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東都アロエ

お宅探訪 第十三回 戸川邸

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今では道路の真ん中・・・・・です(笑)。
かつては小川町雉子橋通とよばれた一帯です。



戸川って誰?・・・・・というくらい現代では知られておりませんが、
戸川中務少輔安鎮という人のお屋敷です。

正確にはこの人は部屋住のまま亡くなったので、
名義は父親の戸川播磨守屋敷、となっております。

これまでもなにかのついでに紹介してきた戸川安鎮でしたが、
今回は多少以前の重複もありつつ、まとめて紹介したいと思います。

安積艮斎の門人で、たいそうな切れ者だったそうですが、
慢性の持病(脚気との噂)があって、才能を活かしきれなかった人です。

文政8年(1825) 西丸書院番から小納戸へ
天保3年(1832)西丸目付
天保8年(1837) 本丸目付
天保10年(1839) ニ丸御留守居
弘化2年(1845) 西丸目付
弘化3年(1846)本丸目付 海防掛 勝手掛
嘉永6年(1853) 6月 海防掛辞
嘉永7年(1854)5月 辞

(小川恭一著『寛政譜以降旗本家百科事典』より 少々付け加え有)

本丸目付→ニ丸御留守居のときは、
病気が悪化して一時期、仕事を休んでいたのですが、
彼の才能を惜しむ、阿部伊勢守がちょっと強引に
激職の本丸目付復帰、それどころか、海防掛に
勝手掛・・・つまり目付筆頭(首座)にしてしまいました。
その後、鵜殿甚左衛門が首座になるまでの数年間、
目付衆を仕切っておりました。

「嘉永6年(1853) 6月 海防掛辞」というのは、
そうです、あのペリー来航の最中でした。

『藤岡屋日記』5巻、P477には、
6月8日に御目付堀織部が急に浦賀附近へ見分にいくように
命じられておりますが、その横に

但、昨夜七日、戸川中務少輔江被仰付候処、急病ニ而歩行不叶(かなわず)
右ニ付代り被仰付之。


戸川が急病で歩行さえ困難ということで、堀が代役で行くことが
書かれております。
このすぐ後、海防掛を辞めております。

この件については『川路聖謨文書』6の「房総海岸巡見日記」にも

廿八日 ○戸川中書脚気不宜(よろしからず)其上吐血也。
       この人難得(えがたき)人物に付
       左衛門尉(川路のこと)殊之外に心配いたす


と川路聖謨も出張日記の最後で触れております。
戸川は脚気のうえ吐血したとのことで、本来なら目付そのものを
辞めて治療に専念したかったのかもしれませんが、
「難得(えがたき)人物」ということで、辞職はさせてもらえなかったようです。
実はこうしたなか、自分の代わりにと阿部伊勢守に推薦していたのが、
堀織部、永井尚志、岩瀬忠震でした(『江戸』5巻 木村芥舟「燭籥記」)。

御目付というのは選ばれる際、目付衆内で入れ札によって候補者を絞るので
戸川のような目付キャリアが推薦すれば大抜擢も可能でした。
・・・・・つまり、この3人のファンとしては戸川安鎮は恩人のなかの恩人(笑)
なのです☆

しかしこうして若い目付を入れても、辞めさせてもらえなかったようで(汗)、
ペリーとの和親条約のときも病身をおして、激務をこなしていたようです。

木村芥舟の「燭籥記」には、

当時海防の議、大に起り鋳砲製艦諸工事輻湊し日夜奔走督責して
安眠するの暇なきにより宿痾まさに大に発して終に起□□
人皆之を惜しめり


・・・・・今でいう過労死でございます。
嘉永7年(1854)5月に辞職して、その年の秋には亡くなられたよし。

ところで、戸川安鎮は木村芥舟家と親しく、
ことにかなり上級の刀剣マニア同士・・・・・趣味の友人だったようです。

『横浜開港資料館紀要』11号「幕臣木村喜穀あて書簡」のなかに、
戸川安鎮から木村喜彦宛書簡が収録されております。
木村喜彦とは木村芥舟(喜穀)の父。御浜奉行をやっていた人です。
書簡の内容も、ひたすらに刀の話。なんだか虎徹の話題も出てきます(笑)。
(この書簡だけ読んだら、戸川安鎮はとんでもない刀好きの道楽旗本
だと思われてしまうかも・・・です)


最後に、新参目付の頃、世話になったはずの永井尚志による戸川評です。

目付役之首坐ニ居、性質正直ニ而、人才登庸を重んし、目付役ニ者適当之人物、
中年ニ而死去致候て、可惜事也。


(河内八郎「伊達宗城とその周辺ー続ー岩瀬忠震・永井尚志ほか」 『人文学科論集』
23号 1990.3)
この書簡について詳しくはこちらへ

どうも目付という仕事は「性質正直」な人が適任のようです。
鵜殿も、堀も、永井も、岩瀬も、木村も、みんなまっすぐな人ばかり(笑)。
書類を懐中に入れてはならない、手に持て!というような公明正大さを
求められる職場だけに、それは当たり前のことなのかもしれませんが。
・・・裏工作好きな鳥居甲斐守のようなタイプは×ですね。

川路や木村、永井が惜しむように、
戸川安鎮がもしも健康な人だったら、ひょっとしたら幕末の柳営も
少し違っていたかもしれません。
世間的には無名な戸川は史料もすくなく、実態を捉えることが
できそうもありませんが、それでもなぜかファンの幕臣のひとりなのです。
(私の場合、贔屓の幕臣が多すぎる・・・・・・んですけどね)
by aroe-happyq | 2008-07-26 11:39 | お宅探訪シリーズ | Comments(0)