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東都アロエ

没後150年企画 堀織部正最後の3ヶ月 第参弾

今のところ『オイレンブルグ 日本遠征記』(雄松堂書店)に
頼ってばかりなのですが、ホントは万延元年分の『外国関係文書』などもチェック
できたら・・・よかったっっ。
しかし今年の猛暑以降、体調が絶不調で胃はやられるわ、腰痛になるわで、
(ま、がっつり痩せられたのは不幸中のさいわい・笑)さんざん。
なにせ生まれてはじめて長期禁酒なども経験いたしました。
よくぞ函館に行けたものだと、元気になった今にして思うと無謀だったワと
思ったり(笑)。そんなこんなで図書館通いもできず、この企画もちょっと
薄味になってしまいました。
堀さん、申し訳ありません~~~~っっ。今度お墓に謝りにいきますっっ(汗)。

ともろもろ言い訳などして、
本日も『オイレンブルグ 日本遠征記』(雄松堂書店)にみる、
11月~12月の様子など。





といっても11月の様子はわからない。いきなり12月1日のところに、

幕府とわれわれの交渉は、あまり進まなかった。(P291)

とある。

ただでさえ、米・英・蘭・仏、そしてポルトガルなどと通商条約を
結んだ状況で、すでに攘夷運動が激しさを増し、外国人殺害事件なども
起こり始めている万延元年のこと、これ以上多くの国と条約を結ぶのは
非常に難しい情勢になっておりました。
これがプロシヤとの交渉開始を遅らせていたいちばんの要因でした。

次に厄介だったのは、プロシヤには関税同盟関係にあるハンザ同盟諸都市という
おまけがついてきて、これらも共に日本と通商条約を結びたいというのであった。
(細かくいうと、こちらは交渉後半に浮上した大問題だったりします↑)
そしてプロシヤのあとにはスイス、ベルギーも通商交渉に名乗りをあげていて、
プロシヤと条約を結んだら、これらの国とも条約を結ぶことになってしまう。
・・・というわけで、交渉は進まなかったというわけです。

しかしこの進まない交渉のあいだに、人事異動がありました。
あの陽気な外国奉行酒井隠岐守が勘定奉行になり、かわって溝口讃岐守
が堀織部正の相棒となるかにみえて、この溝口もあっという間に異動。
その後任も決まらず、
12月初旬、赤羽根接遇所にやってくる交渉役は堀織部正ひとりでありました。

12月4日、この日は堀だけが大目付一人を連れてやって来、かなり長く話していった。

もちろん通訳は森山多吉郎、そしてハリスの協力によって、
ヒュースケンが担当。オイレンブルグはヒュースケンの的確な解説つきの
通訳を殊の外、有り難がっていました。
(おもえばこのヒュースケンもこののちほどなく、赤羽根接遇所からの帰りに
暗殺されてしまいます)
この日、堀織部正はオイレンブルグへプレゼントしている。

堀の贈物の中には(小物ばかりであったが)、数多くの可愛らしい
人形があり、彼はこれらが自分の子供たちを表しているのだという注釈をつけた。
そして公使にこの人形を彼の思い出のために、また日本の衣装の見本として
保存してもらいたいというのであった。


他家に養子に出たわけでもない織部正は父・母そしてひょっとすると
姉妹や兄弟のいずれか、そして妻子(子だくさん)とともに暮していた。
大家族の一員(堀家の当主は父親である)として、家族想いにあふれた
人だったことがオイレンブルグの記録をみても垣間見られる。
10月のある日にはオイレンブルグから琥珀の首飾りが贈られたが、

ことのほか喜び「これは年老いた人(母親)にやりましょう」といった。

とある。妻にではなく母にあげちゃうあたり、ラテン系江戸っ子なのかも(笑)。

さてこの日の訪問では前回に紹介したフォン・ブラントの作戦学の本の日本語訳の
一部分の写しを持って来て、ブラントの息子に進呈している。
そしていろいろ質問している。

彼(堀)はかつて砲兵隊(御小性組のことだろうか?)に勤務していて
多くの射撃によって聴覚を痛めており、そのためか、日本の使節たちがアメリカ
から持ち帰った聴診器を絵にかいてみせた。そして我々が特に隠蔽された場所から
射撃する際、よくやる予防として、爆発の間、口を開けたままにする方法を
知らせると非常に感謝した。


そしてここにも出てきますが、堀さんは絵がうまいらしい。
洋紅の原料について質問した堀にたいして、洋紅の昆虫がサボテンに寄生する
と話すと、
堀はサボテンの絵を明確に描いて見せた。
そうな。いとこの岩瀬忠震も絵がうまいのですが、堀さんも負けていなかったらしい♪

しかしこうして和やかなやりとりのなかでも堀織部正は慎重でした。

こちらからの反対訊問に対して堀の回答は、大部分不明瞭でわかりにくいものだった。
彼にはたとえさしさわりのないことであっても、開放的に話すことは許されなかったし
またそうしようともしなかったのだろう。


外交官であっても、中途半端なポジションとなった堀織部正は
自分の発言をかなりセーブしていた。日本の情報をあまり話さないように
していたし、つっこまれればそれをかわさなくてはならなかった。

12月13日(万延元年11月2日)
奉行の堀織部正と大目付及び辞任した溝口のかわりに竹本図書頭が談判にために
赤羽根にやってきた。今回は堀織部が首席だった。


首席といってもホントの首席は老中首座安藤対馬守。
安藤はハリスを介して、条約交渉を模索中。
なので、堀はその先導役のようなものでした。

ただこの日、

彼(堀)は条約に対する世論の反対はまだけして除かれていないとはいえ、
幕府はやはり公使との交渉に入ることを明言した。


交渉が動きだしました。ところが。

通訳が全権委任状のオランダ語訳を読んで聞かせたとき、
日本人はただちに「ドイツ関税通商同盟」の表現の意味について質問した。
ここから交渉が難航し始めたのである。


実はここでハンザ同盟問題が表面化します。

彼(堀)らは、こんなに多くの国々と条約を結ばねばならぬことを
一応驚いてみせたが、オイレンブルグ伯がすべての国々のために
一つの条約を求めていることを保証したのでこのときは納得したのだった。


これが堀織部正にとって、命に関わる大事件の発端でした。

とりあえずプロシヤ側の条約草案が堀織部正たちに手渡される。

・・・(略)・・・奉行は同じものをただちにオランダ語に訳させ、慎重に検討して
それを今後の交渉の基盤として用いようと約束した。奉行達の見解が
外務掛閣老や老中のもとではいかに重みのないものであるかを知らなかったならば、
彼らのこのときの態度は、完全なる成功の希望を約束するものとしてよかった
であろう。しかし公使はけしてだまされたりはせず、この重要な問題を
閣老自身と討議することに決めたのだった。


安政5年ごろ、それこそ初期外国奉行が関わった五カ国条約のときと
違って、外国奉行の地位の低下は交渉相手にもバレてるし。
なんだか堀さんの立場がないというか・・・・・・。
阿部や堀田、井伊のもとであっても、言葉どおりに交渉の全権を担っていた
頃に活躍した人間にとって、この状況はキツイです。

政治的な話はここで終わっていて、あとは雑談をしていたようで、
堀織部正は日本の遊びの話をしていたそうな。

オイレンブルグ伯は一度彼(堀)の自宅を訪問してそれらの遊びを見たいものだと
いった。すると堀は、病気の人間は遊ばないものだが、自分のように
国家の仕事にたずさわっているものは病気のようなものだと答えた。


解釈に時間がかかるけれど、要するに自宅訪問を断っていたりする
堀さんであった(笑)。

だけど・・・・・・。

哀れな堀よ!これが彼を見た最後だった。
彼はニ、三日ののち恐るべき死をとげねばならなかったのである。

by aroe-happyq | 2010-12-15 10:50 | 外国奉行ズ | Comments(0)