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東都アロエ

風聞探索書にみる岩瀬肥後守という人 其の一

前日のブログの予告?のとおり、岩瀬さん特集第一弾です(笑)。

職務中のかっこいい姿は後日に譲るとして、
この第一弾では、岩瀬さんのプライベートな情報を、
井伊家史料幕末風聞探索書からみてみようという企画です。

以前にもこの井伊家史料については、ここなどで取り上げたことがありますので、説明は割愛させていただきます。

今回の史料は、以下のとおりです☆

『井伊家史料幕末風聞探索書』(中) 安政6年編の、
 357 江戸風聞  御作事奉行 岩瀬肥後守

(『井伊家史料』20巻 151 徒目付届書 にも同様の史料あり)


作成者・・・・・つまりスパイして情報を集めた人の名前は書かれていませんが、

京都町奉行所組与力 加納繁三郎
徒目付          永坂為蔵
小吏           松永半六

の三名が関わっているとの事です。
なぜ京都町奉行所かというと、井伊大老の腹心の長野主膳が京都に人脈を持ち、
配下に組み入れていたためです。この人はよいとして、
永坂為蔵はこの後に大手門の番屋の厠で、また松永半六は桜田門外上杉家の辻番所の
厠のなかで自殺している。いずれも桜田門の変直後らしい。
この三人、井伊大老にたいそう寵愛されていたそうで、主人を守れなかった責任を
感じたのだろうか?
(以上は『江戸』巻2 鳥の跡 P425  岩瀬鷗所書翰 より)

なかでも徒目付の永坂為蔵は死んだとき55歳で、徒目付でも古参の、いわばプロ中の
プロだったよし。そのプロが「岩瀬の不正をさぐれ」と御主人に命じられたとあっては、
それはそれは腕によりをかけて、探索に当たったことと思われる。

探索書というのは、ウソはかけないものらしい。
どんなに不正がなくても、あったという情報を捏造してはいけないのだ。
そんなことから、この岩瀬の調査報告書というものも永坂ほか二名の職人技(爆)を
信頼して、その内容もほぼ事実だと思っていい出来だと思います。

岩瀬ファンとしては、追い落とそうという報告書を頼りにしないとその人の情報が
得られないのか、とちょっと複雑な気持ちだけど、他に史料がないので、
仕方がないのですっっ。


というわけで、はじめます~~~。


・・・・・・・・冒頭部分は一橋派が誰と誰で・・・・・というお話なので、
それは前にも触れましたので、割愛させていただきます。

肥後守儀は、設楽弾正方より岩瀬家に聟(婿)養子に罷り越、

岩瀬忠震は設楽貞丈の三男で幼名を篤三郎(忠三郎)といった。(弾正というのは兄弟です)
字は善鳴。号は蟾州、後に鷗所。
忠震の父・貞丈は小普請の役職でしたが、どちらかというと博物学者として有名な人。
母親は昌平坂学問所を立て直した林述斎の娘で、こちらは女流歌人として大名の間で
有名だったそうな。アカデミックな家庭に育った忠震ははやくからその俊才ぶりを発揮して
いたらしいです。以下、大まかな経歴(目付になるまで)です。

天保11年(1840)23歳のとき、書院番士の岩瀬市兵衛の娘の婿養子に。
            以来、岩瀬邸のある築地中通りに住みます。
26歳のとき、学問吟味(官吏登用試験)で乙科及第(このとき、堀織部も乙科及第)。
嘉永2年(1849)32歳のとき、西の丸小性(←江戸時代表記)組番士になる。
            岩瀬修理と名乗る。甲府徽典館頭を拝命。
            翌年正月から甲府へ一年赴任。
嘉永4年(1851) 公儀より文学及び砲術教授の労を賞される。
            昌平坂学問所教授方出役。(注→こちら
嘉永6年(1853) 徒頭に任ぜられた。
            この年度の学問吟味取調方(試験官?)をやった。
嘉永7年(1854) 御目付海防掛となる。

                 (一部、飯田虎男『岩瀬忠震の年譜的研究』を参考にしました)

登用試験に受かったものの、この時代の慣例ですが数年間放置され(爆)、
番士になったとたん、学問所の甲府支店に赴任。その後も学問所の臨時教授だったりして、
お城でのお仕事をほとんどしておりません~~~~(笑)。
徒頭(永井尚志の後任です)になっても試験官やっていたり・・・。
学問所に片足つっこんだままでいきなり、目付海防掛っす。びっくり人事です。
ただ「砲術教授(和鉄砲ですけど)」をやっていたというのはちょっと注目???
(小性組番士は砲術訓練をよくやっておりますから、まがいなりにも番士なので、
扱えないとは言わせないぞではありますが。堀織部なんて小性組番士をずっとやって
いたためか、鉄砲撃ちすぎて片耳がよく聞こえない、とプロシア人に語るほどです)


・・・・・ここで、力尽きましたので、続きは次回!
  (一行しか引用してない~~(汗))
Commented by 入潮 at 2007-06-29 01:28 x
俊才、俊英、明敏の枕詞で語られる岩瀬氏、膨大な史料で着々と、そして分かりやすく(重要)語ってくださるはなさん、目が離せません。
栗本鋤雲さんの「匏菴十種」を見ていたら、田口卯吉が撰した序文で「我が国人、巖瀬肥後、小栗上野の二子と比ぶれば其の功労未だ其の右に出づ能はざるなり」と絶賛で、本文もいきなり「明断果決にして胸次晶潔更に崖岸を見ず其朝に立つや知て言はさ無く言て尽さゝる無く…」とあり、おぉぉ!と思いました。続く「派を殊(ママ)にする輩の之を疾悪する者も極めて多かりし」あたりこそが、なんて格好いい方なんだ、と震えました。だから、探索書なんて出されてしまうのですね…。続きを楽しみにしております。
あ、栗本鋤雲遺稿集が今月下旬に発売されるので (昭和18年刊の復刻かと)、また岩瀬氏の格好良い姿が広まると良いと思いますー。
Commented by はな。 at 2007-06-29 14:03 x
入潮さんの温かいお言葉はいつもいつも胸に沁みます。ありがとうございます!
岩瀬の左遷の報が伝わると柳営内の上から下役の役人までがショックを受け「柳営内の空気が一気に悪くなった」と井伊派の閣老の記した記録があるほどなので、本当に大勢の人々にその人望と才能を買われていた人のようです。それが明治の10年も過ぎると急速に忘れ去られていったのは、実にもったいない事です。
今回の探索書には「格好悪い」岩瀬さんも出てまいりますが、よりその人柄が見えてくるかと思いますので御一笑いただければと思います(笑)。
「栗本鋤雲遺稿」の復刻、知りませんでした!嬉しい情報をありがとうございますっっ。これで手に取りやすくなると好いのですが☆(近所の図書館・・・・入れてくれないかな(爆))
by aroe-happyq | 2007-06-27 19:11 | 外国奉行ズ | Comments(2)