人気ブログランキング | 話題のタグを見る

ブログトップ

東都アロエ

『古賀謹一郎  万民の為、有益の芸事御開』

台風がやってきて、各地で被害が出ているようです。
関東にも明日には到来するらしい・・・・・。
みなさんどうか怪我だけは気をつけて、台風が過ぎるのを待ちましょう。

嵐と関係はまったくない、最近読んだ本の紹介を。


『古賀謹一郎  万民の為、有益の芸事御開』_d0080566_18411588.jpg


小野寺龍太 著

『古賀謹一郎  ~万民の為、有益の芸事御開』

ミネルヴァ書房 2006年

詳しくは→こちら(セブン&Y)





・・・・・落語のおじさんではありません(笑)。


昌平坂学問所に祖父の代から三代に渡って仕えた名門儒者にして、洋学者です。

嘉永初年に吉田松陰曰く「古賀謹堂は、佐久間修理と並ぶ洋学の知識を持っている」
と友人の手紙に書いているように、蕃社の獄以降黒船の来航以前の、洋学が見向きも
されない時代に父の古賀侗庵と共に学問所の儒者ながら、来るべき開国を睨んで
海外情報を集め、いつしか佐久間と日本を代表する洋学者になっていた、という人。
(あまりに洋学にはまっていたため、学問所の同役儒者に何度も「洋学に淫するのは
やめなさい」と忠告されたそうな)
しかし彼は単に洋学が好きなのではなく、日本の将来を考えて洋学を学んでいた。
ロシア船が蝦夷を伺い、アメリカのビットルが国書をもって国交を迫るなどがあり、
「そう遠くないうちに日本は開国をすることになる」ことを予想し、
そのとき異国の知識や情報がないという事態は避けなければならないというのが
彼を洋学に駆り立てたきっかけだった(でも嫌いじゃハマるはずはないのだ(笑))。

こうして準備していた古賀さんは、ペリーが最初にやってきて、その直後の意見書で、
開国をして交易をおこなうべし、ときっぱり言い切っている。
同じ時期に、「黒船を打ち払うよう、即在に決議すべし」という意見書を書いていた
永井さんや岩瀬さんたちのことを考えると、その先見性がよくわかる(笑)。
この時期の意見書に古賀と同じスタンスの意見を述べたなかに勝麟太郎がいるが、
あまり他人を褒めない彼も古賀については「自分と志を同じくする」として、
非常に評価している。

しかしこの意見書も当初はあまり注目もされず、古賀謹一郎の仕事は、
ペリーの持ってきた国書(漢文)の翻訳作業だったり、浦賀、下田へ出張の際も、
儒者ゆえにその知識をあまり発揮はできなかった。
(筒井肥前や伊澤など学問所系の奉行と親しかった古賀は、反対派で勘定方の川路に
目をつけられてしまい、どうも阿部老中に無実の告げ口をされるなどして、
被害を被ることしばしばであった(笑))
ときに「髪型をちゃんとしなさい」とか「服をきちんとしなさい」とか川路系の目付から
風紀の乱れと称して、お小言を食らう日々が続く。
しかしめげない古賀謹一郎は処分覚悟で数度にわたって、「洋学所の設立の必要性」
「条約を締結する際は相手国に使節を送る」など、富国強兵策や近代外交につながる
大胆な開国論文を柳営に提出しつづけた。
時間はかかったが、阿部正弘がすべてに目を通した結果、
古賀謹一郎は阿部から「再度、思う存分意見を述べよ」という直々の要請で、
長文の意見書の提出し、日の目をみるにいたったのだ。
(のちに「阿部伊勢守だけがわかってくれたのだ」としみじみとよき上司にめぐり合えた
幸せを述べている)

・・・・時間がかかりすぎじゃないか?と思わないでもないのけど、
幕末外国関係文書を読むと、外交関係だけで一日に飛び交う書類の数が
半端ではないことを知るにつけ、老中など閣老が「やれやれ、意見書でも
読んでみるか」なんて思える余裕は、とてもなさそう・・・・・でした。
嘉永6年~安政2年ぐらいまではまさに無理なスケジュールですので、
こんなに遅くて・・・・当たり前かもしれません(涙)。

その後は洋学所設立計画のスタッフ(大久保忠寛、岩瀬修理、勝麟太郎など)の強い
要請で、洋学所こと蕃所調所の頭取となり、国際性豊かな近代人の育成を目指して
斬新な学風の学校をつくりました。
しかし文久になって突如その職を解かれ、その後は不遇の晩年を過ごすこととなった。
不遇というのは、新政府に請われても出仕を拒んだことも大きいが、それが彼の意地
でした。古賀が柳営に提出した多くの事を実行した明治新政府ではあったのですが、
彼は徳川にこそ、実行してほしかったのかもしれません。


ひじょうに繊細で、傷つきやすく、かつ神経質で・・・・とちょっと付き合いにくそうな
人物ではありますが、ここにまた貴重な開国を唱えていた人物がおりました。
しかも学問所に暮らしながら。それはけっこうたいへんなことだと思います。
なぜなら大名でも「洋癖」は変人扱いなのに、勝麟太郎や佐久間など異なり、
朱子学をモットーとする学問所儒者で(洋学専門ではなく)というのはいばらの道
だったことでしょう。
その苦労も、ペリーやプチャーチンなどがやってきて、次第に古賀の主張が認められ、
その開国論が、岩瀬忠震たちによって実行されるにいたったことで、
やっと報われたと思われます。

不勉強ゆえ、つい最近までどんな人物か知らなかったのですが、
この本のおかげでようやくなるほど・・・・と思いました。


以前紹介した『徳川後期の学問と政治』にもまた古賀家三代について、
貴重な謹一郎の日記からの引用も多数あり、いろいろと
詳しく載っておりますので、こちらもあわせて参考にどうぞ。
by aroe-happyq | 2007-07-14 19:48 | | Comments(0)