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東都アロエ

「交易御開き(開国)」大説明会 ~幕末外国関係文書より

初期外国奉行さんや、岩瀬肥後守忠震ファンのみなさんにはおなじみかもしれない、
安政4年12月晦日の大名総登城で開催された、
貿易規制緩和&外交説明会の様子がちょっとわかりました。
もちろん情報ソースは『幕末外国関係文書』18。

そこの捕捉4 
「十二月晦日豊後国日出城主木下飛騨守覚書 登城ならびに殿中の模様の件」
にメモ的に記録がありました。

この頃、ハリスが江戸にいて日米通商修好条約の交渉をしておりました。
ハリスと交渉していたのは、井上信濃守清直と岩瀬肥後守忠震。
そこで日本はこの日米の条約を皮切りに、それまで西洋とはオランダとの独占交易だった
のをやめて他の国とも貿易を行うこと、またそのときにいままでのように徳川だけが海外貿易
を(一部薩摩などの例外あり)おこなえるという規制を緩めて、諸藩もそれぞれ貿易やっても
いいんだよ、という徳川御公儀の方針の大転換をすることにした。
あわせてその条約を結んで、外国と日本を人やものが行き来するようになる、
キリスト教の規制も緩和、阿片は禁止・・・などということも決まりました。
岩瀬にとっては、条約締結のためにワシントンにいく(この提案は岩瀬から出たらしい)
ことがなにより嬉しかったことかもしれない(笑)。

というわけで、この日は大名向けにこうした開国説明会でした。

説明担当は、
大目付土岐丹波守と御目付鵜殿民部少輔&岩瀬肥後守、下田奉行井上信濃守の四人。
まずは4人で大広間衆(従四位以上・30万石以上の大名)に説明し、
続けて帝鑑之間衆(従五位~従四位・3~10万石)には、土岐丹波守&岩瀬肥後守、
大廊下三之部屋(おもな徳川一門)には、井上信濃&鵜殿民部少輔が、
それぞれ大広間での説明と同じ説明をおこなったとよし。
(大名殿中席については深井雅海著『図解 江戸城をよむ』を参考にさせていただきました)

・・・・・と、これだけ真剣に丁寧な説明をしたにもかかわらず、
この記録を書いた木下飛騨守は・・・・、

併聞書不仕、唯々一扁通承候間、一々同席衆も、一向覚居不申

自分もまわりも大名も、説明内容を覚えていない、だって。

こ、こらーーーーーッ!


岩瀬関連本ではかならずこの日、岩瀬が説明をおこなった、とあるので
「こいつは『幕末外国・・』をみるしかあるまい♪」と思って、
わくわくしながら安政4年12月晦日まで読み進んだら、・・・これですよ。

そしてこの覚書の締めは・・・・・

年寄衆始いずれも大迷惑の様子と申し聞こえ候、

自由に貿易やってもいいっていってるのに、大迷惑って・・・・っっ。


今回この史料をみて意外だったのは、この日活躍したのは岩瀬や井上だけでなく、
鵜殿民部少輔もいたということでしょうか。

実はこの頃、鵜殿さんすんごく大活躍中です。ハリスだけでなくオランダ商館長(領事)
がやってきたときも永井と一緒に仕切っておりました。
御目付筆頭ですから、やはり出来る男なのですね!
そのわりには・・・・・知名度はない。
(やはり一般的には浪士組を京都まで引率した鵜殿さん・・・・・・・・?)

それからこの日、永井玄蕃頭はなにをしていたかというと、
川路聖謨と一緒に・・・・・・最大級に厄介な水戸斉昭への個別説明に出かけて・・・・・
「腹を切れ!」とさんざん怒鳴られて、あやうく命を落とすところでした(笑)。

でもこの水戸斉昭に怒鳴られる→それを聞いた一橋慶喜が気を遣って永井&川路&岩瀬
を招いて「父がすまないことをした」と謝罪→その潔さと賢さに岩瀬たちは驚き→一橋派へ
・・・・・・という大きな歴史の歯車が・・・・この数日で回りだしてしまうのでした(爆)。
(あまりに出来すぎた展開に、岩瀬たちを抱き込もうという、斉昭&慶喜父子のツンデレ作戦
かと疑ったこともありました(爆笑))
というのは余談ですが、

せっかく徳川のほうから規制緩和するって言っているのに、
説明をおぼえていないとか、大迷惑とか大名がそんなだから、江戸幕府は滅んでしまった
のでありましたね(苦笑)。
by aroe-happyq | 2007-10-06 10:49 | 外国奉行ズ | Comments(0)