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アジアンエンタメ&お江戸後期。外国奉行や長崎海軍伝習所がご贔屓☆ BYはな。

立花種恭の老中日記の世界⑨~ついに立花&家茂倒れる

横浜応接をおえて江戸へ寄った(出張の途中なので)立花サンですが、
それからも横浜、江戸を往復する日々が続き、
疲れがでてしまったのか、とうとう重い風邪にかかってしまった。

慶応元年12月7日
晴 余 今日 風邪 発熱


この時代、風邪をひいても長くは公務を休めないので無理をして仕事をしては
風邪をぶり返す・・・という繰り返しになるケースがままある。
ワタシの贔屓筋でも(笑)、
阿部正弘の顧問役でもあった江川太郎左衛門英龍さんや
初期外国奉行で江戸町奉行を務めた井上信濃守清直さんも
公務を休めず風邪で亡くなっている。
(将軍だと6代将軍家宣がこのケース・・・・・・)
風邪をバカにしてはいけないのだが、長期休暇をとるときは休職ではなく、
退職しなくてならないので、どうしてもこういう最悪の結果になりやすい。

で、立花種恭サンも若いので命に別状はないが、
このあとずるずる風邪→体調悪化と長く付き合うことになってしまう。

11日には松平伯耆守一行が上阪していくなか、立花は同行できず、
のちに別の船で大阪に向かったが、船が高波と強風でとんでもなく揺れて、
ぐったりしてしまい、大阪に戻っても、

病気にて引入 今日押して登城

をくりかえすことになる。こんな状態で慶応2年は
春まで過ごし、ようやく回復してきたころ、
今度はまだ21歳の若さの将軍家茂が寝付くようになってしまった・・・・。
(日記ではあまり触れておりませんが・・・・)

こちらは脚気とも虫歯とも・・・・どっちもだったともいわれていますが、
通常の若者がかかって命をおとすような病ではなく、たび重なるストレスのため
免疫が弱っていたことが、病気を悪化させる要因だったと思われます。
(一説には初期段階での西洋医師団の診断ミスとか、本草系医師団との
互いの連携がとれなかったなど・・・・医療ミス疑惑もあります)

将軍の病というトップシークレットを日記に記すわけにはいかなかったのか、
夏までは妙によそよそしい文章が続きます。

家茂の病の様子については『松本良順伝・長与専斎伝』(平凡社東洋文庫)を
御参照くださいませ。←医療ミスに関する記述はありませんケド

9月になって家茂の薨去を公表しますが、実際には7月のうちに亡くなっていたので、
公表後はすみやかに江戸へ、立花もまた戻っていくのでした。

この後、一橋慶喜は徳川家の相続だけを了承し、将軍職は空位のまま冬になり、
ようやく12月14日に京にて将軍宣下をおこないました。

慶喜はあらたに自分の側近を選んでいったので、
立花出雲守をはじめとする旧家茂系側近閣老が留守を守る江戸と、
慶喜系側近閣老の仕切る京都と、徳川柳営は完全に分裂してしまいました。

結局はペリー来航のショックで亡くなった12代家慶の時代からえんえんと
徳川政権が引きずっていた一橋派VS紀州派の対立がここまで続き、
それが徳川公儀を弱らせるだけでなく、そのものを食い尽くしてしまったようで・・・・・。

この分裂が一年後の大瓦解を決定づけてしまったといっても過言ではないのダ☆
(・・・・今だと時効警察風にしか読めないかもっっ!?(笑))

・・・・ぶっちゃけ、政権からはみだしてしまった立花サンにとってここからは、
時代の傍観者目線日記であり、受難者の記録のようで胸が痛みますが、
絶妙な語り口でやっぱり面白かったりするので、
あと2回ほどお付き合いくださいませ。
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by aroe-happyq | 2007-04-25 10:58 | 幕臣系(老中など) | Comments(0)

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