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東都アロエ

川路聖謨 IN「日本渡航記」 その三 

ちょっと間が空いてしまいました。

川路さんについては、前回のラストでかっこいい〆で終わった・・・・・らよかったのですが、
実はまだあったりして(笑)。

このときの交渉内容について、ゴンチャロフがあまり触れていないのでここでも
書きませんでしたが、詳しくは和田春樹著『開国ー日露国境交渉』(NHKブックス)などを
読んでみてください。
条約締結についてはかわし続けましたが、国境については決着はしていませんが(なにせ
明治にもつれこんで、榎本さんがロシアで決着したぐらい先の話です)、かなりやりとり
しておりました。事実上の全権だった川路さんは連日の交渉で疲れたようです。
 会談最後の夜、ロシア船のなかでしめやかな送別会がありました。

私達は少しづつ加減して飲んでいたが、
彼らはいい気になってその都度杯を全部乾していた。


彼らとは、もちろん川路&筒井たちです。


食事の中頃になって川路が少し興奮して来た。老人は何ともなかった。
シャンパンを出した。栓が飛んで、酒が迸(ほとばし)り出すと、彼らは眼を大きく見張った。
榮之助(通訳です)は先輩振って、この酒の性質を説明した。
「我々の事業が順調に進みますように!」
と提督(プチャーチン)は乾杯の辞を述べられた。川路はシャンパンを乾杯し、
果実酒を三杯ばかり飲んで、額に机をつけた。


・・・・なんと、川路左衛門尉、撃沈です(笑)。
酒豪の彼がこんなことになるなんて、よほど気疲れしていたのでしょう。
で、今回の交渉が終わったので、いささかハメを外しちゃったようです。
(ペリーとの交渉の送別会では、緊張の糸がきれた全権メンバーのなかには酔いにまかせ、
ペリーさんのほっぺにチュウをしてしまった(笑)人もいたほどでしたから・・・)

しかし川路さんの場合は、

しばらくそうしていて、眠気を醒ますように、酔を振り下して、急に訊ねた。
「提督並びに御一同にお別れの粗餐を差し上げたいのですが、
いつに致したらよろしいでしょう」


ちゃんと復活しました。こういうあたりが川路さんなのです。
しかもお仕事も忘れておりません。
このとき話に出た、日本側主催の送別会も後日しっかりと行われました。
今はなき、江戸食事文化究極の、「本膳料理」でのおもてなしで。
・・・・プチャーチンたちはかなり戸惑っていたようですが(爆)


以上、川路さんのカーテンコール的なエピソードで締めくくりたいところですが、
他のみなさんについても番外的に紹介いたします。

まずは川路の相棒、筒井爺にも触れたいと思います。

老人は初めから私達を魅了していたのだ。

ということで、最初から最後までゴンチャロフをはじめ、プチャーチンも、
筒井肥前守のことをいたく気に入っていたようです。

眼のふちや、口の廻りは光線のような皺にかこまれ、
眼にも、声にも、あらゆる点に老人らしい。
物の分った、愛想のよい好々爺ぶりが輝いていた。
これは長い生涯と、実際生活の苦労の賜物だ。
この老人をみたら、誰でも自分の祖父さんにしたくなるだろう。


しかしこの好々爺がただの好々爺ではなく、
ゴンチャロフの記録には書かれていないが、筒井いわく「去年、女の子が生まれまして」
ということで、彼が精力旺盛な好々爺だと判明するとプチャーチンたちは驚き、
祝福の乾杯をあげた、そうな(笑)。←古賀謹一郎の「西使日記」より
(なにせ、このときから4年たっても、槍奉行なんて爺さん旗本の名誉職になっても、
交易について長文の意見書を上申し続ける、大元気な筒井さんなのだ)

そんな元気な筒井でも、ロシア艦の戦闘警報演習の見学にいって、
あまりに大きい大砲の音や、人の声などを延々きかされて、

筒井老人は驚きのあまり気分を悪くした。
で、大急ぎで中止するように命じた。


20年も江戸町奉行として庶民に愛され、また長崎奉行だった時に鑑賞した
オランダ演劇の内容を紹介する本〈喎蘭演戯記〉を出版し、
江戸文人界に「命は短く藝は長し」という流行語をつくった風流な筒井さんには、
西洋の軍艦の荒々しい世界は似合わなかったのでした。

それにしても、中止してもらっちゃいました。
これ以外でもプチャーチンは船に乗り込む筒井に、手を差し伸べたりと、
最上級の敬意をみせている。愛されている、ということでしょう(笑)。


さて、さきほど名前の出た古賀謹一郎さん。
以前、紹介した方でして、開国論をふるくから唱えている学問所の儒学者さんです。
このときは文章作りの掛として、全権のお供にやってきておりました。
ちなみにゴンチャロフの記録では・・・・・・・・・・・

第三の全権は荒尾土佐守様、四人目は・・・・忘れた。あとで云おう。

そう、その四人目が古賀さんなのです。
しかも「あとで」も、すっかり「云」い忘れられてしまいました(涙)。

もっと適当な扱いをされているのが、長崎奉行水野筑後守。
わが初期外国奉行筆頭の水野さんも、このとき長崎におりました。が・・・・。

も一人の奉行水野筑後は悧巧そうな顔でもないのに、
怒ったような表情をしていた。


・・・・・・・・・これだけで終わり。珍しい水野さんの記録なのに・・・。



今回はゴンチャロフの記録のほうを紹介しましたが、川路本人の日記も、
『長崎日記・下田日記』平凡社・東洋文庫として手に取りやすい形になっております。
奥様について「江戸で一、二を争う美人なり」などやっぱりここにも奥様を自慢した
記録が出ていたり・・・日本側からのロシア全権についての観察が楽しめます。
あわせてお楽しみくださいませ☆
また、古賀謹一郎の「西使日記」は『幕末外国関係文書附録1』に収録されております。
by aroe-happyq | 2007-10-27 11:18 | 幕臣系 | Comments(0)