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東都アロエ

勝海舟もまた江戸ッ児なり

勝海舟記事はいろいろ書きためているのですが、
やはり最初に更新するのなら、この「江戸っ子」問題かと(笑)。
というわけで、まずはこちらから書かせていただきます。

※現代では「江戸っ子」と書くことが多いですが、江戸末~明治の本を
読むと「江戸ッ児」とか「江戸ッ子」と表記しているので、
当ブログでは一番目にする「江戸ッ児」を採用したいと思います。

さて、何か問題なのかというと、です。

随分前に紹介した、戸川残花「戊辰の榎本釜次郎」についての記事で、

勝伯は七分の江戸ッ子に三分の外藩を加味し、榎本子は九分九厘まで江戸ッ子なり

と残花が書いている件のことです。

たしかに榎本武揚は、江戸ッ児の鑑のような人です。
それは間違いありません♡

ですが、勝海舟もですね、九分九厘まで江戸ッ児なのですよ☆
ということをだらだら証明できればと思います。

戸川がいう「三分の外藩」というのは、ぶっちゃけ薩長などの西国の人っぽい
ということを指すわけですが、
それは勝海舟の育った環境に、西国の人と気が合う、気持ちがわかる、と
言われても仕方がないという事情があります。

というのも、勝海舟は、
剣術の師匠の島田虎之助が、豊前中津の出身で、
蘭学の師匠の永井青崖が、筑前福岡の人だったわけで、
まったくの偶然(島田と永井が知り合いというわけではない)とはいいながら、
師匠と仰いだ二人が、どちらも九州人だったというのがとても大きいように思います。
(青崖が黒田家に仕えていたため、黒田家中屋敷へも出入りしていたし。嘉永頃の
黒田家当主は黒田斉溥で、島津家からの養子。つまり斉彬の伯父さんという果てしなき
九州蘭癖人脈が勝海舟の周囲には広がっていた・・・・(笑))

しかも、30歳すぎて、海軍伝習で長崎に長期滞在するなど、西国には何かと縁があったのです。
こういう過程を経れば、ふつうの江戸ッ児よりは、西国の友人もいるし、弟子もできる。
(妻以外の最愛のカノジョさんも、長崎の人だし(笑))

さらに、相手の事もよくわかるので、「三分の外藩」成分が勝のなかにあっても
おかしくはありません。

しかし、その多様性もまた、実は江戸ッ児の性分の一部といえるのではないでしょうか。

というのも、江戸人以外で勝海舟が親しいのはなにも外藩の人だけじゃなく、
外国人も大勢います。
伝習所時代にカッテンディーケ(2次伝習の蘭人側トップ)とは、この人が
帰国したあとも文通友だちでしたし、アーネスト・サトウやクラーク博士、
清国の李鴻章などなどいろんな国の人と交流しています。

で、この交際上手成分は、もちろん勝海舟だけのものではありません。
あの江戸ッ児の鑑の、榎本武揚も、そうだったりします。
(ロシア皇帝とまで親しいということで、むしろ榎本のほうが凄いんですけど(爆))
つまりは、誰とでも分け隔てなく、腹を割った話し合いができる、交際好きな江戸ッ児
の特性でもあるわけです。
ということは、勝海舟も榎本武揚と同じ、九分九厘まで江戸ッ児ではないかと思いませんか?(笑)。

このあたりを、勝部真長氏は『勝海舟』でこう語っております。

勝海舟の人間の特質は、単細胞的ではなくて、非常に複雑で矛盾した両面を
同時に備えており、多面的・多角的・複眼的なのである。
江戸育ちの江戸弁で、歯切れのよい語り口は、一見、軽薄な都会児のごとくであるが、
シンは強いのである。
強情で、意地っ張りだが、あるところで妥協し調和する。
頑張り屋で努力忍耐・堅忍不抜でいて、執着心はない。物にこだわらず、洒々落々と
しているが、節操は固く、守るべきところは守り抜く。
人情豊かで。侠気あり、血も涙もあり、他人の貧乏を見過ごしにできず、
気前よく金をバラまくが、口は悪い。いいにくいこともポンポンいって、
人が避けて通る忠告・忠言はあえていう。
"徳をもって怨に報いる"の雅量はあるが、しかし前に受けた不当な非難や辱めには
どこかで必ずお返しするをするというところもある。
田舎者と違って生粋の江戸っ子、都会人であるから「党派性」を嫌う。
他人と肩を組んだり、手をつないだり、団結するとうことは、野暮くさくてイヤなのである。
「一人一党(アンデパンダン)」ということを尊ぶ。・・・・・・(略)・・・・・・・

(勝部真長著『勝海舟』(下)PHP研究所 422P)

↑もうこれ以上の江戸ッ児を説いた文章はみたことがないぐらい完璧ですが、
これがまた勝海舟=江戸ッ児として書かれている点が素晴らしいのです。
(つまり丸ごと、勝さんの性格を示すものと言っても過言ではない!)

勝部真長氏は松浦玲氏と共に
勝海舟研究のツートップといえるのではないでしょうか。

最新で、詳細な事実確認が充実しているのは松浦氏の著書ですが、
東京牛込生まれの勝部氏の著書はちょっと古い本ではありますが、
ご本人が「東京っ子」でもあるので、勝海舟の魂を知るにはまさにうってつけです。

で、上記の引用文を、
前に紹介した戸川残花による「江戸ッ児」の定義(つまり榎本さんはこうなのだ!と
いう意味も含んでいる)と照らし合わせてみると。

○流暢の辮、 ○圓滑の交際、 ○洒落の氣風、○侠客風の性、○端的の方法、
○個人的にて黨(党)派心なき、 ○小利口にて器用なる


ほら、一緒じゃん!となります(笑)。

たとえば、「侠客風の性」。
榎本武揚が明治期に旧幕臣、とりわけ箱館戦争で苦労をともにした人々への
手厚いケアはつとに有名ですが(だからといって党派を作っていない点がポイント)、
勝海舟も、わかりにくい感じで、頑張っていたのであります。

旧旗本出身の洋画家・川村清雄へのサポートなどは、
赤坂の氷川邸の一角にアトリエをこしらえてやり、住まわせるだけでなく、
徳川家から歴代将軍の肖像画の仕事をとってきてやったり、
ある年の大晦日に清雄がツケを貯めすぎて困っていると「お前の絵を買ってやる」
と言ってお金を出してくれて
川村の野郎め、ズルイ奴だ、貧乏なおれの金を大晦日に百円持ッて往ッちまいやがった
と笑ったとか(出典:『唾玉集』平凡社東洋文庫592 P158)。
口は悪いですが、勝海舟の「ズルイ奴」とか「悪い奴」というのは好意的な相手に
しか発しません(笑)。

このほか、多くの人々が勝邸に借金を申し込みに来ましたが(三条実美まで!(笑))
旧旗本の瀧村鶴雄によれば「返済等を催促されたことがない」とのことです。
(これに感激したわけではないでしょうが、未完成ながら瀧村鶴雄の書いた『海舟伝稿』
はよくできた海舟伝記だと思います☆)。
貸すと称して、こっそりお金に困っている人(多くは旧幕臣)に援助していたのでした。
勝海舟の父こと勝小吉譲りの、なかなかの侠気でございましょう。
口が悪いし、群れたがらない海舟ですが、弱っている人や動物をみると
放っておけない、見過ごせない、余計なお世話をしたくなるという、
けっこう可愛い人なのです(笑)。

これもまた勝が九分九厘まで江戸ッ児である証ではないでしょうか。

もっとも、江戸ッ児といっても、下谷、浅草、番町・山ノ手(のて)、日本橋、本所・深川など
生まれ育った地域によって、言葉も雰囲気もごく微妙~~に違うので
すべてを一括りにしてしまうのはいささか乱暴なのですけど、
ま、この際ざっくりいかせていただきました(笑)。

ただ、勝海舟さんを調べてきて、たったひとつ気になる点がありまして。

江戸ッ児というと、かつて杉浦日向子氏が唱えておられた、
「江戸っ子はラテン系」説があります。
明日はどうにかなるさ的な楽天家で、よく笑い、よく泣く、
陽気で開放的ということで、それをラテン人のようだとおっしゃったわけです。
杉浦氏はおもに町人を指して言われたと思うのですが、大名旗本にも実は当てはまる人物が
たくさんいます(笑)。
もちろん、戸川がいわなくても、間違いなく、榎本さんは筆頭として、
「心に城壁を築かない」で有名な岩瀬忠震や、永井尚志、川路聖謨、
島津斉彬、阿部正弘、筒井政憲等々がそういう人々といえそうなのです(これはほんの一部)。

ただ、武家の場合、公式の場ではそういう面を出さないようにしているので、
なかなか把握し辛いのではありますが。
私的な場での壊れ方で判断させていただきました(笑)。
(慶喜さんも若干、この兆しがみえるのですが、なかなか判断が難しいデス)

しかし、陽あれば、陰あり。
江戸ッ児にだって、開放的でなく、陰性な人もいるわけです。

陰性といっても、性格が暗いとかそういうものではなく、
物事を慎重に考え、派手な事が嫌いで、
感情をそのまま表情に出さないむっつりタイプのことです。

で、その陰性タイプのなかに、勝海舟さんも入るように思います。

この人物がかなり変わっているのは皆さまもちょいちょいご存じかもしれませんが、
「酒を呑むのも、歌舞音曲の流れる宴席も大嫌い」なのに、
元芸者だったお民さんを妻に迎えている、ヘンな人が勝サンなのです(笑)。
(なので、お民さまは夫の留守を狙って、娘たちに三味線を教えていたとか)
酒は下戸というわけではなくて、大勢でワイワイと呑むのが好きじゃないらしい。
宴席というのが嫌いだったようで、公的な宴席はやむおえないとしても、
私的な宴席は、たとえ旧幕臣の親しい宴席でも出ません(爆)。
(永井介堂達が主催した岩瀬忠震没後30年の追懐会の時には、開始時間前に会場に来て、
漢詩を書いた紙と多少のお金を置いて帰っています(笑)。
仲の良い知り合いばかりの宴席でコレです。いや、この徹底ぶりが勝海舟なのデスが)
若い頃は貧乏蘭学者だったのであまり酒を口にしなかったようですが、
晩年にはひとりでぶらりとハシゴ酒をしていたようです(笑)。
(勝海舟の「酒場放浪記」が見てみたい、ワタシです)

そして『海舟語録』(講談社版勝海舟全集20)11Pにあるように、

人の立派な覚悟、決心、又は憐れむべき事、気の毒なる事、浅ましい事などの談話に到れば
必らず両眼の潤い来る、驟雨のにわかに兆するの状であったが、未だかつて
(勝海舟が)落涙せられたるを見たことはなかった。


海舟は目を潤ませても、涙を流すところをあまり人に見せない人のようです。

これもよく泣く(しかもおいおいと泣きます)江戸ッ児からすると、変わっている点です(笑)。
(いちいち引き合いに出して申し訳ないが、榎本サンはよく泣きまする)

それから戸川のいう「圓滑の交際」の一部にもやや難あり。
江戸ッ児は相手によって言語を使い分けますが
(極端な例でいうと突然、町で将軍とバッタリあえば、ちゃんと敬語スイッチが入る)
超平等主義の勝海舟は、将軍でも誰にでも、タメ口に近い、平易な江戸弁で話します(笑)。

どこかに書いてありましたが(出典を忘れました)、明治になって勝サンは用事のたびに
徳川家に行くわけですが、門のあたりで徳川のお嬢サマと出会ったりしても、
勝は「どうだい近頃の様子は」みたいなタメ口調なので、
勝海舟をよくしらないそのお嬢サマは「なんだこのジジイ」って思ったそうな(爆)。

確かにこういうところ、勝サンは変わっております。
でもこれらの変わった点が、
戸川のいう、「三分の外藩」要素かと言われるとなんだか違います。

まだまだ書こうと思えば書けそうですが、いいかげん更新したいので(汗)、
このあたりでそろそろ結論を書かせていただきたいと思います。

勝海舟も九分九厘まで江戸ッ児なのは間違いありません。
しかし、ちいっと変わっている個性的な、江戸ッ児である点もまた否めない。

どのみち、興味の尽きない「なんだこのジジイ」(笑)こそが勝海舟なのであります。

以上、長々と失礼いたしました(笑)。
by aroe-happyq | 2014-07-08 19:08 | 長崎伝習所系 | Comments(0)