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アジアンエンタメ&お江戸後期。外国奉行や長崎海軍伝習所がご贔屓☆ BYはな。

軍艦繰練所で学んでいた、土佐の細川潤次郎

長崎海軍伝習所といい、軍艦繰練所といい、
意外な人物が登場するものですが、この人もそのひとり。

土佐の俊才、細川潤次郎サンです。
幼名は熊太郎、諱は元、十洲と号す。

・・・・・・・・なんか、幕末の土佐スキー方面でもあまり名前を
おみかけしないのですが、この人はかなりホンモノ!(笑)







儒者、そして英学者、法学者の細川は、
天保5年生まれ。儒者の家に生まれたため、幼少期から学問に精通し、
十歳の頃には父に代わって門人に四書五経の手ほどきをしていたという
伝説を持つ(笑)。
安政元年に長崎に行き、高島秋帆に師事して、蘭学・兵学を学んだが、
それでは飽き足らず、安政5年江戸に行き、築地の御軍艦繰練所に入所。
兵法・航海術を学び、ジョン万次郎に英語を習いました。
繰練所には文久元年までいましたが、帰国命令が出て土佐に戻り、
藩政改革に従事。のちに山内容堂の侍講・側近となります。
明治4年に欧米に渡り、帰国後は左院(明治初期の立法機関)議官として
法律作成に携わり、新聞紙条例・出版条例・戸籍法の起草に参加。
その後は数々の省庁を渡り歩き、貴族院議員を経て、政界を引退。
以後は教育者として活躍していくのですが、そのあたりは割愛(笑)。
なんせ大正12年、90歳まで生きた、ご長寿さまです(爆)!

で、御軍艦繰練所。
初代総監永井玄蕃頭の方針もあって、
徳川家臣以外も学びたい人はウエルカムだったので、
いろいろな人物が入所していたようなのですが、
なにせ繰練所の史料が少なくて、その全体像は掴めていません。
こうして、経歴にこそっと「実は入所してました」が書かれていて、
ようやくひとり、ふたりと把握していく次第。

とくに徳川直参以外はホントに名のり出ていただかないと、
わからんな状態です(笑)。

わたしが細川を知ったのは、なにかの本で
大政奉還時に容堂邸で春嶽とともに奉還について協議した永井玄蕃頭が
帰り道に刺客に襲われそうになった件のおり、容堂側近の細川が永井を
逃がす手助けをした・・・・・・と読んだので「誰だ、細川って!?」と興味を持ったのが
きっかけ(笑)。

でもこの話、事実はちょっと違ってて、例の史談会速記禄の永井の談話では
(『史談会速記禄』172「付録 島津家事蹟訪問録」の山内容堂ノ話」)
後日細川(潤次郎)等に面せしに、君(永井のこと)余程危険なりし。当夜
予(細川)を始めとして君を待ち伏して覗ひたりとの話なり

と逆だったみたいですけど(笑)。
(細川と後藤象二郎は、大政奉還について、意見が違ったみたいです)
つか、安政5年繰練所入所なら、ひょっとして永井邸に入所手続きいったんじゃ?
総監に危害を加えるつもりだったのかよー、みたいな(笑)。
でもこの細川と永井は明治5年2月から、少なくとも3年間は左院議官として
(最初はともに少議官。のち細川は二等にあがりますけど)同僚だったらしく、
その頃「あのときはね~」と後日談を披露したようです。
その後もつきあいがあったらしく(細川はすんごい多趣味な人なんで共通の話題は
たくさんありそう・笑)、細川潤次郎は永井の葬式にも来てました(笑)。

明治期の細川の活躍などをみても、土佐の人がなぜ
この細川潤次郎を贔屓にしないのか、謎~~~~っっ
ビックマウスさんのようにワイルドさはないですけど、
こうした実務でコツコツ世間の役に立つ人を
もっと大切にしてあげたいと思うのですけどね~~~~っっ
(おお!うちのブログで珍しい土佐人PUSH!!!(笑))

この細川サン、たくさん著書を残しているので、
これからぼつぼつ探してみたいと思いますが、
繰練所の頃の回想などがあったら、また紹介しまーす!

そしてこれまたマイナーな軍艦繰練所ですが、
史料が少ない(いや、どこかにあるはず・・・・だけどどこなのか、わからない・笑)
のが玉に瑕とはいえ、蕃書調所とともに、
明治期に活躍した多くの優秀な人材(江戸人に限らず)を輩出した機関のひとつとして、
もちっと注目されたらいいのナと思います☆

それから、徳川家臣以外で、どこかで軍艦繰練所で学んだ、という人を
みかけましたら、どうかご一報くださいませ♪ よろしくです!!
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Commented by enokama at 2012-05-15 18:41
こんにちは!
僕の歴史趣味も元々は土佐がベースなんですが
どうしても中岡慎太郎~乾退助って感じで、土佐勤王党の流れになってしまうので
技術官僚的な人物は忘れがちになってしまうんですよね(苦笑)

細川さんは平尾道雄さんの著作で名は知ってますけど
生い立ちや経歴は知らなかったので、ほんと貴重な情報ありがとうございます。

いつも教えていただくばかりなので、こちらからも気になる人物を紹介します。
弘田玄又。土佐藩医の家に生まれ、父は種痘の先駆者で自身も適塾そして華岡青洲系漢方塾の大坂中之島・合水堂と最高峰の医塾で学び
のちに山内容堂の侍医となった人物です。
おそらく経歴から言って、この細川や柏原学介あたりとも接点があったかと
思います。
また意外な発見があったら楽しいですよね!

Commented by はな。 at 2012-05-16 18:15 x
enokamaさん、こんばんは!
細川潤次郎を知ったおかげで、土佐には土佐勤王党以外でも
面白そうな人がいることがわかりました(笑)。
ただ、細川さんを調べるとき、あまりに論文や本などが少なくて
(とくにWEB)、ちょっとたいへんでした。
というか、まだとっかかりです。
・・・・異例なご長寿のため、明治新聞の追悼記事で得られるはずの
知人・友人たちたちが語る逸話情報が皆無なのがイタイです、細川さん。
お友だちは先にみんな西方浄土へいっていた・・・・という、まさかの番狂わせでした(笑)。

>弘田玄又
おお!山内容堂の侍医ですか♪♪
華麗な塾歴(笑)をお持ちの人ですね!興味深い情報をありがとうございます!
それぞれのお殿様の侍医たちなども探っていくと、
侍医グループ同士の繋がりが面白そうです☆
Commented by 佐藤信義 at 2012-06-15 00:49 x
細川潤次郎のことを調べていただきありがとうございます。義母が細川潤次郎の孫、妻が曾孫にあたります。因みに、義母は井伊直弼の娘、真千代(待子)の孫で、青山幸宜の孫でもあります。細川の長男、一の介が大山巌の娘と結婚していますので、西郷隆盛とも縁戚にあたります。開国を断行した井伊直弼(南紀派)の孫と尊王攘夷派である一ツ橋派と関係の深い山内容堂の侍読であった細川の孫が結婚することとなるとは、ご先祖様もびっくりでしょうね。坂本竜馬から細川に宛てた手紙が家宝としてあることから細川と龍馬は親しい関係であったようです。長崎留学経験のある細川がそのとき得た知識や見聞を坂本龍馬にも話していたことでしょう。中江兆民の師ともいわれています細川ですから、西洋の近代国家体制や思想を坂本龍馬にも伝えていたことでしょう。船中八策も細川なしには生まれなかったと個人的には考えています。また、中浜万次郎とも親しかったことから彼から受けた影響も軽視できません。民主国家として人が平等であるために苗字をもつことを進言したことは有名です。もっと細川潤次郎の研究がなされてもよいのではないかと思います。
Commented by はな。 at 2012-06-15 10:10 x
佐藤信義さん、コメントを寄せていただきありがとうございます!
細川潤次郎については、調べ始めてからわかったことですが、
研究があまりに少なすぎると思いました。
明治以後、新国家の法整備に尽力した功績は、
同じ土佐出身の後藤象二郎と同じように評価されても良いのですが・・。

>民主国家として人が平等であるために苗字をもつことを進言したことは有名です。
わたしも今回調べていてはじめて知ったのですが、
これひとつをとっても教科書に載るべき人物です。

どうも幕末明治史は有名人が偏ったあたりに凝縮しており、
(おもにフィクション小説が原因?なのかもしれませんが)
本当にこの時代に素晴らしい仕事をやり遂げた人物が
まったく注目されていないことが残念でなりません。
Commented by 北野隆志 at 2013-09-25 18:23 x
 緬羊関係の本は大抵、明治2年、日本に初めて西洋原産の緬羊を輸入したのは細川潤次郎少議官だと書いてあります。細川が博覧会視察で渡米したのは明治4年であり、そのとき緬羊8頭を連れ帰ったのですが、いまや明治4年のことだと書いてある本は稀です。
 大正年間から明治2年説が広まり、緬羊の飼育指導者たちがそれを次々と孫引き、曾孫引きしてきたため、こうなったと推察しております。
 青森県のリンゴ史には「大日本農史今世編」を引用して「開拓使次官黒田清隆が洋式農具、家畜等とともに穀菜種子、果樹苗木を携えて帰朝したのは明治四年六月であつたが、それより少しおくれて同年十一月民部権少丞細川潤次郎が、アメリカで買い集めた農具、種子、苗木等も横浜に到着した。これが明治に入つてから勧農主務官庁が輸入した最初の外国果樹苗木である。細川は同年四月渡米したのであるが、その任務は六月に開かれたサンフランシスコ工業博覧会を視察したあと、米国東部の農事博覧会を歴観することであつた」と書いてあります。参考まで。

Commented by はな。 at 2013-09-25 19:02 x
北野隆志さん、
たいへん貴重な細川潤次郎の情報をお寄せいただきありがとうございます。
日本に初めて西洋原産の緬羊を輸入したのが細川であり、
それは明治4年であるとのこと!
初耳のことばかりで、たいへん勉強になりました。

・・・・緬羊関係の本では大正期以来、明治2年説がいわば定説のように書かれているのは
残念なことです。
(明治2年ではまだ世情が騒がしく、海外に視察に行くというのはいささか現実的ではないように
思います。明治4年ですと、たいへん納得できます)
Commented by みずき at 2018-06-24 21:40 x
細川潤次郎著「高島秋帆先生伝」には、晩年の高島秋帆の写真が印刷で掲載されています。撮影者は不明ですが、関係性を考えると中浜万次郎ではないかと思っています。
Commented by はな。 at 2018-06-25 19:28 x
情報、ありがとうございます!
さっそく国会図書館のデジタルアーカイブで「高島秋帆先生伝」を確認
したところ、秋帆先生のお写真がありました。
撮影者が中浜万次郎説、なるほど!と思いました。
Commented by みずき at 2018-06-25 22:34 x
万次郎の写真活動に関しては、歴史読本 2010年7月号に特集があり、江戸江川邸で江川家.講武所の関係者を撮影の話の記載があります。有名な大鳥圭介の写真もこの時期撮影のものと思われます(余談ですが大鳥氏も大変な写真愛好家です)。文久三年、細川潤次郎は万次郎の写真指導のもとに、森村市左衛門を撮影しています。
Commented by はな。 at 2018-06-26 18:52 x
当時の知識欲の強い方々の、止まらない好奇心には常に脱帽状態です。
写真術も、写真家さんだけでなく、言ってしまえば斉彬公から慶喜公に至るまで、
新知識に貪欲な面々を惹きつけてやまないものですが、
万次郎さんもかなり、活動していらしたのですね!
(箱館で写真研究をしていた田本研造さんを、
脱走連の榎本以下のマニアさん達は見つけ出し、
ついに写真館を開かせてしまうほどのレクチャーを施した
エピソードを思い出しました。大鳥さんもそこにいたはず(笑))

そして、細川さんも。皆さん、マルチすぎで、素敵です♪
by aroe-happyq | 2012-05-14 11:02 | 長崎伝習所系 | Comments(10)

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