2007年 08月 05日
桂川邦教と徳川家宣~『蘭学の家桂川の人々』より
奥医師で蘭方外科の桂川家については、今泉みね『名ごりの夢』(東洋文庫)で
よく知るようになりましたが、その初代桂川邦教が史料が少なくて
いつも悩んでいたところ、
なんと!六代将軍家宣の侍医だったことがわかり、
どちらかというと幕末のことは置いといて、という状態で(爆)、
図書館へ走り、みねさんの息子さんの今泉源吉が著した『蘭学の家桂川の人々』
をチェックしてしまいました(笑)。
桂川という姓のとおり、もとは京都の出身。
同じく京の外科医・嵐山甫安に師事し、13歳のとき師匠に随って、
平戸、そして長崎へと西洋医術を学びにいく。
27歳のとき京に戻り、開業。おもに京の公卿の治療をしていたらしい。
京に戻って9年後の元禄9年、近衛家の推薦のよるものか、
江戸の甲州中納言綱豊に召抱えられました。
(綱豊の正室は近衛煕子。甲州家は近衛家とは昵懇)
この二人、年齢もさほど変らなかったため、とてもよい関係となったようです。
以後、家宣が江戸城にはいると、西洋外科初の奥医師となりました。
(これによって代々、桂川家は奥医師の家として続いていくのでした)
・・・・という簡単な略歴は以上でした。
さてこの桂川さんの記録によって綱豊卿のなぞがいくつか解決されたのでした☆
○「定府」(参勤交代をしなくてよいという大名のこと)である甲府藩藩主の綱豊ですが、
よくものの本では「公式には一度も甲府に行ったことがない」と書かれて
おりますが、桂川さんの記録によると、召抱えられて甲府にいったとあります。
いったというのは、もちろん藩主に随行したという意味だったりします。
つまりは参勤交代はないですが、たまには本国甲府へも綱豊卿は足を運んでいた
らしいという、確証ではありませんが、とりあえず「アリ」かもしれないことが判明。
○甲府家と赤穂浪士の関係。
『元禄忠臣蔵』に甲府宰相綱豊卿の段があるぐらい、綱豊卿には、
まことしやかに語られてきた、
「将軍綱吉と仲が悪い綱豊は赤穂遺臣をなんらかの形でサポートしていた」
という江戸の都市伝説(笑)がありました。
これまでは綱豊の愛妾が赤穂家とかかわりがあった?とか、近衛家が応援していたので、
自然と甲州家も応援するようになった?、ぐらいしか、その関係性が
わかりませんでした。それもあくまで「?」だったわけです。
確かに徳川実記を調べても、赤穂浪士が討ち入る数ヶ月前から、綱豊は「病気」と
届け出て、登城しなかったり、なぞの行動が多いのです。
一説には綱吉の母桂昌院に呪詛されて、ホントに病気になったという話もあるし、
また当時、六代将軍の座をめぐって、綱吉は娘の婿の紀州候をと望んでいたので、
甲州家と将軍家は「暗戦」の真っ最中で、万が一にも毒でも盛られてはと警戒して
綱豊は登城を控えていたという説もあります☆
・・・・・と少し、話を戻して。
そんなわけで赤穂浪士の討ち入りをなんらかの関係がありそうな・・・・・・・という
のが、今までの情報でしたが、桂川さんの記録がまた・・・すごいんです。
桂川邦教は大石内蔵助と親しかった。
藩主の信頼する侍医が大石と親しい。
(桂川家には代々、内蔵助の書が伝えられてきたということです☆)
ここまであれば、もう甲州家は赤穂浪士をサポートしちゃいますね(爆)。
とはいえ、いったい何をどのように、サポートしたのかはわかりませんが・・・・・。
○新井白石の宣教師シドッチ(シローテ)尋問
すごく簡単にいうと、コチコチ頭の新井白石が蘭癖でもなんでもないのに、
いきなり西洋人にどのように尋問したのか、それがなぞでした。
・・・・・・・・・・これもすぐに答えは解決。
長崎経験豊富な桂川さんの強いサポートがあった。
蘭方外科医桂川さんの存在のおかげで、いろいろな隙間が埋まりました。
・・・・・・・・・・最近まで、家宣の侍医が桂川さんとは知りませんでしたので(笑)、
かなり遠回りをしてしてまいりましたが、ロバのようにのろい家宣探索の旅は
ちょっとだけ前に進めました。
・・・・・・こんなに名医がついていて、なぜ家宣があっけなく死んでしまったか?
その疑問だけは残りますが、過労死には外科医は勝てませんよね・・・・(涙)。
(15人の将軍で過労死したのは、たぶんこの人と家茂だけでしょう)
綱吉時代からいる役人と、甲州家から城へ入った役人の対立がいつも家宣の頭痛の
種で、結局は決裁書なども夜遅くまで残業して、彼自身が行っていたらしい・・・・。
遺言に「みんな仲良くするのだぞ・・・・」という言葉が入っているのが胸に沁みます。
というわけで、初代桂川さんと家宣の関係から、家宣の謎解きをしてみました次第♪
がむしゃらに側用人ルートからそういう謎を解こうとしていたわけですが、
侍医というルートもあるのだよ、と桂川さんには教わりました(汗)。
桂川家について、あまり細かい情報はありませんが、上記の今泉源吉著『蘭学の家桂川の人々』には系図が出ていたように記憶しております。また早稲田大学図書館に所蔵されている桂川今泉文庫になにか手がかりがあるかもしれません(なかったらスイマセン)。大きな図書館に桂川今泉文庫目録がありますので所蔵内容を確認してみてください。