筒井政憲についての論文

うちのブログは江戸後期の開明派官吏&徳川政府海軍の人々について
メインにおっかけているわけですが、
そのなかでもっとも古い位置にどっしりと構えているのが、
筒井政憲サンであります。

長崎奉行、江戸南町奉行、そして川路聖謨との長崎での対露外交という
オフィシャルな面はもちろん、島津斉彬の師父(一説には仙台伊達公の師父でも
あったとか)であるとか、昼の真面目な能吏の顔と夜はおじーちゃんになっても
夜這いは忘れない(んで息子と廊下で鉢合わせする)ちょいイケイケの顔とか、
いろいろな面で凄すぎる筒井なのですが、その実像となると
散らばっている情報はあれど、なかなかその生涯にスポットをあてたもの
がありません。
でも正直、開明派官吏について研究・調査するならこの人からいっとかないと
全体像はみえてこない、という隠れたVIPなのです。
というのも、この人ほど終始一貫して「開国論」と唱えていた人
は見あたらないこと、しかも一番最高齢だということ。
これだけでも研究の価値があります。

私なりにこの筒井さんの謎について筒井の著書『喎蘭演戯記』や、
上白石 実「筒井政憲--開港前後の幕臣の危機意識について」(『史苑』54 1993年)
や「筒井政憲遺聞」(『森銑三著書集9巻』)、『幕末外交関係文書」に
みえる筒井の上申書等で調べてきましたが、
なにせ素人ですから、「筒井ってこういう人だったんじゃないか」という
結論についても自信がありません(笑)。
そんなとき、失礼ながらまさにドンピシャ!な論文と出会いました。


佐野 真由子
「幕臣筒井政憲における徳川の外交--米国総領事出府問題への対応を中心に」
(『日本研究』39 2009年)


この論文、PDFでダウンロードできます→こちら

(上記ページが開かない方はこちらのページから「筒井」で入ってみてください)

ハリスの出府時期の筒井政憲を追いつつ、その出府について
筒井自身の朝鮮通信使招聘経験が生かされたのではないか、という
斬新な指摘がなされつつ、開明派官吏の思想の揺れ動きに注目し、
さらに筒井の開国論の原点を長崎奉行時代に求めるという大変内容の濃い、
長いけれど読み応えある論文です。

ハリスとの交渉期に目付グループが積極的貿易論に舵を切ることは
さまざまな論文で語れてきており、そのもの自体に異論を挟む動きは
ありませんが、その先頭を切って猛ダッシュしていたのが岩瀬忠震ただ一人
的な論調の強いなか、この論文では「早計ではないか」と指摘しています。
岩瀬ファンではありますが、わたしもそう思うひとりです。
岩瀬が外国人とじっくり話し合い、開港開市論へ傾くのは、
けっこう遅くて(笑)、先頭を走る筒井老人はもちろん、
長崎に3年滞在して蘭人英人と交渉し、海軍伝習所を開いた永井尚志、
(この人は嘉永6年のアメリカ国書取扱に関する答申でも期限付にせよ
貿易はアリとしていた。義父の永井尚徳の「おおらかなる開国論」とともに
もっと注目されるべき)、箱館と往復しつつ、こちらも外国人と交渉して
海外情報に通じていた堀織部正の3人の後塵を完全に拝してるし。
ハリスと付き合いの長い下田奉行井上清直の存在も無視できません。
ただ、頭の回転はめちゃ速いのでこの4人の情報を参考にしつつ、
最終コースに神がかり的な走りをみせるのが岩瀬のすごいところ♪なのですが。
でも、なんでもかんでも岩瀬の意見で目付部屋の貿易論が動いた、
というのは間違いだと思います。
彼の意見の背景に筒井の上申書があり、永井や堀たち友人の経験と意見
があって、井上とハリスのパイプがあって、それが団結した結果なのです♪

そして筒井の貿易論の原点について。

彼の「嗚呼人情之貫乎古今通乎四海」という長崎での感慨が、
約40年を経て、ハリスを江戸に呼び、日本の開国を促進したと
言うことは、あながち大げさではないと思う。


これまたまったく同意、同意!!と拍手喝采でありました。
この「嗚呼人情之貫乎古今通乎四海」というのは、
『喎蘭演戯記』の跋文にみえる筒井の言葉です。
この本については以前にブログに記事にしましたが、
文政3年(1820)、筒井が長崎奉行の任期を終えて江戸に帰るとき、
出島の阿蘭陀人が筒井ともう一人の長崎奉行のために演劇をおこなった、
その台本を江戸で筒井が日本語で(笑)出版したものです。
(この本、当時の江戸の文化人のあいだで人気となったそーです)
『喎蘭演戯記』は『海表叢書2』に収録されていて、随分前に複写して
読んだのですが、台本部分よりも、この跋文がよくて、
とくに嗚呼人情之貫乎古今通乎四海という言葉は、まさに筒井の
その後に対外姿勢をみるとき、とても重要だと感じたものですが、
こうして研究されておられる方に言っていただくと「あっしの
筒井観もあながち間違っていないみたい♪」とホッとします。

詳しくは、ぜひぜひダウンロードして読んでいただければ、
と思います。
ほとんど無名ですけど、
筒井さんを把握することは本当に大切だなぁ
ということをあらためて確認させてくれた素敵な論文でした☆

筒井研究の発展を祈りつつ、紹介させていただきました!
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by aroe-happyq | 2011-07-26 11:50 | 幕臣系 | Comments(10)
Commented by きりゅう at 2011-07-26 14:22 x
はな。さん!!
いつもながらすごい情報をありがとうございますっ!
川路&井上兄弟を知る上でも欠かすことのできない人物……なのに、なかなか(私にも読める)情報がなくて~~だったのですが、うれしいなっ♪
早速読ませていただきまする!!
Commented by はな。 at 2011-07-27 09:46 x
きりゅうさん、うちのブログがいちばん伝えたいことに反応していただき、ありがとうございます!!
ブログやってる甲斐があります♪♪

>川路
むうっっ。この論文では川路さんは目付の抵抗勢力こと勘定奉行ズの仲間として登場するので、ちょっと立場がありましぇん(汗)。
わたしとしては慎重ではあるけど、川路・水野(忠徳)ら勘定奉行ズも貿易論に対してそれほど後ろ向きではないと思っていまーす☆

Commented by 酒井隠岐守腰元 at 2011-07-27 17:02 x
はな。さん、ごちそうさまですっ!
かつて『オールコックの江戸』をくりかえし読みました。

商館長は横死しちゃうし、ジャカルタから船は回せなくなったオランダの厳冬時代その後、ありがたいものでした。
足尾の銅が世界に運ばれたのですね、オランダはこれが欲しかったぁんだ。なかば脅しと嘆願、おかげで頭に刻みこめました。

長崎奉行に続き、南町奉行が妙に長い筒井さま、気にはなっておりましたが、後回しに(苦笑)。
そうか、大目付は目付と協議するんだ、わたしはもっとガチガチな縦割りととらえておりました。
いかんです、頭固すぎです。

なぜ、ああも外国奉行ズは活躍できたのだろう、その源流と支えた土壌はどこにあるのだろう?
それがわたしをとらえている魅惑な謎です。

はな。さん、なんてすてきなおもてなしでしょう!!!
Commented by はな。 at 2011-07-28 10:24 x
酒井隠岐守腰元さん、召し上がっていただけてなによりです☆
>大目付は目付と協議する
大目付は御用部屋(執務室)がなく、目付部屋の隅っこに屏風で囲って、いわば居候みたいな形で仕事をしておりました(笑)。
(めったに大目付が机の上で書き物をすることはなかったようなのですが)
想像して一番笑えるのは、嘉永6年~安政元年の大目付堀伊豆守(父)と目付堀織部(息子)はどうしていたのかということ。
まさかの同時期父子目付部屋同居(笑)です。
なるべく交代の順序をやりくりして顔を合わせないように済ませるとか(爆)、なにか工夫しないと、あまり広くない部屋に一日じゅう一緒にいる羽目になりますっっ。
そんなこんな…江戸城内はドラマがいっぱいです☆
Commented by 酒井隠岐守腰元 at 2011-07-29 12:04 x
はな。さん、こんにちわは!
ええっ?えー!ええぇー!!
芙蓉之間でゆったり過ごしておいでとばかり思っておりました。
大目付、居候の原因はなんだったのでしょう?
弘化元年の本丸焼失の再建が縮小気味なのか、嘉永五年西丸焼失で飛び火し居場所がなくなった位しか思いつきませんでした(汗)。
いずれにしても暇人お達者くらぶの扱いだったのでせうか?

>まさかの同時期父子目付部屋同居(笑)です。
伊豆守パパは述斎に娘婿にと見込まれたり、大塩の乱に着任早々巻き込まれたり、血の通った感がありましたが・・・
見たい!垣間見たい!!この瞬間から伊豆守パパ、萌えキャラ決定☆
万延元年の焼亡のときに堀家千両上納した記憶があるのですが、質実剛健で子沢山な堀家のみなさん、なまじ強面っぽいだけに、やっぱり見たいー!!!
と、腰元のたしなみを忘れてしまうのでありました(恥+笑)。
Commented by 酒井隠岐守腰元 at 2011-07-29 13:28 x
義経を忘れていいかと岩瀬問い (駄句、失礼します)

はな。さん、岩瀬さまがいたずらっぽい顔をなさいます。
主語は主役級でも二枚目でも甥っ子、はたまた俺様でもいいような気がするのですが、目付部屋に堀さま親子と岩瀬修理さま同席の時期が短いながらあるように見えます。
わあぁ、伊豆守パパ気疲れで首肩背中ガチガチだったかも。
いや、もう笑ってのけるしかないか。
茶利に笑っちゃたほうがいい。
しかしながら、目付部屋って笑っていいもんだろうかと?
Commented by はな。 at 2011-07-30 19:41 x
酒井隠岐守腰元さん、堀父子IN目付部屋に食いついていただき恐悦にございます(笑)。
>大目付、居候の原因
普段は城内で事務仕事のない御役目だったので、部屋をもらえなかっただけのようです(笑)。でもたまには事務仕事もあるわけでそういうときは目付部屋の隅を借りて、屏風で臨時執務室を設けていたとか。

>大塩の乱に着任早々巻き込まれたり
密告者が現れなければ危うく大塩一派に爆殺されるところでした(笑)。林述齋(義父)が大塩から借りた金を返済していなかった恨み・・・で狙われたわけではありませんが(爆笑)、堀パパ死なないでよかったです☆
Commented by はな。 at 2011-07-30 19:51 x
続きです(笑)。
>岩瀬さまがいたずらっぽい顔をなさいます。
絶対岩瀬は面白がって、爆笑していたと思います。

>伊豆守パパ気疲れで首肩背中ガチガチだったかも。
父子が鉢合わせした場合、おそらく堀織部正(息子)のほうがキンチョーしていたように思います。繊細な男なので(笑)。
(でそれをみて爆笑している、いとこの岩瀬・・・・・・)
堀伊豆守パパは箱館で織部正がお世話になっていると村垣サンにさまざまな贈り物をしてしまふほどの息子想い。昔はグレてしょうもなかった我が子と同じ部屋で仕事ができる喜びを噛みしめていたのではないかと♪

>目付部屋って笑っていいもんだろうかと?
基本的には静かにしていないといけない部屋だと思うのですが、温和な鵜殿が筆頭で、岩瀬がいて、永井なんかもいたとしたら・・・もうそこはチャリ地獄(いや天国といふべきか?)だったであろうと。陽気な目付部屋と化していたと思います。なぜなら彼らにはそういう緊張している部屋の空気自体が我慢できないほどの笑いのツボだったと思えますので・・・・・・(笑)
Commented by 酒井隠岐守腰元 at 2011-07-31 11:35 x
連投すみません。
>林述齋(義父)が大塩から借りた金を返済していなかった恨み・・・で狙われたわけではありませんが(爆笑)
林家の用人がもう江戸ではどうにもと金策しに大阪に出向き、大塩さんが今後迷惑をかけないからと門弟の富裕農民からかき集めた一千両を用立てたと知って、大塩さんなんとお人好しなと涙しました。
だって、述斎ったら本妻おかずにあっちこっちに側室ふやしてばかり。
漢籍購入より、家政の維持で火だるまだったとか。三千五百石も禄高ありながらって思ってました(笑)。
家斉の縁戚として大名をコントロール計画は幕府の財政をより傾けちゃいましたよね。
ビクトリア女王が欧州親戚化に励めたのはインドを植民地にしたから。
ともあれ、述斎が大奥肥大化の一因の気がしてなりません。
伊豆守パパは舅を反面教師にしていたに違いない(笑)。
Commented by はな。 at 2011-08-01 17:24 x
>大塩さん
「恨み」というのはギャグですが(笑)、むしろ大塩さんは良い人。反乱を起こす前、林述齋に「貸した金は返済しなくていい」とわざわざ飛脚を江戸に飛ばすほど、飛ぶ鳥後を濁さずなきっちりした御方でございますから♪
述齋さんは大名のぼっちゃまなので、どうしてもお金の使い方が・・・。

でも筒井さんもド借金こさえていたそうなので、・・・・・・みなさんなかなか「倹約」って難しいのだと思います☆


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