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東都アロエ

お宅探訪 第四回 筒井肥前守政憲

四番町にいったついでに、そこから近くの筒井政憲邸を探してみました。



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・・・・・わかりやすさは群を抜いております。
住所表示はいりません!

日テレの建物の一部が筒井さんのお屋敷です(笑)。




筒井肥前守(伊賀守)といえば、すでに当ブログでは、
プチャーチンとの談判(交渉)における、川路左衛門尉聖謨との名コンビとして
ちょっと有名???かと思います。
でもそれは晩年のお話。
それより以前からずっと活躍してきた人でした。

もともと学問所でも優秀だったらしいのですが、
役人としても有能だったらしくとんとんと出世した人です。
筒井家には養子に入りまして、もとは久世家の四男だったよし。

長崎奉行のおりには、オランダに便宜をはかって、貿易を活性化したり、
その御礼で出島で西洋演劇をみせてもらうと、そのあらすじを
江戸に戻ってから〈喎蘭演戯記〉として出版して、西洋演劇を日本に紹介。
「命は短く藝は長し」という一節が流行語となり、蘭学ブームの一端を担う(笑)。
その後は20年間、南町奉行をつとめ、根岸肥前、遠山左衛門尉とともに
名奉行として庶民にも愛されました。
それからしばらくは天保の改革のときは閑職に追いやられましたが、
阿部老中の時代にひそかに顧問として復活し、
西の丸留守居という肩書きを隠れ蓑にして、島津家の相続問題や、
異国船への対応のおりに阿部正弘の右腕となって活躍。
学問所掛として、有能な人材探しもおこなっていました。
(水野、堀、岩瀬、永井などの面々の抜擢にも一役買ったらしい)
このときすでに70歳を越える高齢にもかかわらず、
その後、嘉永6年(1853年)にペリーがくると、大目付・海防掛として、
表立って活動するようになり、川路聖謨とともに対露外交を担う。
その後も槍奉行(高齢の名旗本がなれる、名誉職のようなポスト)として、
「交易御開き(いわゆる開国)」についての意見書を多数上申しました。
安政6年6月に82歳で亡くなるまで、終生現役!でありました。

明治になっても、「ねずみ小僧と筒井政憲」なんていう逸話も作られたりしました。

さて、探訪に話を戻しましょう。
この四番町、五番町は江戸初期のころからすでに旗本屋敷町の多いところで、
名門旗本がずらりと屋敷を構える、一等地でもあります。

しかしこのあたり(麹町)・・・・起伏が激しく、坂また坂・・・です。
ちょっと歩いて外出がすごくしんどいはず・・・・・。
それでもこのあたりに屋敷があることはステータスだったんだろうな(笑)、
なんて思いながら、次の目的地へ尋ねるべく、
善国寺谷通り(今の日テレ通り)を市谷方面に歩いていきました。

以下は第五回に続く(笑)。
by aroe-happyq | 2007-12-09 10:40 | お宅探訪シリーズ | Comments(0)