東都アロエ

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アジアンエンタメ&お江戸後期。外国奉行や長崎海軍伝習所がご贔屓☆ BYはな。

田本研造と箱館脱走連との出会いについて

書けるうちにUPしなくちゃ、ということで今日も2本目。
(またまたジャンル違いすぎ・爆)

かの有名な土方写真、榎本総裁写真等々、
箱館脱走連のみなさんの写真を多数撮影した、田本研造さん。

そのほか明治初年の函館港のパノラマ写真、軍艦回天の写真等々、
箱館戦争当時の貴重な写真も撮影し、今に伝えております。

その田本さん、箱館脱走連の写真をどういう経緯で撮影したのか、
気になってました。
箱館戦争モノの小説などでさらっと田本の写真館で撮影した・・・・
みたいなことを読んだり、あるいは、

田本が、本格的に写真場を開いた年として、
早いものでは1868年(慶応4年/明治元)に叶同館附近、
現在の東本願寺函館別院(函館市元町)で開業、程なく
会所町、現在の八幡坂のあたりに写場を移したと伝えられている。

(「田本研造 その生涯と業績」大下智一 
  『photographer's garallery press No.8 田本研造』より)

というように、慶応4年(明治元年)には写真場を開業し、
この年の12月には会所町の写場で榎本釜次郎写真を撮影したという。
(上記の本に掲載の田本研造年譜より)

ちなみに田本研造はもとは紀州の人で、長崎へ遊学していたのですが
そこで親友となった通詞の松本喜四郎という人が箱館奉行所へ転勤になった際、
一緒に箱館へ来ちゃったという人であります☆

で、話を戻すと、
もともと箱館で写真館をやっていて、そこへ脱走ズが客としてやってきた、
と今まで認識してきたのですが・・・・・・・。
どうもそうじゃないらしいんです。

先日行きました、「夜明けまえ 北海道・東北編 」の図録(正式名称は研究報告)
の巻末にあった資料編によりますと。

田本研造は横山松三郎に就いて学び、自らも研究を行って、
最初は写真器械製造の工夫に力を注ぎ、しばらくして玉鏡及び箱を製造すること
ができた。そして、業未だ半ばの時に、旧幕府軍の榎本武揚の部下が
田本研造の家の前を通り過ぎ、その時たまたま写真器材を製造しているのをみて
撮影を求めた。
田本研造は器機の不整備を理由に撮影は出来ないと固辞したが、
是非にと頼まれて、やむなく懇意にしている医師のもとで薬品を揃え、
ここに始めて写真撮影を行った。

(「北海道立志編」『夜明けまえ 北海道・東北編 研究報告』P96)

偶然にも五稜郭の役があって、徳川の兵らが、先生が写真の技を思いのままに
操るのを見て、珍しく思い、争ってその場所へ訪問しました。
榎本武揚以下、緒名士の当時の肖像写真が今日あちこちで
見られるのも、全て先生の神技の賜物であります。

(「逝ける田本研造翁 (上) 函館毎日新聞大正元年10月24日」の現代訳
 上記研究報告P90)

・・・翌慶応3(※これは4の間違い)年9月に榎本武揚および大鳥圭介等が箱館を
奪取し、五稜郭を占拠し、次々と江刺・福山を落とし、箱館の情勢が物騒になったので
当時の人々はそれぞれの仕事に安心して取り組むことができなかった。
しかし、独り写真を生業とするものについては、これに反して、
榎本・大鳥以下旧幕府軍の諸士が来て撮影を求め、門前に常に
列をつくる盛況であった。ここにおいて、田本研造はこれまでおこなってきた
器機製造から目的を一変させ、遂に写真師として立つことにしたのである。

(「逝ける田本研造翁 (下) 函館毎日新聞大正元年10月26日」の現代訳
 上記研究報告P88)

つまり、これら3つの資料をみていると、
もともとタモケンさんは(田本研造と打つのが面倒になったので・笑)、
箱館で写真器機の研究をしていたのを、榎本の部下に家を覗かれ(爆)、
写真できる人いました、というような報告を上司にしたため、
脱走ズの人々がタモケン宅を訪れるようになり、薬がないとか固辞したけど、
結局撮影することになり、それじゃ写真館やるか、ということになった・・・・・・
というようなことらしい。

つまりタモケンさんを写真師にさせてしまったのは、旧幕府軍のみなさんだった
というわけでしょうか(笑)。

写真館を出すきっかけも、つまりは榎本たちってことで。
(よく考えれば、大鳥圭介さんも優秀な写真技術をもっておられるし、
榎本以下の面々も西洋器機に詳しい。
彼らがさりげなくサポートした可能性もなきにしもあらず)

で、その年の12月には会所町に写真館を開いていたと。
会所町といえば、近くには旧箱館奉行所(裁判所もこっちでしたよネ)
もあったり、新選組屯所もあったりなので、土方さんも撮影にやってきた
のでありましょう(笑)。

・・・・・箱館奉行の永井玄蕃は撮らなかったのかな???
(職場のすぐそばなのにな~~~(笑))

というわけで、タモケンと榎本たちの出会いのきっかけに
なんとなくドラマがあったので、紹介してみました☆

それにしても、箱館へいっても、辰之口の監獄にいても、
榎本や大鳥たちは溢れんばかりのマニアックな知識をいかんなく発揮して
なんだかんだいって楽しく過ごしていたようですね♪
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Commented by 酒井隠岐守腰元 at 2013-03-10 15:49 x
はな。さん、こんにちは☆
理系男子の盛り上がりって見てて楽しいですよねぇ!
読みたい!よみたい!!
こんな小説が読みたいデス☆☆☆

桜もですが珈琲の湯気のなんと美しい事♡
いつもながらうっとりでございますぅ
Commented by はな。 at 2013-03-10 19:15 x
酒井隠岐守腰元さん、こんばんは!
>理系男子の盛り上がり
おっしゃるとおりです♪♪
なんだか、極寒の箱館で熱い写真器機トークが
炸裂したかと思うとわくわくします☆

わたしも本当ぉぉぉぉにこういう小説読みたいですっ~~~(笑)
Commented by みずき at 2018-06-29 19:56 x
いろんなところに書き込んですいみません。
長崎出島の商館医ファン・デン・ブルックの商館長あての手紙(1856年7月1日)に「長崎奉行、大目付、海軍大臣閣下ナガイ氏の私宅訪問のさい、写真に話がおよび、私に写真を撮ったことがあるかと質問がありました。そこで、私が撮った何枚かの写真のサンプルや、リンブルグ・スティロム伯爵から贈られたコンスタンティノープルの美しい写真などをお見せしました。」とありますので、永井玄蕃は写真に関してかなりの知識をもっていたようです。この後、ブルックは数人の日本人に写真術を教授しますが、その中の一人が田本研造の師で医師の吉雄圭斎です。なお吉雄の甥には明治天皇のご真影を撮影した、内田九一がいます。
Commented by はな。 at 2018-06-30 15:09 x
みずきさん、こんにちは!
こんなに細かい記事まで読んでいただき、ありがとうございます!
ファン・デン・ブルックは出島の医師ですが、
長崎海軍伝習の一期のおりに、教授方として
伝習稽古人にいろいろ教えてくれた方。
伝習所総監の永井尚志は稽古人に混じって、稽古に参加していた人なので、
ブルックとは旧知の仲だったことでしょう♪
ですが、写真術までかじっていたとは!!
恐るべき永井殿の知識欲。何処までも果てしない……(笑)。

貴重な情報を書き込んでいただき、感謝いたします!!
細々と営んでいるブログですが、それなりにマニアックな江戸幕末情報を探しに
多くの方に訪れていただいておりますので(管理人はサボりっぱなしで恐縮ですが)、、
貴重な情報をコメントで寄せていただけると、
管理人だけでなく、ブログに寄って下さる方々にとっても、たいへん有り難いことです。
是非また、お暇なおりにでも、お待ちしておりますので(*^o^*)、
どうぞ、よろしくお願いいたします☆
by aroe-happyq | 2013-03-09 20:20 | 箱館または釜さん | Comments(4)

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