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東都アロエ

函館戦争五十年物語(15)

函館新聞大正7年5月12日 第15回

この日は函館五十年忠魂五十年祭の当日で、
実は数日前から縁の人々が函館に集まり、街は賑わっていたようです。

今回、史実と区違う証言のオンパレードでございます。
白戸翁の独自の世界を存分にご堪能くださいませ(笑)
(たぶん彼の記憶のなかではそういう「明治二年」だったであらふ・・・)

◇親兵隊の一人
白戸政次郎翁談

翁の物語は断片的であるが、種々(いろいろ)と当時の実戦の模様などもあったけれど、
それは略することにして
◆降伏後
御台場内の謹慎に移ると、まず第一番に榎本釜次郎は静岡の江尻に送られ、
ソシテ謹慎する身をなったが、弁天のお台場の方には、陸軍奉行の大鳥圭介、
函館奉行の永井玄蕃、副総督の松平太郎を始め、榎本の叔父に当たるという
榎本対馬や平岡四郎、伊藤某などという勇士の面々が謹慎の内に、
明治二年の冬をお台場で過ごした。
◆見張り番
後に朝鮮公使をして、明治初年の錦絵の人となり、村童にまで知られた
大鳥圭介その他の人々は、謹慎中の退屈しのぎというので、
紙片(き)れを撚っては笠などを編んでいた。
函館の寒さに凍傷をする人もあろうと、翁は多くの勇士のため、
唐辛子や鹽鱒(しおます)の類を人知れず差し入れた。即ち翁は見張り番であった。
◆松前毛の宝物 稀代の伝説
余談に移るようだが、しかし当時の戦争に浅からぬ事だと、
翁が松前家を語り出した中に、松前家には随分宝物があった。第一が雨曇の硯
◆二つに
武田家の由緒によるのであろう、松前家には彼の諏訪法性の兜があった。
松前公が津軽へ逃れた時である、船は津軽海峡へさしかかると、
どうしても船は動かず、一同声を涸らしながら舟夫を励ましたけれど不可能で、
松前公はかかる危念の場合、多くの人命を救う為と、
御家重代の兜を海底深く没すると間もなく、不思議や船は徐々と動き出したと、
また雨雲の硯は戦乱の際に失ったが、外人の手に伝えられたという説もある。
◆怪又怪
賊軍の唯一の武器であった、即ち榎本が無二の力を頼んだ開陽艦が、
江差の沖で沈没したのは、水先案内の過失にて、ソノ水先案内が怒りに触れ、
罪の報いとして海中に放り込まれた。その時に水先案内の男が、
ひらりと岩の上に立ったのをみると、不思議や年古りの白狐であったが、
諏訪法性の兜と開陽艦と何等かの関係があるのだろうかと伝えられていたとの事である。



当時の実戦の模様などもあったけれど、それは略することにして
↑こ・・・これは略さないでほしかったっす~~っっ

弁天のお台場の方には、陸軍奉行の大鳥圭介、
函館奉行の永井玄蕃、副総督の松平太郎を始め、榎本の叔父に当たるという
榎本対馬や平岡四郎、伊藤某などという勇士の面々が謹慎の内に、
明治二年の冬をお台場で過ごした。


大鳥さん、永井さん、松平さんたち幹部は榎本釜次郎と共に東京へ送られたので
明治2年の冬に弁天台場にはおりませんでした。
(この冬は榎本さんも含め、みんな仲よく大手町の監獄暮らし(涙))
・・・・それから榎本対馬さんは榎本釜次郎さんの叔父さんというわけでは
ありません。

ただ、そんなに有名なみなさんではなかったにせよ、
白戸翁が弁天台場に謹慎していた人々に差し入れをしてくれていただろうことは
信じてもよいのではないかと思います。

今まで、当方にて勝手に開陽艦と改めていたのですが、
この連載中、はじめて「回陽艦」ではなく「開陽艦」という正しい表記になっていたことは
ひじょうに感動しました(笑)。

・・・・しかし、開陽艦が沈んだのがタタリって・・・・・(笑)。
(いっそその方がかっこいい話になる・・・・????)

次回、最終回です!
by aroe-happyq | 2008-05-16 10:01 | 箱館または釜さん | Comments(0)