アジアンエンタメ&お江戸後期。外国奉行や長崎海軍伝習所がご贔屓☆ BYはな。

by aroe-happyq

浅野美作守談話@慶喜公伝史料編 その一

『謎とき徳川慶喜』を読んで以来、気になっていた『徳川慶喜公伝 史料編』。
いったんは図書館でコピー作戦をとろうとしたのですが、読みたいところが
膨大すぎて結局は慶喜貯金の末(笑)、古書店にて全3冊入手するハメに。
いろいろ面白いのですが、まずは…最初に読みたかった、

767 明治元年正月初旬大阪開城前後の情況に関する
浅野氏祐の談話
(『徳川慶喜公伝 史料編』3巻 287P~)


から紹介したいと思います。

以前『謎とき…』の感想で記事に引用した、永井玄蕃頭の「大阪城に残ったその理由」
の原文が含まれていたのがきっかけで真っ先に読み出したのですが、
別の箇所も含めて、これがとても面白い!っっ。
全文はとても載せられないので、冒頭部分省略&分割してお伝えいたしますが、
さまざまな人物がカメオ出演してくれるので、ちょっとお楽しみに!

慶応3年末、若年並・陸軍奉行だった浅野美作守氏祐は江戸にいましたが、
12月27日に大阪出張を命じられ、歩兵奉行向井豊前守やシャノワンらと
順動丸で上阪。翌慶応4年正月6日に天保沖に着船。上陸してすぐ
「伏見・鳥羽で御味方大勝利の趣なり」という話を聞いたが、大阪城のすぐ
近くまでやってきたとき、老中板倉の使いがやってきて「戦争は恐れながら
御敗北なり」と聞かされ、慌てて登城。
そしてまさに慶喜大阪城脱出当日の現場に足を踏み入れました。

以下、原文で・・・
(※なるべく常用漢字に直しておおくりします)

急ぎて御用部屋に詣れば、板倉閣老は憮然として、
さて美作殿、時態は救うべからざるの難局に陥りて、聞かるる如き大変動は起りたり。
ここに至りてはもはや議論も術計も尽き果てたり。抑も頃日城中の議論は、
硬軟二派に分かれ、閣老にては松平豊前殿、参政にては竹中丹後、塚原但馬、
平山図書等をはじめとして、陸軍部内は勿論、会津・桑名の藩士は異口同音に
硬説を唱え、中にも近藤勇の配下などに至りては、劇烈もまた甚だしく、
其の極終に、むしろ君上を退け奉りても、徳川氏の家名に対し、彼れ薩長の
制御に屈すべけんやというに至り、戦論の熾(さ)かんなることあたかも
狂瀾怒涛の如き勢いなれば、君上の御趣意をうけて、始終の恭順を貫かんと
するものは、自分(板倉)をはじめとして、酒井雅楽頭、これに次ぎ参政にては
永井主水正(玄蕃頭)等、そのほか二三子の少数にて、
なかなかに彼が暴威には抵抗し得られず、ついに今日の極難に陥りたり。
返す返すも……


ここからは板倉伊賀守の愚痴が続くのですが(ついには泣き出す始末)、
割愛させていただき先に進みたいと思います。
浅野美作守は続いて慶喜に会いにゆきます。
以下、慶喜語れり、です。

 公(慶喜)の仰せに、
委細の事は(板倉)伊賀に聞きつらん、時態日々に切迫して、過激論者暴威を極め、
制御の道もあらばこそ、ついに先供の間違いより伏見の開戦となり、
錦旗に発砲せりと誣られて、今は朝敵の汚名さえ蒙りたれば、
余が素志はまったく齟齬して、又如何ともする能わず、
さればとてこの上なお滞城するときは、ますます過激輩の余勢を激成して、
如何なる大事を牽(ひ)き出さんと計られず、余なくば彼等の激論も鎮まりなん、
故に余は速に東帰して、素志の恭順を貫き、謹みて朝命を待ち奉らんと欲するなり、
秘めよ秘めよ、との仰せなれば、始終を聞き奉りて、胸先ず塞がり、
一言の申し上げ様もなき次第なれども、仰せのほど実にごもっとも、
恐れながら一先ず御東帰のこと、愚臣美作においても然るべう奉存と御請申し上げ、
力なくも御前を退出して、詰所に帰らんとせしに、美作殿と呼び留めるものあり、
顧みれば板倉閣老なり。一通の書を手にして、これは御親筆ぞかし、
よろしく頼みいる、かつまた(松平)豊前殿にはいまだ帰城せられねど、
或いは屠腹して申し訳せんなどと言わるるも計られず、若し然らんには、
十分に諌止せられよとて、足早に出て行かれたり。
さて御親書は何事ならんと拝見し奉りしに、すなわち御東帰に付き、
参政以上の進退を直命し給えるものにて、御文面は左の如くありしかと覚えたり。

供 酒井雅楽頭      供 板倉伊賀守
残 松平豊前守      供 永井主水正
随意 浅野美作守     供 平山図書頭
残 竹中丹後守      残 塚原但馬守


さてこのリストをみて「供 永井主水正」に驚きました。
(※浅野美作守はなぜか主水正としておりますが、ホントは玄蕃頭です。
少し前に玄蕃頭にあらためたのですが、浅野さんは江戸詰めでご存知なかった?)

永井は慶喜と帰る人リストの中にはいっていた。でもなぜ残ったか。
それは次回のお楽しみに(笑)。

しかしこのリストをみていると、残留組は永井以外、
鳥羽・伏見の戦いの責任者のみです。慶喜はもちろん意図してのことでしょう。
ここで少し話を戻しましょう。
この時の慶喜の状態について、ちょっと捕捉。
慶喜の回想談『昔夢会筆記』に、

(鳥羽伏見以後も主戦派論のなかで大阪城にいて)
……私は不快(具合が悪いこと)で、其の前から風(風邪)を引いて臥せって居た。
もういかぬというので、寝衣のままで始終居た。
するなら勝手にしろというような少し考えもあった。
…名が大切なもので、名が悪いととどうも兵は振わない。


とあります。大阪城内には主戦論が充満し、それに乗れずにいた、
過労で風邪引きの慶喜と恭順派の面々だったようです。
ちなみに慶喜の鳥羽伏見の戦いの見解については
それはつまり喧嘩だ。まあそういう塩梅で、ただ無茶苦茶にやったのだ
(『昔夢会筆記』)」というようなところ。
その喧嘩の敗戦の報を聞き、さらに主戦論を抑えるのに彼はうんざりしていた。
板倉伊賀の話にある、近藤勇配下等(この過激さは…誰?(爆))の
むしろ君上を退け奉りても、徳川氏の家名に対し、彼れ薩長の制御に屈すべけんや
という声もあったりして、
ちょっと「するなら勝手にしろ」的なやけっぱちモードもあって、
そのまま即日大阪城離に繋がったようです。
兵を見捨てた、といわれる慶喜ですが大阪城から離脱前に制御不能であり、
「すでに彼のほうが兵に捨てられていた」と考えることもできそうです。
慶喜が逃げなくても、どのみち総崩れの予感はあったのかもしれません
(そしてそんな自分を嫌いな面々とは死にたくない彼である(笑))。
どうも慶応3年末の大阪城徳川方についてはまだまだ研究の余地がありそうですし、
大阪脱走についても慶喜ひとりを責めることはできないのでは?と、
この談話を読むだけでも疑問が沸々とわきあがるのですが・・・。

本日はここまで。その2につづく☆
by aroe-happyq | 2008-04-28 10:29 | 江戸城の大旦那 | Comments(6)
Commented by きりゅう at 2008-04-28 12:10 x
おもしろいですね~。
大阪城内の臨場感が伝わってきて、
某CG・R2(^^)なんかよりドキドキします。
Commented by 高松飛鳥 at 2008-04-28 16:04 x
慶喜公、風邪引いていたんですね。

大阪城の様子がよくわかり、面白いですね。
Commented by はな。 at 2008-04-29 09:36 x
>きりゅうさん
この日前後の大阪城内についての記録はいろいろあるのですが
どれも面白くて、かなり大好物です(笑)。
まさに、事実は小説より奇なり☆
Commented by はな。 at 2008-04-29 09:41 x
>高松飛鳥さん
10月からずっと政争が激化していて、さすがの慶喜も
過労がたたったようです。枕元に孫子を置いて愛読して
ことで、戦争に意欲的だったなどと言われ、
(本人に聞いてみないことには真実はわかりません(笑))
風邪を引いても本を読んでも、裏目に出る人。
・・・ただあの混乱のなかでおちおち本など読んでいられなかった
のでは?とも思えます(爆)。
Commented by 花輪治三 at 2010-03-19 10:16 x
>慶喜が逃げなくても、どのみち総崩れの予感はあったのかもしれません。
私は大坂城で粘れば、家来も慶喜のことを見直して結束するかもしれないし。(笑)和平交渉で有利に談判をすすめることもできたと思うのですけれど。
しかし立川談志の言葉ではないですけど、「現実は事実」ですから。(苦笑)
Commented by はな。 at 2010-03-21 18:30 x
>花輪治三さん
>私は大坂城で粘れば、家来も慶喜のことを見直して
できればそうあって欲しかったとワタシも思うのですが、この記事を書いてから2年弱ですが、慶喜関連の史料を読み進んでいると、家臣との対立の溝が深すぎて・・・・・・大坂で籠城したぐらいで互いのわだかまりが解けそうにない段階まで行っているような気がいたします。