2014年 08月 09日
勝さんの友人、岡田新五太郎という人。
勝海舟さんの友人(と呼べる人は結構少ない)の紹介は、
かなり前の箱館の豪商・渋田屋利右衛門に続く第2弾ですが、
今回も「誰それ?」系であいすいません(笑)。
・・・・勝さんの友人、面白い人が多くて、一時期かなりマイブームだったもので、
これだけで記事がいろいろ書けちゃうのです♪
ということで、
岡田新五太郎さんについて、今のところまで調べたことを書いてみたいと思います。
(まだまだ調査続行中なので、今後わかったことがありましたら、追加させていただきます☆)
で、岡田新五太郎って、誰?・・・・・・って感じですよね。
幕末ドラマに顔を出さない人なので、この記事で初めて名前を知った人も多いと思います。
確かに岡田さんは、勝海舟関連の書物にしか登場しません。
それも主に長崎に滞在中の勝への書簡情報です(あと海舟日記に数カ所)。
講談社版の勝海舟全集別巻『来簡と史料』に収録されております。
勝のほうから岡田へ出した書簡を合わせて読むと、二人のやりとりがよくわかります。
しかし、岡田が出した勝への手紙に、安政年間の江戸の情報がけっこう満載でして、
岡田さんには感謝しきりだったりいたします。
つまり、この記事も、かなり個人的な新五太郎さんへの恩返し企画の色合いが濃かったり
するのであります(笑)。
ま、とりあえず、書簡やいろいろな情報をもとに作成した、
プロフィールからまいりましょう☆
岡田新五太郎
年齢不詳 ?-文久2年11月16日
住まい:青山御台所町
家族は姉ひとり。独身(らしい)。
松崎 慊堂の門人だった。
麟太郎と共に蘭学を学んでいた。
安政2年 小普請組奥田支配
安政2年10月15日 勘定出役 海防掛
安政4年5月 大砲鋳立小筒張立御用 海防兼務
7月 亜人参府御用取扱
10月11日ごろより、蕃書調所に詰める
安政5年1月11日 貿易筋御用
27日 領事官参府御用
安政6年10月 如何之趣 差控
上記の仕事内容をみると、おそらくですが、
安政2年7月末に勝麟太郎が長崎海軍伝習所へ派遣されることがきまり、
そのひと月後に江戸を旅立つ際に、
懇意にしていた目付の大久保忠寛や岩瀬忠震に、友人の岡田を推薦して出掛けた
ように思われます。
岡田はその後、蘭学の素養があったことから、すぐに海防掛(外交と貿易担当)となり、
その後、ハリスの江戸出府の接待掛になっております。
(つまり、岩瀬や川路、永井などと一緒に仕事をしていたのデス♪)
ただ、安政6年ごろから体調を崩したのか、仕事を辞めており、
その後、文久2年11月16日に病で亡くなっております。
この日の海舟の日記には、
今朝、岡田新五太郎、死去の報あり。故に宅を訪う。岡田、学を松崎慊堂に聞く。
博覧強記、わずかに司農局の小吏となり、終に志を得ず。
惜しむべく、歎ずべし。往時二十年前、予と共に憤発して洋書を読む。
中頃病んで終に業をとげず。しかれども、学甚だ博く、幕府中の畸人なりしが、
碌々として鬼籍に入る。吾人またかくの如くなるべし。
(『海舟日記 (一)』 26P 江戸東京博物館)
天保年間からペリーが来航するまでのあいだ、蘭学者はシーボルト事件や蛮社の獄もあり、
異端者扱いされて、世間の片隅でじっと世間の冷たい目にさらさらながら耐えていました。
勝麟太郎にとって、岡田新五太郎はその時代、共に苦労しながら、懸命に蘭学を研究する
日々を送った、かけがえのない同志だったのでしょう。
かなり強い思い入れのある友人だったように思います。
(談話によると、麟太郎が蘭学をはじめるとそれまで付き合っていた友人はみんな離れていった
とか。そうして孤立したなかで出会った友人岡田は、紛れもなく真の親友だったのではないでしょうか)
岡田さんが勝よりも長生きしてくれていたら、勝の素晴らしい伝記など書いてくれたのでは
ないかと・・・・・。そうしたら、福沢諭吉の「瘦せ我慢」などの悪い評判を吹き飛ばしていたに
違いなさそうなのですけどネ(笑)。
さて、ここから第2章がありまして。
勝海舟は、蘭学の同志である新五太郎に報いようと、亡き後の岡田家を、
なんとか存続させようとしまして、そのための奮闘劇が始まります。
安政初期は独身だった(ハズの)岡田さん、勘定方へ出役後に妻を娶ったのか
不明ですが(実の娘でもいないと養子縁組は面倒なハズ)、
あるいは独身でもかまわず!? とにかく勝マジックの力業によって、
文久3年、奥祐筆の滝村小太郎の末弟を養子として岡田家へ入れ、
岡田斧吉と名乗らせます。
岡田斧吉???
もうピンときた方がいらっしゃるかと存じますが、
そうです、かの遊撃隊の暴れん坊として名を馳せた、あの岡田さんです。
岡田斧吉はつまり、勝海舟の親友・岡田新五太郎の養子だったりします。
ただ・・・・・学者肌の養父とはうってかわって、武闘派のお子さん。
どこからみても、血の繋がりは感じられない、正真正銘のわかりやすい養子縁組関係(笑)。
いやはや、海舟さんも思い切った選択をしました。
ところが・・・・・こんなに苦労して岡田家へ養子に入れた岡田斧吉ですが、
数年ののち、わずか22歳で、箱館戦争で戦死してしまうのです。
しかし勝サンはあきらめません。
今度は自分の男子、四男・七郎義徴を岡田家へ入れるのであります(笑)。
(どうでしょう、この執念!? それとも亡き友への思い入れの暴走??)
・・・・こうして岡田家は続いていくことになったのでした。
というわけで、今回は勝海舟の友人、岡田さんはこんな人という紹介をしてみました。
次回は「岡田書簡にみる安政年間の江戸あれこれ」の予定です☆
岡田新五太郎というフィルターを通した安政年間の江戸情報ですが、
ぽつぽつここだけに出てくるレア情報もあるので、ちょこっとだけご期待ください!!(笑)
(ちなみにそのレア情報、さほど大勢に影響があるネタではありませんのであしからず(爆))

長崎伝習所時代に「算術ができないよ~~」と、
勝さんには珍しい泣きごとの手紙を送った方ですね。
そんな経歴の持ち主だったとは!
(そして斧吉! 彼も勝さん気に入ってたみたいですしね~)
続きを楽しみにしております!!! ワクワク。

明治はじめ、恭順実行委員(笑)になっちゃって、敵はもちろん味方からもいろいろ言われちゃって
苦しい立場だった勝さんの傍らに、岡田さんがいてくれたらなー、少しはストレスも軽くなったのじゃ
ないかと思うのです。
・・・・でも、岡田さんがガチの主戦派だったら、話は余計にややこしくなるけれど・・・・。
斧吉は勝に随分喰ってかかったらしいですが(笑)、勝のほうはそれに対して叱りつけながらも
「この男は豪傑だヨ」と高評価だったよし。
ま、そもそも気に入ったから岡田家に入れたともいえそうですしネ。
新五太郎さんで気になるのは、良い歳の若者が、姉さんと二人ぐらしって旗本は珍しい・・・・・という点でしょうか。
結構、謎の多い岡田さんでした。