・)

本日のメインの獲物(爆)は、『岡山県史』26巻に収録されている、
「艱難実録」というもの。

木村宛書簡の史料をコピーした際、同じ『横浜開港記念館紀要11号』のなかに、
西山武臣 「松山藩士の見た戊辰戦争」
という史料紹介があり、興味津々でこちらもコピらせてもらったわけで、
そこで紹介していたのが「艱難実録」だったのです。

これは松山藩主板倉勝静の家臣辻七郎左衛門の回想録。
朝敵となり北へ北へとむかう板倉の、箱館、そして蝦夷地脱出、自首を傍らでつぶさに
みていた回想で、当事者でない分客観的にみているので興味深い。
だけど板倉&小笠原は、「大名はいらない」榎本たちに冷遇され(爆)、そこのあたりは
忠実な家臣として涙涙の・・・・軽い恨み節が入っていて、厳しい榎本発言なども楽しめる。
で、その「艱難実録」の原文が読みたくなったわけでした。
(おいおいこちらも紹介していくつもりです)

それから、昌平坂学問所に関する論文4本などなど、なかなかの収穫でした。

自分で昔からささやかながら不思議な能力というのがあって(笑)、
ぱっと本をひらくと、探そうとしている項目にバッチリ当たること。
今日も寛政譜で、とある元禄時代のある人を探そうと、まずは索引で巻数を確認し、
その巻を適当に開くと、その名前の人にピンポイントで当たりました。よっしゃ!
ということで仕事の調べものがスムーズに進んだ分、趣味に時間を費やせました。

ただ、ひとつだけ失敗したのは、請求した紀要がまだ国会図書館に未納だったこと・・・・。
この紀要、たしか2004年なのですけど・・・・京都大学さん、もう何年たっているのでしょう。
待ってます・・・・。
だって、論文の後半(つまり(下)というやつです)が収録されているのに!

都立図書館も、なかったし(あるのですが途中で停止になったまま)。
ちょっとほかのところもいったら、2002年でとまっていた・・・・・・・。
国会図書館は2003年で止まっている。←なので(上)だけがうちにあるのだ!
かならず探してみせよう、ホトトギス!(爆)

*追記*
探していた紀要は、あっけなく
京都大学で電子無料公開していたので、PDFで保存しました。ホッ。
だけど93P・・・。プリントアウト・・・・。
(上)はB4コピー済なのに、こっちはA4。嗚呼、我的コピー収集美学が・・・。

ちなみにその論文とは、
高橋秀直「文久二年の政治過程」 京都大学文学部研究紀要42.43号掲載
でして、電子公開は、
こちらです。

岩瀬の史料がそろいつつあるところで、永井さんのことを調べていくと、
このあたり(文久二年)は押さえておかないといかんと思い、
今まで王政復古の論文をいろいろ拝見してきた高橋さんの論文にて教えを乞おうかと思いたった次第。
(上)を読みましたが、とても面白いです。
(さらに41、44にも高橋さんの論文があります!・・・・44号のは今日知りました♪)
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# by aroe-happyq | 2007-01-29 19:01 | 広く幕末ネタ | Comments(2)
香港唯一の映画雑誌、電影双周刊が休刊となった。

映画は娯楽であり、ただ消費するもの・・・・という観念の強い街で、
映画論、その芸術性についても真面目に取りくんでいた良心的な雑誌だった。

香港にいくとかならず街の売店で即刻この雑誌と新聞を買い、映画のチェックをしたり、
日本で通販したり、バックナンバーを求めて、この雑誌社にお邪魔したこともあった。
香港映画好きにとっては必須アイテムだったのだ。

確かに90年代の香港の好景気の時代(途中にブラックマンデーがあったとしても)には
相当に厚手だったこの雑誌も、97年の回帰、そしてSARS騒動をはさんで、
香港の不景気、そしてメインチャイナの経済的な台頭のなかで、
映画産業の低迷とともに、ずんずん薄く、内容もさみしくなってはいた。
なにせ香港で映画に投資する企業は、即儲からない映画には投資してくれないし、
そのあたり芸術性など無視、というか、超合理主義であるから、
不景気=映画産業の衰退とわかりやすい構図になっている。
投資がなくては映画は作れない。
香港の映画人もまた合理主義なもので、活路を求めてメインチャイナに、
アメリカに、たまに日本や韓国に・・・・香港以外に活動の拠点を移してしまった。
おかげで香港映画は若手が育つ環境が整わないまま、ここまでの危機を迎えてしまったのだ。
そうした映画界の影響をもろに受けながらも、この雑誌は映画人を支え、かなり努力して存続していたといえるかもしれない。

だけど、なんだかなぁと思うのだ。

映画は芸術!とは思わないにしても、こういう熱意ある雑誌が消えていくのは寂しい。
これから映画の情報を得ていくには、新聞記事のゴシップの隅っこに出る情報を
眼を皿のようにしてチェックしなくてはならないし。
おそらく、こういうものは失われてはじめて、その便利さとか良さがわかるものだろう。
資金繰りの悪化が休刊の理由らしいので、ぜひとも素敵な企業が現れるように、
廃刊ではなく、復活するように、願うばかりである。
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# by aroe-happyq | 2007-01-29 10:48 | 香港&アジア映画 | Comments(0)
児玉さんの本はほかにも『宮廷柳営豪商町人の食事誌』などいくつかもっているが、
この『日本の食事様式』はとくに興味深く、何度も何度も読み返している本。

日本には中世からはぐくまれてきた伝統的な日本料理があり、
それは支配層が変わるたびに形をかえて、より豊かに継承され改善されていき、江戸時代に
いたって「本膳料理」という最高の姿となった。
今はなき、その本膳料理がどんなものだったかは、史料も乏しく、幕末に日本にやってきた外国の人々の記録、または外国使節への饗応料理の記録によってかろうじてその姿がわかる。
酒で酔って舌が鈍るのを防ぐため、本膳料理を味わう間は酒はなく、白湯のみで、料理を楽しむ。(酒を飲みながらの料理は別につくり、それは「酒膳料理」といった)
西洋のディナーのように前菜に始まって、次々に料理がでてくる趣向で、あまり量をとりすぎないために白飯を絶妙なタイミングで腹におさめていく。献立の料理は医食同源にかなうもので、現代の栄養学からいっても非常にバランスのとれたものであったらしい。
酒を飲まず、料理のおいしさをじっくり楽しむ・・・・・。なんという風流な!と思う。

ペリーに饗応した場合などはお一人様三両というとんでもない値段だが、こうした饗応料理をどこの店に発注するかを応接掛の面々(勘定奉行とか、目付とか外国奉行たち)が決めるあたりをみると、この人たちも三両の最高料理ではなくても、そこそこのお値段で食べにいける本膳料理もあるらしく、ときには自宅に仕出し料理として注文することもあったらしい。旗本の中流クラスなら味わえた日本料理であったとみえる。
そして徳川瓦解とともに、本膳料理は消えてしまった。

明治の新支配層は味オンチが多く(私が言っているのではありませんっ、本に出ているのですっ)、あまり本膳料理には興味がわかず、最初から酒を飲んで食べる(できればそこに芸者もいるとなおうれしい)、酒宴料理、今の料亭料理のような形のものしか欲しなかったというのだ。
またそれまでの政権の移り変わりと違って、明治の支配層は徳川とほとんどかかわりのない人たちであったため、例えば室町の足利将軍から信長、秀吉、家康というような近い関わりの支配者の移行と違って、徳川から明治への政権交代では、日本料理の伝統を継承する流れが途絶えてしまった。
もちろん明治になると西洋料理という新しい文化がはいってきたので、本膳料理の伝統継承はそれだけでもかなり厳しかっただろう。しかしこうした事情で、本膳料理という名の日本料理の伝統は明治をもって消えてしまったのである。

『日本の食事様式』はもちろんその後の日本の食事についても書かれているが、本膳料理などというもの自体を知らなかったので、最初の読んだときは、誰か再現してくださーーい!と叫んだものだが、しっかりとしたレシピがないらしくなかなか難しいものらしい。
でも、ハリスやアーネストサトウやロッシュが知っているのに日本人が知らないのはかなり哀しい。

岩瀬たちが親しんだはずの本膳料理、いつかかならず・・・・せめてテレビ番組で再現した姿をみてみたいものだ。
(もしかすると、長崎の卓袱料理はその流れを受け継いでいるような気がするのだか?)

・・・・永井介堂の、木村宛書簡に書かれていた、岩瀬忠震没後三十年周忌を開催した枕橋の料亭八百松は本膳料理っぽかったのだろうか?参加した木村&永井、そして勝海舟、榎本、荒井、白野・・・・その他諸氏、誰か教えてプリーズ!(笑)
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# by aroe-happyq | 2007-01-28 14:09 | 江戸東京あれこれ | Comments(0)
2003年の正月時代劇。
もちろん当時の本放送をみたのですが、
CSの時代劇チャンネルでの再放送を録画して、またまた観てしまいました。

2003年のときは一般的な幕末知識のちょっと毛がはえたぐらいだったのですが、
今回は詳しくなっていた手前、細かいところで突っ込みやら感動やらいたしました。

とはいえいまでも小栗さんに関してはそれほど詳しくなく
(岩瀬たちと接点がないために後回し中・・・・・)、
横須賀のドッグを造ることに心血注いで、またフランス式徳川陸軍の組織の際にも
尽力した優れた幕臣という知識はありますが、自伝など未読なので、
ドラマは素直に拝見しました。
(ただ・・・洋装はまだ早いのでは・・・・などと軽く突っ込みはしましたが・・・・)

そのなかで、
2003年当時にも驚いたのですが、徳川慶喜さんのダメダメな描かれ方に再笑撃・・・・。
いつも勇ましい役を演じられる比留間さんがなんともわがままでトホホな上様を
見事に演じられていて・・・・・・。仮にも大河の主人公になったこともある、慶喜さんが
これほど見事に、ときどきかなり正直(爆)に描かれたこともなかったでしょう。
大阪城から逃げ帰ってくるあたりの慶喜は・・・・素敵でした。
(わたしのなかの慶喜さんは十年以上前からこんな一面を持つ頭の回転のよい人。
頭が回りすぎてたまにショートなさるぼっちゃんなイメージがあります。だからといって嫌いにはなれない感じで、むしろその器用ななかの不器用さがやみつきです)

ですが!
いきなりラストのほうのことで恐縮ですが、
出ていたのです、大鳥圭介&榎本釜次郎さんが!!
慶喜が江戸に戻ってきてからの大評定のシーン。
小栗のうしろに控える、二人が!!
釜さんを演じている若い俳優さんは知らない方でしたが、
圭介さんは長森雅人さん!←男前です!!
ちょんまげで陸軍の黒い制服でした(その前のちょっとしたシーンでは裃でした)。
釜さんはどっちのシーンでも洋装。ひげなし。

ちょっと小栗さんが羨ましいのは(って誰の立場になっているのか?)、
知行地をお持ちだったこと。
岩瀬や永井や堀たちは、当主ではないため、ただのサラリーマンなので。
自分の領地があると何度辞めても食べていけていいなぁ・・・・・・(笑)。
でも知行地に隠遁したからあらぬ疑いをかけられてしまったのか?小栗さま。


いけませんね、すっかりマニア観してしまいました。
でも同じく時代劇チャンネルで「燃えよ剣」の最後の二回ほど
なんとなくみてしまい、ここの大鳥さんと榎本さんがビミョーだったので、
小栗ドラマのおかげでスッキリしました。

しかし、幕末物でしかも小栗さんや榎本さんたちがド映像になるだけでも
ほとんど奇跡に近いのですよね。ケチをつけてはバチがあたるかも。
再放送をみてありがたみがさらに増しました。

岩瀬ドラマも出来ないかな・・・・なんて大それた望みは抱いてはいけないのです(涙)。
だって真面目なだけのキャラにされたら、それこそ良さが半減ですから(爆)。
(冗談ばかり言う主人公なんて時代劇コメディーになってしまいますし←むしろ大歓迎)

それにしても、小栗さんも本当に日本にとってもったいない人物。
この人を殺めてしまうなんて、西軍も頭のめぐりが悪いこと・・・・です。
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# by aroe-happyq | 2007-01-26 18:57 | 幕臣系 | Comments(0)

江戸城展。

開催を待ちわびて、年始に行くはずが風邪でヘロヘロになり、やっとやっと
行ってきました。だが・・・・・・・・・・苦労して、空いている平日の昼間を狙ったのに、
こ・・・・混んでいた(涙)。
たしかに上野の国立博物館の国宝展のような殺人的な混み具合ではなかったですが、
混んでいると、妄想に耽りながらじっくり展示物と対話(爆)する余裕がないので、
困るのにーーっっ(すいません、ビョーキです)。

江戸氏の発展から始まり、なかなか徳川江戸城にたどり着かない構成でじらされつつ、
いきなり「登城」コーナーから愛しき江戸城ワールド満開となりました。
いろいろあるなかで衝撃だったのは、・・・・無知をあえて告白しますと、
江戸表(行政部分)の建物、いた中奥(将軍居住部分)もですが、二階建てだったこと・・・・・・。
わたしの机に常駐の長年の愛読書、深井雅海著『江戸城をよむ』では城中図はぺたんこ
だったので、まさか二階があるなんて思いもよらず、ショックだったのです(汗)。
で、二階の城内図をみると外国方とか、諸役人の一部が二階に御用部屋(執務部屋)を
持っていたのでした・・・・・・・・。ドラマで階段あがっていく役人なんて見たことなかったのに!
おかけでこの「江戸城に二階があったとは。なんたる己の不覚・・・・」と頭のなかがこれで一杯になってしまい、真ん中あたりでは、展示物をフツーに見られませんでした(爆)。
ですが松の廊下の模型があると、「あ。ここで榎本と矢田堀となぜか若年寄の立花が、戊辰の年に号泣した場所・・・・」と、感慨に耽ってしまいましたが・・・・。
たぶん一般的には松の廊下といえば、赤穂浪士の発端・・・・・・と思うべきでしょう(笑)。
マニアは本当によろしくないです、はい(反省)。

この江戸城展、入場してすぐ家康公の木像にお出迎えいただくのですが、見送りは、
勝海舟の絵でした・・・・・・・・・・。なかなか風流な趣向です(爆)。
でも出口出てからのサプライズ!なんと幕末の江戸城付近の写真パネルが並んでいました。

常設展示もほうも行ってきました。しかしマニア魂をあおるかのように、なぜか
「徳川家茂とその時代展」を開催中で・・・・・・・・・・・・・。
こ、こっちのほうがよ、よかったです(おいおい)。
家茂くんのファンとしては、ちょっとたまらない展示がひっそりとありました。
(前期展示は今週までで、後期が来週からだとか!。入れ替えとはっ。ええい、また来なくちゃ!!)
11歳から21歳まで、それも一番たいへんな時期に将軍で、はっきりいってお気の毒な方ですが、ひじょうに優れたる資質をお持ちで、惜しむらくはもうちょっと大人であったなら・・・・と思える将軍です。大人の家茂とその傍で宮廷政治を操る慶喜さんがいて、岩瀬忠震が存命であったなら、戊辰もかなり違った展開をみせたかも・・・なんてぼやいてはいけませんね。

その家茂の言葉集(こんな記録があるのですね)とか、松平春嶽への書状とか。これは政治総裁職に就いた春嶽が思い通りにならないため拗ねて出仕してこないので、顔を出してほしい旨伝えた内容。困らせているのは御自分なのに、手紙をもらって嬉しかったらしい(あいかわらず勝手な男、春嶽さん(笑))。
そのほか、いろいろ良かったです。北斎展もやっています(常設展示内)。すごく美味しいです。
(その他、こまごましたレポはまたいずれ☆)

さて、図録や・・・江戸城DVD(爆笑)で散財してしまい、とぼとぼ幸せな帰り道。
両国のこのあたりといえば、ちょっと北上すると阿部伊勢守下屋敷があります。
ご母堂が住んでいた手前、阿部正弘は激務の合間を縫って、ちょくちょくこの下屋敷に顔を出したそうで。おそらく両国橋を通ったのではないでしょうか。
(宮廷政治家として名をはせる彼ですがこういう庶民を忘れないあたりが素敵なのです)

そして総武線で都心へ向かったのですが、よーく考えれば両国の隣は、浅草橋駅。
そうです、三味線堀そばといえば、榎本釜次郎さんの育った町です。
そのとなり、秋葉原駅。・・・・ここから御茶ノ水駅までの間はかなり近い。

そこで気がつきました。
先日行った湯島聖堂のとなりの町は、萌えタウンアキハバラなのですね。
オタクの街と聖堂が隣同士。なんかすごく深いです。
日本のサブカルチャーの殿堂は今も昔もこのあたり。

お後がよろしいようで(ん?そんな終わり方か!?)。
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# by aroe-happyq | 2007-01-25 18:50 | 江戸東京あれこれ | Comments(0)
中根雪江の「昨夢紀事」3,4巻を読んでおります。

その途中、かねてより気になっていた水野筑後守の一件について
岩瀬が橋本左内に面白いことを語っておりました。

(水野は)忠赤餘りあって確實なる事當世無双とも可稱由
去年墨使初而備中殿と應接の時、
御席に連なり居しかハルリスの英夷の事を説きしを虚喝として更に
承引せず固く執て極論に及ひ殆と評定一坐の面々を動揺する勢いにて
當前の事機に於て支吾せし故止事を得ずして當役へ轉せしなり。
                   (『昨夢紀事』3巻 353P)

「忠赤餘りあって確實なる事が当世無双な」水野さんは、
ハリスと堀田備中守が初めて会った席上、ハリスがイギリス(英夷)について説き始めると
「それは虚喝だ!」と非常に熱く論じてしまい、応接掛みんなでびっくりしてしまった。
このように談判の席上でいきなり応接掛が進行に支障をきたしてしまうのはよろしくないので
(田安家家老へ)役替になった・・・・・ということでした。

でも岩瀬さん、水野をけして否定してはおりません。
「当世無双」・・・・・・これってそれなりに褒めていると思います(笑)。
だから橋本さんに語って聞かせちゃうのです。
「困った人なんだけどさぁ、ははは」という感じでしょうか。
というのも、あいかわらず、「信念の人」水野さんは一橋派官吏として大活躍しております。
彼の頑張りがあるからこそ、岩瀬たちは条約の勅許のほうに集中できるのですから。

でもこの史料からみると、カモフラージュ作戦は偶然の産物!?(爆)
役替になって暇になった水野はたまたま一橋派の運動に夢中になれる環境になっただけ
ということかも。むむむ、予測が外れた。

三巻にはいると、永井玄蕃頭が鵜殿にかわって活躍をはじめ、3~4巻はだいたい、
水野、永井、岩瀬が一橋派として、また開国派として奮闘しております。
ただ、かれらは宮廷政治には向きません。大奥への工作は薩摩の西郷さんたちが
担当してはいますが、そのあたりのツメが一橋派全体的に足りないぞ、と素人眼にも明らかです。大奥の影響力を侮ってはいけませんのに(笑)。
・・・・・などと、ぼやきながら読み進み中です。
でも結果を知っているからこんなぼやきも出るわけで、それは彼らからすればズルイですよね。明日を知らないから探りながら走っているわけで、知っていたらちゃんとツメていますもの・・・・・。
歴史をみるとき、結果(未来の出来事)を時には忘れないと判断を誤ってしまいます。
王政復古~明治維新の流れから逆算するから、攘夷志士が正義で、その反対勢力が
だらしない過去の遺物扱い(爆)されてしまうわけです。
当時の記録をみると、相当・・・・・攘夷志士なぞただのワルですからね。
味方が勝ったからこそ、英雄呼ばわりなわけです。
『昨夢紀事』の一橋派も敗れたからいまいち忘れられた存在ですが、結末のまだ知れないこの本のなかでは(この書物はずっと後になってから編まれた本ですけど)、彼らは江戸を、天下を動かしているわけですから、そのあたりを踏まえて、冷静にひとつずつ調べていきたいと思います。
(井伊さんだってまさか数年後、自宅出てすぐ駕籠を襲われた挙句、首をとられちゃうなんてそんな未来は想像だにしなかったに違いあるまい)。
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# by aroe-happyq | 2007-01-24 19:34 | 外国奉行ズ | Comments(0)
『同方会誌』(又は『同方会報告』ともいう)27号に、
「詞遣ひ」というコーナーがあり、「江戸言葉」「江戸と田舎の言葉」について紹介している。
このなかから、旗本ぐらいの武家が使った言葉についての項を拾ってみる。

○「~なさい」というのは「~遊ばせ」という。
○朝「起きる」ことを、「おひんなる」とういう。寝るは「げしなる」という。
○衣服をきるは、「衣服をめす」という。ふんどしも下駄もみんな「めす」を使う。
○人を呼ぶときも「人をめす」という。
○放っておく→「うっちゃっておく」
○来い、とかお出でなさいは、「いらっしゃい」。

そして、おはよう、こんにちは、こんばんわ、さようならは一切使わず、
すべて「御機嫌よう」を使う。

・・・・・・・御機嫌ようといえば、ざーます山の手夫人の言葉かと思いきや、元は江戸侍言葉!?

なんとまぁ、風雅な世界(爆)。

「風邪をめされたかとか。どうぞお気をつけ遊ばせ」
「かたじけない。では拙者これにて」
「では、御機嫌よう」
「ご機嫌よう」

・・・・・・・・・こんな感じでしょうか???
御自分」につづき、なんだか軽いカルチャーショックです(笑)。


さらにこのコーナーは指摘する。
明治の官吏が「どうだい、暑いじゃねぇか。達者か。うん忙しくって困らァ。(略)・・・暇があったらどっかに行こうじゃねぇか」・・・・・・などと使っている、乱暴な言葉遣いを武家はしない、そうです(爆)。

ということは、江戸侍のべらんめいはなんかまた違うリズムの言葉なのか・・・・・。
(確かに榎本釜次郎さんのべらんめぇは↑この明治官吏とは違う流れのような気が)
なお、調査はつづく!
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# by aroe-happyq | 2007-01-23 10:40 | 幕臣系 | Comments(2)
自由業をやっていて、仕事の保障もなにもないけれど、
ちょっとだけいいことは時間さえ許せば
たとえ午後5時だろうが、テレビを見られてしまうことです。

というわけで、仕事は置いといて、見ちゃいました。第一話。

偶然、最近デジタルケーブルTVがみられるようになったばかりなので、
ハイビジョンが見られると思うと、ついつい・・・・・(DVD持っているくせに!)。
本放送も全話逃さずにみたはずなのですが、やはり見たくなってしまったのです。

しかしなんとキレイなのでしょう!
とくに光がいろいろな表情をみせてくれて・・・・・・・本放送の頃は
ざらざらでゴーストいっぱいの画面で見ていたので、
まるで別のドラマのようでした(涙)。

いろいろ「史実と違~~う」な面はありますが、
これは三谷ドラマとして最後まで楽しめちゃう、そんなひじょうに出来のいい物語です。
長年大河をみてきたなかで、最後までちゃんと物語の糸がすべてたゆまず、
ひとつに集約していく構成の見事さもたまらない感じで、
ちゃんと江戸の雰囲気が伝わってくる、不思議なゆるい空気感も好みでした。
(なんだかやたら偉そうですが・・・・・・・・)
なので細かい突っ込みはせずに、笑い転げ、ときには泣いて楽しみたいと思います。

これから2ヶ月、打ち合わせは夕方をなるべくはずさなくては・・・・・(汗)
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# by aroe-happyq | 2007-01-22 19:34 | 新選組! | Comments(0)

川路聖謨という人。

幕末の能吏で、かつ戊辰の徳川瓦解のおり、壮絶な最後を遂げられた、
徳川家臣の鑑のような人。
渡辺崋山たちと交流し、開明的な幕臣だが「蛮社の獄」で奈良奉行に左遷。
のち、勘定奉行に復帰し、海防掛としてプチャーチンとの交渉を、筒井との絶妙な
コンビネーションで乗り切った(後半は水野、岩瀬とのチームだったが)優秀な外交家。
そののち、一橋派として退けられてしまったが・・・・・・、
なにせ切腹の末拳銃自殺というその最後が鮮烈で、
古武士のような頑健な人、というイメージがあった。

吉村さんの本を読むと、まさにそのとおりという、非常に凛とした川路に会える。

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ところが、次にこの↓を読んだとき、
d0080566_9581738.jpg

「ん?」と思った。
この日記にはなにげないユーモアがちりばめられていたのだ。
もしかして、川路聖謨も・・・・江戸ッ児侍のひとりとして、岩瀬たちのように愉快な人では
ないのだろうか。
その疑問を解消してくれたのが、
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この本だった。さすが氏家さん!!!
氏家さんが思わず、溺れた(爆)川路家の世界・・・・・その気持ちがよくわかりました。
やっぱり・・・・・・川路もフツーの江戸侍と同じく、下ネタOKさんだし、
なにより家族(家来のファミリーも含む)がみんな可笑しい!
なかでも報復絶倒なのが家来の娘のお栄ちゃん。天才少女です。
(あまりここでは例にあげられない××ネタなので名前だけ紹介します)
三歳のお栄ちゃんに、なんと川路は「お前の両親はむらむらきてどう抱き合うかい?」
というとんでもない質問をすると、「・・・・ま、それはおいといて」と話題を
さらっとかわすのです!三歳の児が~~~っっ(爆)。
(でもそれを家来一同と爆笑してみている川路お奉行の屋敷ってあったかで楽しそう♪)
さらに、「ゲロゲロ病」と川路命名の奇病・・・・現代でいえばちょっと自律神経失調症な川路の奥方は知識が豊富で、夫を理論的にやりこめることもしばしば。
それも、とても正論で、読んでいてすがすがしい。
江戸旗本の家庭ってみんなこんなに夫婦はフランクなんでしょうか?
すでに封建時代っぽくない、近代的な会話もあるのです。
そして、やはりその家庭の中心にいる川路さんが誰よりも可笑しいのだ。
星一徹のような父に育てられ(このあたりは新井白石のよう)、かなりのマザコンで、
川路の養父は絵に描いたようなぐうたらな江戸侍で、本人は四回も結婚をし、
そしてひたすら家族へむけて日記を描く家庭人・・・・それが川路の一面である。
(全部ではない。仕事面ではかなりの切れ味がある(爆))
おそらくこの本と「落日」と両方を読むと、さらに奥行きのある川路像に出会えることだろう。

*一日考えて、川路さんの不名誉ギリギリ部分をちょっと補足しました(汗)。(1月23日)
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# by aroe-happyq | 2007-01-22 10:15 | 幕臣系 | Comments(0)
日本を訪れた外国人の旅行記を読むのはとんでもなく大好物。
なぜなら細密な描写があるので、当時の日本の様子や会話が
リアルな感覚で味わえるからだ。

というわけで、前回の水野外国奉行問題が出たところこともあり、
今回は日仏修好通条約のためにやってきたグロ男爵一行の記録を紹介。
もちろん独断と偏見にみちているので、外交会談のところだけ。
このときの外国奉行はもちろんあの五人。

筆頭全権委員 水野筑後守
第二全権    永井玄蕃頭

そして、英国使節と同じく、いつものツートップなわけです。
(井上と岩瀬はハリス掛で忙しいし、堀は箱館奉行兼任なので)

六人(目付を外国奉行と間違えている)の外国奉行に別れの挨拶をし、
フランスでの再会を約束した。
そして第二全権委員永井玄蕃頭はチュイルリ宮つきの大使に拝命ずみであると
我々に説明した。(略)・・・・


そこでどのように渡仏するのかとたずねると、永井は、

日本人の乗組員とともに日本の軍艦に乗ることになるだろうし、
軍艦はメーンマストに国旗、つまり白地に日の丸をなびかせてツーロン港に
接岸するだろう、とのことだった。


提督、なんだかかっこいいですぞ(笑)←なぜか
つまり徳川海軍でおフランスへ参るという素敵な計画だったのです。
きっと勝も矢田堀も沢も榎本もわくわくしていたに違いないでしょう。
でも艦長(というか船将)は勝麟さんより、矢田堀さんのほうを推薦します。
慎重な性格なので長い航海向きではないかと思われるので。
・・・・という妄想はさておき。

こうしてこの時代についての本を読んでいると、日の丸ってしみじみと
徳川ジャパン(サッカーみたいか!?)の旗しるしなのですね。
思うに、なんで明治新政府はこれをそのまま採用したのか?(と意地悪なつぶやき)
「維新」したなら旗もかえればよろしいのに!
おほっほっほっ (フランスだけにベルサイユ風@宝塚)

いささか飛びすぎましたが、さてさて。
この旅行記の珍しいのは、岩瀬の記録がないこと。永井だけなのも珍しい。
・・・・・さては岩瀬さん、英語習得に夢中でフランス語には興味なしか!?

というわけで、英国の記録に続き、安政五カ国条約締結の記録から
外国奉行の部の紹介でした。

「フランス人の幕末維新」 有麟堂新書53 
第一章 全権団随行員の日本観 より

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# by aroe-happyq | 2007-01-20 10:55 | 長崎伝習所系 | Comments(0)
とうとう中根ワールドに着手。
この人は松平春嶽の懐刀。嘉永6年~明治にかけての記録を
丹念につけてくれていた人。ありがとう、中根さんといいたくなる貴重な
書簡の写し、日記、メモなどなどがたんまり登場する。
ただし、春嶽とその仲間たちの華麗なる(爆)陰謀劇のやりとりが中心だ。

今回は全4巻のうち、2巻まで借りてきた。
黒船が来たところから、大獄前夜の安政五年二月あたりまで。
最初はおもに、阿部伊勢守と春嶽(この両人非常に仲が良いし血縁関係でもある)
と、水戸斉昭、島津(松平)斉彬、宇和島藩の伊達宗城・・・・そして、海防掛
が登場して、やはり黒船の取り扱いの活発な意見交換、開国するか否か、
軍艦製造解禁についてなどなど。
がしかし、当初から春嶽は将軍継嗣問題に熱心。
優秀な一橋慶喜を次期将軍に、といろいろな方面に働きかけている。
それが一気に沸騰するのは、そういう継嗣問題を声高に叫ぶのを春嶽に
いさめ続けていた阿部伊勢守正弘が死んで後である。

みるみる一橋派が形成されていき、
開明派官吏の岩瀬たち海防掛目付にもその「勧誘」が始まる。
そこで驚いたのが、水野筑州が・・・・・・見事にとりこまれ(爆)、
海防掛のなかで誰よりも熱心に書簡をおくり、動いているのだ。

安政五年一月十四日の項に、
「水野筑州を御手に附らる」とあり、「水野筑後守ヲ正論ニ服セシム」とある。

昨年来御周旋ありし西城の事を片端洩らし聞えさセ給へハ筑州涙を流して
感歎に及はれ・・・・


水野が泣いちゃったぞ!これは一大事だ!!

西城とは西の丸継嗣問題・・・・・つまり次期将軍候補の問題ということで、
雪江さんは西城の件、という言葉でそれを示す。
たしかに家定将軍では心もとないのはわかる。
国事多難のおり、英雄のような(ナポレオンみたいな?(笑))強い将軍
がほしいと思うのは人情であろう。
阿部の後継の堀田老中でも心もとなかっただろうし。
そんなとき、冴えてる慶喜が輝いてみえちゃったのだろう(涙)。
この人、宮廷政治などは本当に冴えていることだし。
そして水野が泣くのも、国の明日を思ってのことなのだ。

そしてこの日以来、水野は継嗣運動に加わる。
もちろん、岩瀬肥後、永井玄蕃、堀織部、鵜殿民部は「無二の同志」である。
(のちに井上も加わったらしい。、もちろんその兄の川路も同志だ)

だがこの時期以降、ハリスの問題に忙しくて岩瀬や井上、永井の名は登場せず、
堀は箱館勤務中につき、
おもに水野と鵜殿が春嶽の近辺で運動に加わっている。

そこで、ふと、思い出すのはコレ

水野が外国奉行から邪魔にされてはずされた、と井伊一派はみているわけだが、
これってひょっとして、水野は一橋派運動担当ということで、
外国との談判は岩瀬&永井&井上などがやるとして、あえて皆で申し合わせて
役職からはずしたのではないか????
としたら、外国奉行としては井伊派への見事なカモフラージュであり、
連携プレー大成功か!?
などと思ったりするのだが、これは邪推だろうか。
・・・・・だが、なにより岩瀬や永井は重い罰をくらったが、水野はこれだけ
活動していながら、さほど重い処分は受けていないのだ。
最後までカモフラージュが効いたとみるべきではないだろうか(笑)。
そのかわり、永井と岩瀬の願いを叶えようと、咸臨丸をアメリカに派遣する件で
これを実現させるべく水野はすごく動いた。仁義に篤い人なのだ。

さて、話は脱線したが、そんなわけで第二巻ともなると、
かなり込み入った政治陰謀劇だらけである。わくわくである(笑)。
西郷吉兵衛が大奥を取り込もうと、かなり画策している、などというのも出てくる。
橋本左内も大活躍している。

だが結論を知っている身としては、これらのがんばりは見ていてちと辛いかも。
それでも残り2冊を読むだろうし、その続編シリーズも次々読んでみようと思う。

最後にちょっと面白かったのは、
江戸城における大名総登城の大会議で、開国と日米修好通商条約について
朗々と大演説をおこない、また開国にむけて個々に、
有志大名への説得に歩いた岩瀬肥後守が、
めずらしく説得に失敗し、「負けた」という記述があった。
岩瀬という人は能弁家で、あの攘夷の水戸斉昭でさえも、開国へ意見を傾かしめ、
「一緒にアメリカにいきましょう」と語り合うところまで持っていった説得のプロだが、
珍しいことに、山内公の頑固さには勝てなかったらしい。
二人はそれこそ斬りあいになるのではないかいうほどの激しい舌戦を展開したが、
(互いに怒鳴り声など出てかなり凄かったらしい)
その果てにとうとう山内公は開国へ折れることはなく、保留されたらしい(爆)。
やはり、山内容堂公は一筋縄ではいかないお人のようでした・・・・。
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# by aroe-happyq | 2007-01-19 14:45 | 外国奉行ズ | Comments(0)
「江戸文人のスクラップブック」
工藤宜 著 新潮社 1989年発行


聖堂にいったので、久々に大槻磐渓の本をひもとく。
この本には優雅でおだやかな文人の馨りが漂っていて、
自分としては本を広げただけでアロマテラピーに近い効果がある(笑)。

仙台藩の蘭学者の家に生まれたが江戸生まれ育ち。
本人は漢学者であり、詩人で、砲術家。
その大槻が長年にわたって、チラシや友人の絵、写真などを
貼りつけた膨大なスクラップブックが現存しているそうだが、その一部を
大槻の自伝とともに解読したのがこの本だ。

友人も幅広い。高島秋帆、佐久間象山、吉田松陰、渡辺崋山、岩瀬忠震、木村芥舟・・・・。
なんと蘭学者の敵、鳥居耀蔵まで聖堂で知り合いになっていた・・・。
もちろん岩瀬つながりで永井尚志、岩瀬の用人にして欧州使節に加わった市川渡まで、
いろいろいる。有志大名とも親しいらしいが、それはまた別の話(爆)。

さて、この本で注目したのは江戸文人たちの海外知識だ。
すごい・・・・と思うのは、彼らがほぼリアルタイムでナポレオンとフランス革命
の情報を詳細に知っていて、とくにナポレオンは彼らのヒーローだったこと!(笑)
身分の低いところから皇帝になり、哀れ最後は島流しという、日本人の魂の琴線に
触れまくりのナポレオンの伝記は文人たちのあいだで大ヒットして、
将軍までが伝記を読んで、みんなであれこれ朝まで語ったらしい。
(それで合点がいった! なんで榎本釜次郎たちが留学途中でセントヘレナ島で
ナポレオンの墓に顕花して、感動のあまり榎本は日記を投げ捨てようとすてしまった
のか・・・・。榎本の父親の世代からのあこがれのナポレオンだったのだ)

もちろんフランス革命だけなく、ヨーロッパの歴史もちょいちょい知っていたらしい。
この時代、洋書を手にするには困難なため、もっぱら清で漢訳されたものを
輸入して、和訳出版していたらしいので、どこまで正確かはさだかではない。

そして可笑しいのは黒船渡来のとき。
絵のうまい大槻磐渓は藩命によって、黒船の絵を描いて来いといわれて、
なんと幕府の応接所@横浜に草履取りの格好で「潜入」した。
通詞の森山多吉郎とは師弟(漢学では大槻が師匠で、蘭学では森山が師匠)
関係だったのでそのツテで潜入したものの・・・・・。
佐久間象山とばったり出くわして、二人でひそひそ話をしていたのが不自然だった
らしく、小人目付に「わりゃだれだ」と誰何されてしまう。しかし小人目付も相手が
只者ではないと悟ったのか、「ひっこんでいさっしゃい」というなり去ったという。
ひっこんで、と丁寧な「いさっしゃい」はあまりドッキングして使うことはない。
大槻と佐久間はかなり大受けだったとか・・・・(笑)。

岩瀬忠震と大槻は木挽町町内のご近所さんで、かつ親友だった。
岩瀬が向島に岐雲園という別宅を購入すると、もちろんそこへも招かれた。
スクラップブックには岩瀬手書きの案内図がある(この本にも掲載されている)。
そこで永井なども含めて詩作会など行ったかもしれないが長くは続かなかった。
岩瀬と永井は永蟄居の処分をくらってしまう。そしてそれから一年ほどで岩瀬は
他界してしまったのだ。
この本によれば、岩瀬の一周忌に大槻が岐雲園を訪れたという。
そこで永井とばったり会って、二人で詩作をしつつ少々酒を酌み交わすと、
それぞれ帰ったという。
どうでもいいことだが、大槻の記録では五月となっているが、
岩瀬の命日は七月だ。それにちょうどこの一周忌ごろに、永井の処分が解かれて、
晴れてお天道さまの下を歩けるようになったので、五月だとちょっと遠出は無理。
大槻さんの記憶違いかも?
さて、その大槻磐渓も江戸を去る日がきた。文久の改革で諸藩の者は国許へ
戻ることになった。大槻も木村芥舟に餞別でもらった毛皮を着て泣く泣く、仙台へと去った。

仙台余生を送るはずだった彼も戊辰戦争に巻き込まれた。
彼は藩主の信頼も厚く、その開明的な知識を求められ藩の参謀をつとめた。
榎本釜次郎が東北列藩同盟の面々と話し会いに赴いたとき、そこに大槻はいただろう。
榎本の顧問格(笑)の永井が同行していたら、大槻と再会しただろうか?

敗戦後、戦争犯罪人として裁かれた大槻磐渓は終身禁固となった。
その後、自由の身になると最晩年には東京に移り住み、明治11年に亡くなったという。
(磐渓の息子は父は無罪であると再三運動し、磐渓の死後11年後名誉回復をしている。)
愛してやまなった江戸が変り果てていくなか、文人大槻磐渓はなにをみつめながら、
東亰で暮らしたのだろうか。

こうしてみてくると、
江戸も幕末寸前までなんと優雅な(でも金欠にかわりなしだが)文人たちの
サロンがあったことだろう。
彼らが穏やかで平和な時期に培った見識が幕末の混乱でもっと生かされたらよかったのに。
いや、少なくとも岩瀬や永井、木村世代の仕事にはこうした「馨り」があるし、
安政五カ国条約締結までは彼らの文人パワーがうまく生かされていたのだ。
そして若い世代のなかで、永井さんは果敢に新しい西洋の知識に飛び込みつつも、
たった一人で最後まで文人の馨りを手放さなかった、彼らの生き残りであったといえよう。

それよりもこのスクラップブック、全容をたっぷりみてみたいもの・・・・・だ。
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# by aroe-happyq | 2007-01-17 19:26 | | Comments(0)
坂の途中にあるのが湯島聖堂。またの名を昌平坂学問所(昌平黌)。

正門から入ろうと遠回りしたのだが・・・・・・なんと改修工事中だった・・・・。
だが中に入れないはずはない!と再び聖橋の裏門へ回ると、門があいていた。

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なかなか荘厳な・・・・古代中国なムード満点の世界がそこに!
(堺正章の「西遊記」のロケ地なだけある!?)
平日なので閉まっていますがそれはそれ、なかなか風情があります。
(土日祝は開いているそうです)

ここで遠山の金さんも、岩瀬肥後守も永井玄蕃頭も、堀織部正も、
(以下なぜか敬称略)矢田堀景蔵も、榎本釜次郎も、大槻磐渓も、原市之進も、広沢富二郎も、
みんなここで若い頃勉学に励んだのなぁと思うと感慨深いものがありました。

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しかしここはいったいどこなのだ、と思わせるような別天地。
まるで蘇州のお寺さんみたいです(ずいぶん昔の蘇州、です。今はきっとコテコテにペンキが塗られて風情は変わってしまっているはずだ)。

こんなに静かなら真面目に学べそうです。

そして孔子像。

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そして、外壁にはなんと!
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今でも学べるのですね!
・・・・・・素読講座まである。す、すごい。
なんだか一瞬、タイムスリップしてしまい、まるで
学問所に入ろうとか迷うどこかの江戸の人になってしまいました。

大槻磐渓や岩瀬修理が教授だった頃なら、一度でいいから、
聴講生として授業を拝聴したいものです。
(なんだかすごく楽しそうなので)

真冬にもかかわらず、いささかINドリームしてしまいました。
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# by aroe-happyq | 2007-01-15 14:47 | 江戸東京あれこれ | Comments(0)
小川町に用事があったが、すぐに済んでしまったので
「そうだ、湯島聖堂にいこう」
ということでずんずん歩き出して、突然散歩は始まったのでした(笑)。

突然なので地図もない。だけど大丈夫!
頭のなかには江戸切絵図がしっかり入っている。
頭のなかは江戸の道、歩いているのは平成の道ということで、
あっけなく御茶ノ水の聖橋に到達し、すぐに湯島聖堂発見。

で正門に入ろうとぐるっと回り道していると、神田明神が!
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というわけで中途半端な初詣をして、
揚げまんじゅうを購入しつつ、天野屋に寄ってとうとう本場で
芝崎納豆も購入。

なぜか頭のなかには銭形平次の主題歌が回りだしつつ、
いざ湯島へ!
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# by aroe-happyq | 2007-01-15 14:14 | 江戸東京あれこれ | Comments(0)

本年お初の芝崎納豆

東京在住の我が家でちーさなこだわりの味があるとしたら、
納豆と谷中しょうが(夏だけですが)でしょうか。
昔は畳いわしとか、くさやなども食卓の必須アイテムでしたが、
最近まったくお店でみなくなりましたので、さみしく今はたったの二品。
そのひとつ、この納豆じゃないと・・・頑固に
長く買い続けているのがこの芝崎納豆なのでした。

神田明神下の老舗天野屋の納豆で、明治から流行りだした水戸納豆より
ずっと前から存在するお江戸の味。

江戸の人は納豆が大好きで、刻んで味噌汁に入れちゃうほどだったらしい。
今ではちょっと考えられないが、笊に山盛りにして納豆売りが歩いていたとか。
さすがにニオイはすごかっただろうなぁと思いつつ・・・・。
(明治になって、この売り方は臭いので包んで売るようにお達しが出た)

さて、芝崎納豆は粒が大きく、かなりネバリが強い。
いまどきのパック納豆では味わえない芳醇な香りで、懐かしい本当の味がする。
(この芝崎納豆も同じくパック入りなのですけどね)
我が家では神田明神で買わず(ちょっと遠い)、近所のデパートで購入しているが(笑)、
年始は天野屋さんがお休みなので、12日以降にならないとこの納豆は
出回らない。で、さっそくさきほど今年初の納豆を買ってきた。

昼ごはんで食べたが、やはり癖になるこのお味。美味しい。

普通のパック納豆よりも値段が張る分、ケチな我が家では毎日食べるわけでは
ないが(爆)、でもやめられない感じだ。

・・・・・・さてと写真を撮ろうと思い立ったが、すでに遅かった。
袋は捨ててしまった後で、あわてて救助したがクシャクシャになっていた。
す・・・・・すいませんっっ。トホホ。

次回購入の際には、画像をアップ予定・・・・・・(汗)。

追記
調べたら天野屋にはホームページがありました(ショップもあり)。
こちらです。

便利な世の中になりました。
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# by aroe-happyq | 2007-01-13 14:09 | 江戸東京あれこれ | Comments(0)
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好きな人はとことんのめり込み、嫌いな人はとことん嫌いになる。
そんな香港の風変わりな映画監督、王家衛。

彼といえば、優秀な美術作家の張叔平、名カメラマンのクリストファードイルの映像と合わさって、美しく斬新な映像とセンスの良い音楽、豪華な俳優陣(キャスィングが見事)で有名な作家。
・・・だが。
もともとシナリオ作家なので台本はかけるはずなのに、
たいして用意も準備もしないでクランクインするから、大スターでも
新人でも彼の作品に出る俳優さんは大冒険を味わい、
ギリギリになって仕上がった作品は配給会社もびっくりの
新しい内容に生まれ変わっている、奇怪な離れ業を繰り返すことでも有名だ。

そして観客もまたどんどん変わる設定や展開に流される・・・・。
ときどきあまりに強引ゆえにわけがわからなくなり、眠気さえ催し、
「なんだかよくわからない」と感想をもらしつつ、帰途につく。
自分もまたそうした経験を何度も味わってきた観客のひとりだ。
「花様年華」の初見のときは2分ぐらい寝ていた・・・。
(まわりはみなこっくり、こっくり・・・・肩が揺れていたし(爆))

なのに、なんだか癖になってしまった作家だ(笑)。
もちろん「恋する惑星」や「いますぐ抱きしめたい」など
わかりやすい映画もたくさんある。渋谷系?として人気のあった「天使の涙」もある。
だが、「欲望の翼」「花様年華」「東邪西毒(邦題:楽園の瑕)」など
王家衛ワールド全開の作品群もかなりいける口になってしまった。

映画としては評価が分かれるかもしれないが、
ビデオなりDVDなりで何度も、何度も見ていると、じわじわと良さが
味わいが出てくる。
あまり大きなスクリーンよりTV画面ぐらいがちょうどいいのだ。
何度も深夜にのんびりとみていると、台詞が急に胸に迫ってきたりして、
感動さえしてしまうのだ。
まさにスルメのようになんども噛みながら、味わい尽くすような作品ばかりだ。

そのスルメな映画は寒い夜にふと見たくなる(笑)。
ちょっとマニアな自分は最大級に秘蔵映像の入ったフランス版DVDを
引っ張り出したりするのだった。
2046とか、花様年華を所有しているが、
まずは古い「花様」から。
実はこのDVDを購入してずいぶん経つのに、たぶんいまだに特典ディスクを
全部鑑賞しきれていないという気がする・・・・・・。見るたびに知らない映像が
出てきたりするし・・・。通してみたら何時間かかるかわからないほど充実している。
(フランスのDVD製作担当者さんの熱き魂に感謝!)

映画の鑑賞法としては邪道かもしれないが、
この王家衛だけは何度も鑑賞で味わう方式が許されてもいい監督だと
思う。確かに完璧じゃないし、やっつけっぽい部分も多々ある。
もう少し根本の設定作りに時間をかけたらもっと面白かっただろうに、
なんても思ったりするわけだが、出来てしまったものはしょうがない。
(「2046」なんて蔵出し映像部分が一番美しかっただなんて・・・ひとにいえないっ)
↑こういうことがあるから、DVDでの鑑賞が望ましいのだ(きっぱり)。

*ここにアップした画像は日本版ポスター。そのデザインの良さから欧州ではもっぱら
この画像がファンサイトで使われている。
日本で公開されていたときには赤が強すぎかな?なんて思っていたけれど、
これもあとになってじわじわ良さがわかってきたりして・・・・・(笑)。
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# by aroe-happyq | 2007-01-10 19:02 | 香港&アジア映画 | Comments(0)

岩瀬の日記

ふとぐーぐるで調べ物をしていたら、
こんなページに行き着いた。

・岩瀬鴎所日記他 自筆 6冊
 幕末の外国奉行岩瀬肥後守忠震(1818-1861)の手記、手控帳。岩瀬は幕臣で、老中阿部正弘に抜擢され、米英等との開国条約の折衝に当った。岩瀬自筆の資料は伝わることが少なく、幕末史のきわめて貴重な資料といえる。


こ・・高額って!なんじゃそりゃ!
いやいやその前にちゃんと早稲田大学の図書館に
岩瀬の日記が戻っていたのではないか!
戻っていない話は確かに古い本に出ていたのだが、その後
だれもこの話に触れていないのでなんだかヤバイ話なのかと
思っていたら・・・・・・。

・・・・・早稲田ではこのように貴重な史料を放置っすか・・・・・・・。
誰も研究してくれないのですかねぇぇぇ。
岩瀬、すごい人材というだけでなく、その豊かな人間性が非常に面白いですよ~~ぉ。
確かに江戸ッ児侍で文人ですから、変わっているかもしれませんが、
その合理的で洒脱で開けっ広げな性格に触れるにつけ、
研究していて心が温かくなること請け合いですよ~~ぉ(って誰に語っているのだ)。
きっと日記を読み進んでいったら、「ぷっ」って噴出すことも
あれば感涙することもあるかもですよっっ。←必死
どなたか岩瀬の研究してくださーい。
(嗚呼、人生をやり直せたら日本史専攻に鞍替えするところなのに)
江戸の文書が読めれば、なんとかして写しを入手して・・・・・
(ツテがないわけではないのである・・・)
などという野望が生まれるのですが、まだ修行中でござる!(号泣)。

だいたい幕臣にはまってまだ日が浅いのに原文とわ、そんないきなり
ハードル高すぎ・・・・・です。

でもこの手控帖つてもしかしてオズボーンのおりにも手してメモっていた
それではないだろうか。・・・・・むむむ、ますます興味が・・・・。

木村摂津守さんの日記が慶応図書館から刊行されたみたいに、
早稲田さんにはぜひとも刊行してくださって、そして貴重な幕末の財産を
日本人で共有したいものです~~~。

くどいぐらいですが、岩瀬って日本人として知っておいて損のない人ですから!

*この日記の一部は「岩瀬肥後守忠震とその手記」(『史観通号62』)にて公開済み
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# by aroe-happyq | 2007-01-09 18:31 | 外国奉行ズ | Comments(0)
内館牧子さんがシナリオときいた段階でいささか不吉な予感がして、
みるのはよそうと思っていたはずなのに、あの時代の大砲を予告で
みちゃうとついつい・・・・・その動いている映像をみたくなって。
そしてついつい見てしまった。

細かいつっこみは多くの方がすでにされているはずだろうから、
ここではどーしても気になった、たったひとつだけに触れたい。

私の聞き間違いでなければ、
なんだか松平容保公が京都守護職になってほどないころから、
戦争があるようなムードになっていて、しかも負けちゃいそうな
ことをえんえん言っているのだが・・・・・。
結果的には負けましたが、会津がそんな昔から負けると決まってはいない。
しかも「立派に死ぬこと」とか、最初からネガティブ?
彼らだってそんな前から戦うつもりならもそっと装備もしていたし、
ああいう結果にならなかったかもしれないのだ。

慶応四年(明治元年ともいふ)の一月からあとはずっと、
日本中、敵味方どちらにしても予測不可能な暗夜航路のなかをすすんで
いたのだから、最初から負けると決まっているような戦いは
なかったのではないかと思われる。
(相当に勝利は難しそうという戦いは多々あったと思うが(汗))
奥州列藩にしても、奇跡のどんでん返しの勝利を思い浮かばない
はずはない。輪王寺の宮が榎本らが止めるのもきかず、
東北へむかったときにはもしかして・・・の野望があったぐらいだし。

内館さんらしく、女が元気で、ポジティブなムードがありながら、
どうしても歴史的な結果に囚われすぎでした。
(でも現代シーンはぜんぜんいらなかったです。ラストシーンが
会津魂に触れた主人公の子孫がちょっと挨拶できるようになっただけで
ワインで乾杯する家族の絵って・・・・・・白虎隊が泣いちゃいますぞ)

それから容保公は養子さんなので、あまり「会津魂」は連呼しなかった
のではないだろうか、などと勝手に想像してしまいました。
こういう事情を踏まえての、京都会津藩庁と国許とのささやかな確執とか、
いろいろな足並みのそろわない部分も、おおいなる悲劇の遠因でもあり、
いつの日か正月時代劇十時間ドラマ「松平容保」などで描いてくれたらと
思います。・・・・・ってそれは白虎隊の感想とは関係ないですね、ハイ。
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# by aroe-happyq | 2007-01-09 14:28 | ほんの世間話 | Comments(0)
秋に都立中央図書館にまいりましたところ、人文コーナーの書棚で
偶然に出会ったのがこの本。
宮地さんの本は史料本であっても、初心者にもわかりやすく丁寧に
解説くださるのでなんとなく手にとったら!これがまたなんだかやめられない
感じになってしまったのですが、その日は東京国際映画祭の上映時間の合間を
ぬってコピーにきただけだったので、泣く泣くすぐにこの本と別れた。
年末にほんのちょっとだけ予算が余ったので、思い切って古本にて購入。

正式タイトルは長い!
『幕末京都の政局と宮廷~肥後藩京都留守居役の書状・日記から見た~』
(宮地正人 編解説 名著刊行会)

元冶元年から慶応元年まで京都留守居役をつとめた、
肥後の学者・上田久兵衛の書状と日記をまとめたもの。

肥後藩は朝幕融和運動をおこなっていた派で、しかも京都の最前線にいた
上田が運動実現のため奔走する様子とともに、この時期の京都の政局の様子も
伺えるとてもありがたい史料集だ。

正直、この時期の京都の動静を把握するのはかなり難しい。
というのも、多くの藩が入り乱れて、同時多発的に物事が進んでいるからだ。
まるでオペラやミュージカルで6人ぐらいが同時に歌っていて、
個々に歌う内容がわからない状態に似ている?
・・・なので、これを読んだからといってこの時期について100%の把握は
できないが、かなりヒントはもらえる。
まだじっくり咀嚼していないが、さらさらと読んだだけでも楽しい。

さて、ここでもあの男が登場する。永井主水正(当時は大目付)だ。
上田さん、永井さんと短い時間で仲良くなり、長州征伐などについても
よく話し合っているのだ。
どうでもいい話だが、上田に煙草をお土産にもらった永井はお礼に
さっと扇子に漢詩をしたためてプレゼントしている。さすが文人、風流だ。
(酒好きなのは有名ですが、煙管なんかをカンカンとやっちゃうんですね。
永井さんは。粋だなぁ・・・(笑))

ちょっと面白かったのは、この時期の京といえば新選組。彼らの名も登場するのだ。
慶応元年十月二十二日の項に、

朝柳井来、新選組武田観柳、伊藤甲子太郎、沖田総司来、北京ニ盧俊義アルヲ知ル故也、来客多忙、夕河添来、余醉倒、
(漢字は史料のまま)

・・・・・・・このいっけんするとありえないメンバーで上田に会いにきている(爆)。

いろいろなヒントをくれた上田だが、郷里にかえって維新をむかえ、
思ってもいない形で政権がかわり、無念の思いはいかばかりだっただろうかと
推察されるが、それを押し黙って静かに余生を過ごしてたが、
西南戦争のおり、西郷に味方したとの勝手な罪状で処刑されてしまう。
京では会っていたかもしれないが、明治になって、西南戦争のおりには
一度も会っていないと主張するも聞く耳をもたれなかったらしい。
天下安寧のために奔走した上田の扱いとしては、あまりに酷くはないか?政府軍よ。
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# by aroe-happyq | 2007-01-06 11:11 | 広く幕末ネタ | Comments(0)

アジアンエンタメ&お江戸後期。外国奉行や長崎海軍伝習所がご贔屓☆ BYはな。


by aroe-happyq