2007年 07月 16日
増上寺御霊屋(おたまや)。
どうも甲信越のほうで大きい揺れだったようです。
こちらはそれほどゆれなかったのですが、日本で暮らしていれば
大きい地震はけして他人事ではありません。
被害に遭われた方々の事を思うと、こんなルポしてていいのか、
と胸が痛いのでありますが、一日も早い復旧を願いながら、
このまま書きかけたものを、続けてまいりたいと思います。
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昨日は大河ドラマで板垣&甘利が舞台より去ってしまい、
ひじょうに寂しい思いをしました。
・・・・・・それとはまったく、関連のない
先日、増上寺にいったレポの番外編です(笑)。
増上寺の公式サイト(霊廟解説ページ)は→こちら。
増上寺には徳川家霊廟(御霊屋)というのものがあり、秀忠公、甲州宰相綱重公(家光次男)、
家宣公、家継公、家重公、家慶公、家茂公とその妻&側室が眠っております。
かつては広大な敷地を誇った増上寺ですが、周辺の開発などで
敷地はどんどん切り取られ、霊廟もまた寄せ集められ現在はコンパクトに
一箇所にまとめられております。かなり狭いです。
これが霊廟全体の門なのですが・・・・・・・・・・・この門て、
家宣さんの霊廟の門だったりするんです。
増上寺でもらった冊子によると「霊廟 中門」だそうです。
使いまわしか!みたいな(笑)。
しかも、旧国宝って、
国宝じゃなくなっちゃったんですか!?(爆)
ええと、かつてはどんな感じだったか、家宣廟の在りし日の姿を・・・・
『骨は語る徳川将軍・大名家の人びと』より
これで一人分ですぞ!!!
この門から入って、その内側も・・・・・・・・・
広~~~~い!!!
え?今ですか?もう一回見せましょうか?
これで将軍6人+奥様&側室分です。
ぎゅう詰めですねっっ~~(汗)。
で、なんとなく塀の外を歩いていたら、なんだか中がみえちゃうんです(笑)。
なので、激写してしまいました。
手前が秀忠公、丸で囲ったのが、門のあるじ、家宣公です。
すんごく狭い感じのところでみなさんで長屋暮らしのような有様です。
将軍家の雑居状態・・・・・・って(涙)。
そのなかでも、家宣ファミリーの扱いはこれでいいのか!?状態です。
家宣の父、綱重さんの霊廟「水盤舎」はというと、
今では立派に増上寺正門はいってすぐのところで、
皆さまのお手を清める場所の雨よけとして、活躍中です。
そして、家宣の息子の家継の門「ニ天門」はというと、
増上寺の外塀の一角で、ドライバーの皆さんに江戸の匠の技を
紹介しております。
こちら重要文化財のようです(ホッ)。←君の父上は旧国宝デス
たしかに家宣三代よりもっと過酷な御勤めをなさっておいでの方も
おられます・・・・・・・・・。
お隣の新しいホテルの門となった秀忠公の「惣門」です。
こっちも重要文化財。
別に徳川家臣でもなんでもありませんけど、おいたわしや~~~~~(涙)。
ま、御威光がすたるというのはこういうこと、なのでしょう。
(にしても、すたりすぎ!?)
徳川さんだけでなく、浅野内匠頭の石碑にしても、
あんまりじゃなーい?の扱いに、あらためてここが
東京砂漠だということを実感しました・・・・・・・・・。ひゅるるるる・・・・・。
観光都市宣言なんて撤回しろーー!
それにしても思い切った使いまわしの数々に、ホントに驚きました。
*唯一例外は、家茂がプレゼントした和宮の茶室で、境内に普通にありました(笑)
六代さまへの深い慈しみを感じました。
一度行ったのに、また行きたくなっちゃいました(笑)
そういえば私は「御霊屋」を「みたまや」と読む方がしっくりくるんだけど、語感の差かしら?
主君家宣のために霊廟も丹精込めて作ったはずの間部詮房がここをみたら、その場で自刃しそうにショックだろうと思います。ついでにいうなら、たぶん家継の霊廟も主君の愛息ということでやはり愛を込めて建てたと思うので、詮房さんはニ重のショックで立ち直れないかもしれません。
実はわたしも「みたまや」かしらと思うのですが、増上寺パンフに「おたまや」とあったので、増上寺さんがいうのなら・・・とこちらを採用してみました(爆)。
>増上寺御霊屋付代官
この役職を蕃社の獄のきっかけになった、鳥居VS江川・崋山との測量合戦のとき、優秀な測量士にこの役職の人がいて、そのとき「おたまや」ってふりがながあったんです~~~~。
うっかり、その報告を忘れておりましたっっーー。