2011年 02月 16日
幕末慶喜とザ・ドクター その2
若手医師の有名人としては、
やっぱり松本良順、
もちろん高松凌雲、ですよね☆
本日紹介するのは、第3の男!?こと柏原学而(がくし)サンです。
詳しいプロフィールはウィキをご覧いただくとして(笑)、
簡単に申しますと、
天保3年、高松藩奥医師の三男に生まれ、のち緒方洪庵の適塾に学びます。
文久2年、洪庵先生の江戸出府をきっかけに江戸に出る。
石川桜所のもとでさらに医学を学んでいましたが、
文久3年洪庵の死去ののち、
水戸藩と繋がりの深い高松藩へ一橋家から柏原を召し抱えたいという打診があり、
元治元年4月から一橋慶喜の侍医となりました。
(高松凌雲が一橋家に仕えるのはこの約1年後)
慶喜は学而を「医学が卓越していること、そして容姿端麗、人格円満」
ということでたいへん気にいった。
(この時、慶喜28歳、学而30歳。年齢も近い♪)
元治元年2月に松本良順先生のゴットハンドに助けられた慶喜は、
「蘭方医をそばに置きたい」と思ったのでしょうネ。
そしてわずか2ヶ月後に学而がやってきたのでした。
しかし、時はまさに動乱。
柏原学而(実はまだ当時は学介さんと名乗っていました。慶応3年ごろ
慶喜によって号の学而に統一したそうですが、ここでは便宜上学而で通します)
が、大活躍したのは、慶喜の治療ではなく、
池田屋騒動、用人平岡円四郎暗殺事件でして、この2件に真っ先に駆けつけ
外科治療をほどこしたのがこの人でした。
つまり、新選組隊士のなかにも柏原さんのゴッドハンドに助けられた人が
いたはずです☆
続いて、蛤御門の変。
慶喜に従って禁裏に入り、どちらかというと医師としてよりは
慶喜側近として太刀を抜き、慶喜を守ったという。
この大乱のあと、京の町には焼け出され負傷者が溢れましたが、
柏原は慶喜に建白して、施療病院設立の急務であることを説き、
また京の医師と連携して「京都医学研究会」を組織しました。
最大の大活躍は、鳥羽伏見の戦いのとき。
すでに松本良順の自伝をよみ、慶応3~4年当時、良順センセは
江戸にいた事をご存じのかたは多いかと存じます。
ドラマや小説では鳥羽伏見の戦い後、大坂城で負傷者の治療に当たった
医師が良順としているものも少なくないですが、
実は柏原学而センセがやっていたのでした(笑)。
……つまり、永井尚志系の本による、
暗殺未遂事件で負傷した近藤勇に「慶喜が遣わした」(実は永井が)
といって松本良順を伏見へ派遣した話もアヤシクなるわけです。
でもこの場合、慶喜の侍医柏原学而がひょっとして永井に同意して、
伏見に行ってくれていたら、近藤さんにとってこの方が名誉なのですが。
残念ながら、その証拠は今のところありません(笑)。
さて大坂城で治療にあたっていた柏原先生ですが、
慶喜の命令で開陽に乗せられ、江戸に一緒に帰らされてしまいました(汗)。
ほとんど常に慶喜は柏原をそばに置いていたほど信頼していたので、
やむおえないのですがっっ。
(慶喜自身、当時風邪引いてましたんで。医者が必要なのでした)
ん~~~~あとは誰が治療したのでしょう(爆)。
その後は松本良順、高松凌雲が戊辰戦争に身をおくなか、
柏原学而は君側を離れずの道を選び、慶喜に従って
水戸、駿府へ移り住みまして、のちに静岡で開業し、
静岡医史にその名をとどめております。
さて、この柏原さん。徳川家臣随一の酒豪で「大関」と呼ばれた
ほどだったとか。
なかなか豪快な人で、興にのれば慶喜の前でも歌をうたい、
あるいは裸踊りもなすったとか(笑)。
福沢諭吉とは適塾以来の親友で、お互い大人げないところは一諸だったらしい。
柏原は徳川家のことになるとムキになって反論するとか、
洋服は着ないとか、(主君慶喜に似て・笑)剛情なところもあった。
ただ諭吉と違うのは「福沢君は金銭に明るいが、俺はまったく無智」
だったそうで、権威主義でもないし、
患者も貴賤を問わず分け隔てなく平等に診察したという。
おそらく戊辰戦争に関わらなかったあたりで、いまいちな知名度なのかも
しれませんが、その分、池田屋事件や蛤御門の変などで
目立ったはずなんですけど~~~~~。
これからひょっとして、有名になるかも???な逸材さんです☆
学而の伝記としては、以下の本がおすすめ。
土屋重朗著『静岡県の医史と医家伝』 戸田書店、1973年
この本の第6章第7節「柏原学而伝」がいちばん詳しいです。
日記類なども存在するようなので、いつか翻刻を読んでみたいものです。
柏原学介は19歳だった安政元年から(長与専斎と同期)
文久2年まで8年間
適塾に学んで、最後には塾頭にまで登りつめています。
適塾は長州出身者が多く、歴代塾頭も半分近くが長州で
進路も資料で結構明らかなんですが
柏原学介の経歴やのちにどうなったのか、あまり馴染みがなくって
くぐっていたら、はな。さんの所に来たんでびっくりしてしまいました!
一橋家に仕えていたとは、ほんと適塾の人材も幅広いものだし
さすがに塾頭まで行く人物は違うもんだと改めて感じました。
再来週のヒストリアは「緒方洪庵とスーパードクター」(仮題)って
テーマのようですが、まさしく柏原さんもその資格ありですね。
出てこないかな~
あとリンクの方、お願いできませんでしょうか?
適塾から橋本左内、そのつながりで岩瀬さんや川路さんを
調べ始めています。
また、よろしくお願いします!
>柏原学介
高松藩繋がりで水戸→一橋というルートにのったと思われますが、さすが適塾♪人材豊富!だと思いました。
>「緒方洪庵とスーパードクター」
再来週のヒストリア、ぜひチェックしてみますっっ。
リンクの件ですが、
こちらこそよろしくお願いいたします☆
(さっそくはらせていただきます♪)
ご子孫さまが医学の道へ進んでおられるとは。
貴重なお話、ありがとうございます!
土屋重朗『静岡県の医史と医家伝』の「柏原学而伝」によりますと、
シーボルトのもとで蘭医学を学んだ柏原謙好は讃岐で医家となり、
嘉永2年には讃岐で最初の種痘を実施したとか。
また謙好には家業を継いだ長男の謙益、
次男の信富(松本氏を嗣ぐ)がおり、
学而は三男だった・・・・・・というようなことが、
書かれておりましたので、メモとしてちょっと記しておきます。
【静岡編②】には慶喜公と美賀子夫人の事も書かれて
いますよ
維新静岡史~柏原学而
【生い立ち&京都編】
http://ip.tosp.co.jp/BK/TosBK100.asp?I=KEIKISAMA&BookId=1&KBN=1&PageId=137640&PN1=30&TP=199&SPA=210
【静岡編①】
http://ip.tosp.co.jp/BK/TosBK100.asp?I=KEIKISAMA&BookId=1&KBN=1&PageId=145250&PN1=31&TP=210&SPA=210
【静岡編②晩年】
http://ip.tosp.co.jp/BK/TosBK100.asp?I=KEIKISAMA&BookId=1&KBN=1&PageId=145879&PN1=32&TP=221&SPA=210
ちょちょっと内容を拝見したところ、柏原学而に関する情報ソースは
土屋重朗『静岡県の医史と医家伝』の「柏原学而伝」のようですネ。
やはり、土屋氏以上の柏原伝は今のところ、ないのかもしれません。