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東都アロエ

函館戦争五十年物語(14)

函館新聞大正7年5月11日 第14回

◇親兵隊の一人
白戸政次郎翁談

今ま地蔵町の交番の隣が、第十二銀行になったが、
久しく同所に住んで居た白戸の老人は、函館戦争の当時親兵隊の第三分隊に
居た人だというので、同翁を訪うてみた。
◆鉄砲腹
翁の祖先は津軽に住したが、後に松前藩士で戦争当時は平岡政次郎と称していた。
仔細あって松前藩を脱し、浪人で函館へ来ている内、
清水谷侍従に抱えられて親兵隊に加わった。
同長官は泰斗鬼三と呼んだが、後に何等かの仔細で鉄砲腹で死んだ。
◆侍従と
津軽へ逃れた時分は、巡洋艦のような大阪丸に乗船したが、
船が津軽海峡に差掛った頃幕軍が高速力を有する開陽や回天に追跡されたので、
敵に後ろを見せるのが残念、死して護国の鬼となりあくまでも賊軍を滅ぼそうというので、
翁と池田吉四郎と大砲の雨露を退けたが、敵の機関に故障を生じたものか、
追跡をにわかに中止したのか味方の天佑だった。
◆何の某
矢不来の砲台を落とした時は、苦戦中の苦戦、激戦中の激戦だった。
七重浜で敵が不意に襲ったので狼狽した。福山藩の中山勘七が逃げ場を失い、
便所に落ちたのはおかしかった。それより段々進軍して有川通りに来た時、
栗毛の駒にまたがった敵の大将唯だ一騎落ちて行くのを見たが、
流れ弾に当たって落馬した。見ると長いマンテルを着ていた、金鎖の時計を下げていた。
◆榎本軍門に降る
翁が五六人の卒を随えて、五稜郭の穴倉に籠もっている阿部冶右衛門という者を
捕縛に向かった時だ。亀田八幡宮の前に差掛ると、馬上ゆたかに太刀を背負い、
敵の一方の大将とおぼしき人が中央に、五六人の騎馬武者が徐々にとやってきたので、
ハタと蹄の音を止めた。そも之は何かというと、当時の英雄武揚榎本釜次郎にて、
松前藩の救武隊長大味勇雄の手により、榎本以下五六名の勇士は、
青網駕に乗せられていたのだ。敵は戦い利あらず、遂に軍門に降ったのであった。
当時を追懐すれば感無量であると。


この日には雨のなか、函館招魂社で官祭が行なわれたようで、
この五十年物語の記事のとなりには
「花に嵐 雨中の官祭  五十年前の今日も東風」とある。



それより気になるのは、

敵の大将唯だ一騎落ちて行くのを見たが、
流れ弾に当たって落馬した。
見ると長いマンテルを着ていた、金鎖の時計を下げていた。


・・・・・この人は誰??
Commented by M子 at 2008-05-09 12:36 x
>この人は誰??
わーん、なんか泣いちゃいます〜、涙でます、この人が「かの人」だとすると。
「かの人」の最期のお召しものが本当はなんだったかずっと気になってたんですが、そうか、あのフロックコートで戦場に出てたんだ。
初夏なのにまだ少し寒かったんでしょうか。朝の冷え冷えとした時刻だったのかな。金鎖の時計も印象的だったんですね、きっと。シルバーじゃなくて金なんだなあ、と。

敵の「大将」と言い残してくれてありがとう!白戸じいさん。
じいさんの目には大将に見えたんですね。
大変なときでも仲間が便所に落ちるのは、やっぱりおかしいというのもいい話しだ。

てゆーか、感動してるのにシモ関係の話しでオチてしまいました⋯。
どんな土方小説(あ、土方ってゆっちゃった)のラストよりしんみりする文章のご紹介ありがとうございました。
Commented by はな。 at 2008-05-09 17:25 x
M子さん、こんばんは!
>「かの人」
実は最初に読んでいて「もしや・・・では?」と思ったのですが
いちおう言及するのは控えてみました(笑)。
でも、「長いマンテル」「金鎖の時計」とくると、
「かの人」の可能性・・・・は充分にありますよね☆

だとしたら、でかした白戸じーさま!になるのですがっっ
by aroe-happyq | 2008-05-09 09:36 | 箱館または釜さん | Comments(2)