人気ブログランキング | 話題のタグを見る

ブログトップ

東都アロエ

堀利熙+榎本釜次郎

二人はある意味、旅仲間・・です。

若き榎本さんが蝦夷地へ行った、というのは有名な史実。
どうやっていったかというと、のちに箱館奉行になる目付の堀織部正利熙の
蝦夷地探索(ほとんど探検)に同行した。

安政元年、堀に対して蝦夷地をじっくり探検(爆)してくるよう幕命が下り、
榎本さんはその一行に小姓、もしくは書生身分として随行員に加えてもらった・・・
らしい。

榎本はどうやって堀の一行に加えてもらったか。
考えられる接点は、榎本の父親が伊能忠敬の弟子であること。
蝦夷地へ行けと命じられた堀は、江戸っ子なので江戸から出た事がないはず。
予備知識を得なくてはまずいと思い、蝦夷地に行ったことのある伊能の門人に
会ったり、地図を見て蝦夷地についてアドバイスをうけたりしたのかもしれない。
そんなときに蝦夷地に行きたいという若者がいると聞いて、
同行を許した・・・・と考えるのがいちばん自然のような気がする。
(堀は若い頃、ちょっとグレて遊侠の徒と混じって遊んでいた時期があり、
義侠心のある、熱い男。頼まれれば、おう、まかしとけ、付いて来な!となりそうで
す)

御目付道中というのは大名もその行列を道を譲らなくてはならないほど、
たいそうな権限を持っていたというので、榎本は不自由のない旅ができたはず。
しかし目的地は蝦夷地、そして樺太。立派な大冒険であっただろう。

普通、目付は小役人(汗)とはいえ、権限が大きいので、自らは探検にい
かないものだが、堀は自ら蝦夷地のあちこちをつぶさに歩き、詳細に報告
を出している。
(手分けして探検したので別働隊もいる。榎本が堀隊にいたかは不明)

この旅で榎本は箱館の商人から蝦夷地の地図をもらっている。
(「旧幕府」榎本子談話によると、箱館の船問屋佐藤半兵衛から得たとか)
これがのちに、蝦夷地を目指すときの重要な情報源のひとつとなった。

18歳の榎本くんに大きな影響を与えた、蝦夷・樺太への旅だったことだろう。
(この後、榎本は長崎海軍伝習所へいく。そこでは永井との出会いが(笑)。永井と堀は学問所以来の友人だし)


・・・・さて、話は堀に戻る。
報告書をもたせて部下たちを江戸に帰した堀利熙は箱館に残った。
当時は満足とはいえない官舎だったというので、たいへんだったことだろう。
(同時期、永井は長崎在勤目付として長崎赴任中・・・・こちらは快適)

曲がったことが大嫌いで、少し熱すぎる性格だった利熙はやがて思いがけない最後を
遂げるが、この当時の彼は目付に抜擢されて一年ちょっとで、たいへん張り切ってい
た。次々来る外国船に応対し、奉行所、会所の整備など仕事は山のようであった。
一方で堀は笛をよくし、有梅という風雅な号をもつという別の一面もあり、
蝦夷地でも詩をよんだりしていたものと思われる。
そうした作品がどこかに残っているのかもしれないが、なかなか出会えない状態であ
るのは哀しいかぎり。

そして忘れてならないのが、柳川熊吉との二人の接点。

熊吉といえば「碧血碑」を建てた人。
この人が箱館と深く関わる事になったのも、堀の下で働くことになったからだという。
(そのいきさつも新門辰五郎経由という話がどこかに出ていたような・・・。堀さんは
下町に縁のある人(爆)なのでまったくのでたらめでもないような?)
その時期がいつからかはわからないが、たとえ最初の掘探検隊のときに
まだ熊吉が箱館にいなくて、同行していた榎本と顔見知りになっていなくても、
のちに箱館にやってきた脱走軍のなかに榎本がいて(そこには堀の友人の永井もいるし)
柳川熊吉と話をすれば、地元「柳川」繋がりがあるし、そして堀の話でより親しくなったことだろう。


思えば人とは不思議な縁で繋がってゆくもの・・・・・ですね。
(というよりも江戸って案外広くて狭い?(爆))


というわけで、掘と榎本の意外な接点のお話でした。
by aroe-happyq | 2006-08-10 14:26 | 箱館または釜さん | Comments(0)