幕末の榎本子 @東京朝日新聞

前の記事で名前を出したので、榎本さんの記事を紹介します。

東京においては国会図書館館内のPC端末から
読売、朝日両新聞の過去の新聞を個々の記事をかんたんに検索できるように
なりました。
今までのようにマイクロで目をしょぼつかせながら探す手間が
省けたおかげでいろいろと助かっている次第です。
前の記事の慶喜はもちろん、永井尚志や小野友五郎などの知名度の低い
みなさんの記事もさくっとみつけられます☆

で、榎本さんなんですけど。
わたしは勝手に「釜さん蟻地獄」と命名していますが、
いったん検索してしまったら最後……そのあまりに膨大な記事のなかに
はまりこみ、ほかの作業ができなくなる、恐ろしくも楽しい世界が
待っています。
A4判コピーですと20円という、国会図書館では安い!お値段もあって
ついついあれもこれもとクリックしてしまいます(笑)

で、
今回紹介するのは、明治41年10月17日の東京朝日新聞。
榎本武揚氏が亡くなられて、追悼特集のひとつであります。

幕末の榎本子(一) 安藤太郎氏談

▲事業の最大人物

今の榎本子爵を見るもの、或いはこれを二流といい或いは三流という。
しかし明治元年旧幕府三百年の歴史を双肩に荷て日本に並のない
開陽回天幡龍その他都合八隻の軍艦を率いて
悠然品川台場外に浮かんだ当時の榎本釜次郎氏は名望地位勢力共に
じつに第一流の大々的人物であったのである。
西郷でも大久保でも其の他在朝の名士皆榎本子一人を目の上の瘤とし
彼をどうか処置しなければ枕を高くすることが出来なかった。
朝廷も官軍もはた天下の人も皆あげて榎本子一人を恐怖したのである。
当時の彼はオランダ帰りの新知識を有している、その手足としては
当時無比(今からみればお話にならぬが)の軍艦と精鋭の壮士がある、
東北地方では隠然声援をあたえている、彼は何を仕出すか知れない、
一つは買いかぶりもあったであろうが、当時の子の勢力は
実に天下を圧して宏大のものであった。
横文字新聞でさえもエノモトストルーブスとして
大々的に記載したくらいで、その行動は広く内外人の注目を
惹いたのである。
この時子の年は三十三際であった。



今の榎本というのは晩年のことのようです。
東京の江戸っ子以外の人々の印象としては、
明治10年前後に花形外交官として活躍後は、
なんだかあちこちの内閣(しかも短期間内閣ばっかし)で大臣を
やってた人で、引退後はこれまたあちこちの団体の会長を引き受け、
都々逸や長唄が得意で……な人ということで、二流だの三流だのと
揶揄されたこともあったようです。
薩長やら西のほうの勢力が幅をきかせていた明治のこの頃ですから、
江戸ッ子は所詮、日陰者でありますので、そのなかとしては
榎本さんはずいぶんがんばったほうだと思います。

だからこそ安藤氏は戊辰の頃の榎本は本当にすごかったんだと、
どうしてもいいたかったのでしょう。
ただ「朝廷も官軍もはた天下の人も皆あげて榎本子一人を恐怖したのである」とまでくると、
西軍にとってはダースベイダーかデスラーか!?みたいですけど(笑)。

ちなみにこの「幕末の榎本子」シリーズは3まであるのですが、
ここから品川脱走~箱館戦争の流れはほぼ既にみなさまご承知のお話にて、
あえてここであらたに打ち直すほどのものではありませんので、
(なんだかもう、話がやたらデカくなってて、講談みたいっす・爆)
いきなりラストの〆シメまで飛びたいと思います。


幕末の榎本子(三) 安藤太郎氏談 (明治41年10月22日の東京朝日新聞)

▲義理は義理 恩は恩

(略)……降伏後の子は要するに一に国利民福の増進をもって
心としていたのである。かく新旧生涯にわたって榎本子なるものを
観察すると、子は決して自己一人のために行動した人物ではない。
恩は恩で報じ、義理は義理で報いるという意志を
一貫しているのを見ることができる。

▲責任の軽重

新生涯の榎本子は随分傾斜の巷に出没し中々の通人でかつ艶福もあった。
しかもその艶福はすこぶる自慢であった。どこまでもべらんめい的で
時にはいわゆるヅボラの評も免れない。
けれども函館時代の壮年のときはすこぶる真面目で厳格であった。
身を処するには常に慎重、細事にわたって深思恐(?)慮を凝らしたのは
事実である。
責任の軽重が関係しているかも知れぬが、
今の榎本子を知る者はほとんど想像し難い極であった。


※新聞の字が不鮮明な部分には(?)をつけさせていただきました

榎本さんが箱館戦争のころを振り返って、三千の兵の命を預かった
重責は本当に苦しかった…みたいなことをなにかで言ってたような
記憶がありますが、トップに立つというのは本当に孤独で辛いもの
なのですねっっ。
とくに義理堅そうな榎本さんにとっては、
たいへんだったのではないかと思われます。

その反動か??晩年の釜さんは解き放たれていたというか、
のんびりしちゃったわけですから、温かい目でみてあげたいところです(笑)。

ただ、安藤氏がいうとおり、
子は決して自己一人のために行動した人物ではない
というのは本当のことだと思います。
蝦夷ガ嶋総裁時代、官員時代はもちろん徳川のため、国家のために
行動していましたが、
晩年もですね、長唄をやったり、柳橋で遊んだのも、
どんどん寂れて、消え去ろうしていた江戸の文化の庇護者であろうとした面が
大きいように思います。
率先して、江戸趣味に走る。それもまた江戸ッ子の代表として
やむにやまれぬ(←これはウソウソ・笑)行動であったと。

とはいえ、本人があまりぺちゃくちゃ話さない江戸気質なので、
誤解されやすいタイプであるのは間違いありませんネ☆
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by aroe-happyq | 2011-04-27 10:50 | 箱館または釜さん | Comments(2)
Commented by 香音里 at 2011-04-28 01:27 x
はな。さん、こんばんは。
早速素敵な記事をありがとうございます♪

明治になって外交官として活躍していようが、数々の大臣を歴任していようが、榎本さんが皆に愛される理由はやはり戊辰の時に旧幕軍を率いて脱走して戦ったことなんですよね~。

それにしても安藤さんの談話、追悼文にしてもちょっと面映ゆいくらいに褒めてますね。
(後年は「ちょっとヅボラ」と思われていた事は意外でした・笑)
身近にいた人たちからこんなに愛されているのに、どうして小説などで悪く書かれるのか、本当に不思議です。

「釜さん蟻地獄」私もはまってみたいですー!
また素敵な記事お待ちしてます。(他力本願ですみません)



Commented by はな。 at 2011-04-28 10:37 x
香音里さん、こんにちは!
>榎本さんが皆に愛される理由
箱館戦争は大きいポイントだったと思います。それから薩長閥のなかで、江戸っ子として存在感を示した部分も、東京人のなかでは大きかったのではないかと(笑)。
ただ全国的にいうと、ちょっと不思議な人とか思われていたような……。
こういうわかりにくさが、小説で格好の標的になりやすさを醸し出しているのもしれません。
だいたい、慶喜さんといい、武揚さんといい、その実よく知られていないというのが大問題ではないかと。
小説にする人はもうちょっと調べてから書いて欲しいものです。

そんなわけで、今日も人間釜次郎さんを理解してほしいために、またひとつ記事をUPしました☆


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