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東都アロエ

戊辰5月、軍艦回天の箱館行きの目的について

アジアネタですっかり浮かれて、UPし忘れるところでした(笑)。

箱館戦争は有名ですが、今回はその前のおはなし。
キャラ好きの歴女サマには箱館戦争のスターがほとんどでてこない
「なんのこっちゃ」な渋~い内容ですが(笑)、
どうぞお付き合いくださいまし☆

榎本釜次郎(武揚)は江戸湾から開陽ほかを率いて北へと「脱走」するのは、
慶応戊辰4年8月19日のことですが、
それより数ヶ月前、軍艦回天は甲賀源吾&荒井郁之助を乗せて箱館へ
行っています。

たいていは榎本釜次郎が命じて、
箱館の様子を見にいかせたという「状況視察」説が多く(例えば『函館市史』など)、
箱館戦争の前段階、あるいは準備の一貫として語られてきました。

そうではない説をわたしがはじめて読んだのは、
松浦玲著『勝海舟』(P387)でした。
最後の箱館奉行こと杉浦兵庫頭、号は梅潭の『箱館奉行日記』からの読み解き
とのことですが、それによると(以下ざっくりダイジェスト)、
回天は勘定方田中彦八を乗せてきて、持参してきた勘定奉行の書状を
杉浦に渡した。そして「箱館奉行所の管理する金や米を回天で持ち帰らせてほしい」
と要請してきた。しかしすでに官軍の清水谷公考がやってきており閏4月24日には
箱館府もできていることから、杉浦は五稜郭およびすべての奉行所の財産は
引き渡した後なので、それは無理であると断ったのだという。
そういうわけで滞在わずか3晩、甲賀源吾&荒井郁之助は江戸へ帰府したいと
いう奉行所の役人数名を回天に乗せて、箱館を離れた。

・・・・・というわけで、勘定所のお使いで行ったので、
結果的にはのちの脱走の「下見」になったが、そのときはまだそこまでの深謀遠慮
があっての行動ではなかった、という説でありました。

なるほど、と思ったので、その後しばらくして
『杉浦梅潭 箱館奉行日記』(翻刻)のくだんの箇所を読んでみました。

すると・・・・・それだけ(金米)ではなかったのでありました(笑)。

五月四日
○ 回天入港、・・・・・(略)
一 薄暮、帰宅之處、回天船将甲賀源吾、開陽船将二而乗組候由、
  荒井郁之助入来・御勘定彦八等来ル、
  壬四月廿日附御用状並橋本(悌蔵)内状・御勘定奉行より之表内状等来ル
 ○御用状・橋本内状共別事なし、橋本より中外新報その他右類到来
 ○御勘定奉行より之表内状は、則即今御勝手向殊ニ御切迫ニ付、
  当地御有合之米金相廻し可申との云々より其実御軍艦御廻し相成候事也
 ○昨今之場合ニ付最早壱粒壱厘も出来難クニ
  右之次第、田中彦八並荒井・甲賀両氏江も及説得

(『杉浦梅潭 箱館奉行日記』 P536より)
  ※一部読みやすくしてありますし、杉浦さんの人名間違いも訂正しました。


気になるのは、

其実御軍艦御廻し相成候事也

ですネ(笑)。
四月に官軍側にいくつか軍艦を引き渡したので、
徳川海軍としては箱館丸ほか箱館奉行所にある数隻の軍艦を
回収したかった・・・・ようです。
表向きは御勘定奉行の使いの仕事ではありましたが、
甲賀と荒井が榎本からの使いとして与えられた役目は
どうもコレだったようです。

でも回天は江戸を出航したまさに閏4月27日に、
杉浦奉行は清水谷に対して、五稜郭の引き渡し式をやってたわけで、
あとちょっと早かったら・・・・・・・・・・・・・よかったのですが(笑)。

結局、杉浦の説得で勘定方の田中も、甲賀や荒井も納得し、
勘定奉行への返書をうけとると、早々に箱館を発ちました。

どうして『勝海舟』で軍艦云々が触れられなかったのかは不思議ですが、
やはり、こうして原文(っても翻刻ですけどね~~~~・笑)に当たってみると
自分が欲しいと思う情報が待っていてくれるものです☆

というわけで、
細かい情報ですが、混迷を極める慶応戊辰4年の徳川江戸史、
または榎本と徳川海軍の脱走にいたる流れをたどるお役に立てれば幸いです☆
by aroe-happyq | 2012-12-13 14:33 | 箱館または釜さん | Comments(0)