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東都アロエ

150年前の今日 外国奉行、創設

8月16日(1858)
安政5年7月8日 大雨 江戸(品川)

タイトルどおり、外国奉行が創設された日です。
同時に阿部正弘が創設した「海防掛」が廃止された日でもあります。
(老中などで外交担当は外国掛という名称になります)
また、講武所が小川町へ移転という老中達がでたのも、この日。
 
外国奉行、改めて紹介してまいりましょう(え?もういい??)

筆頭 水野筑後守忠徳  (前 田安家家老)
    井上信濃守清直   兼下田奉行
    堀織部正利煕    兼箱館奉行
    永井玄蕃頭尚志  (前 勘定奉行)
    岩瀬肥後守忠震  (前 御目付筆頭)

永井尚志などは官吏として最高職ともいえる勘定奉行勝手掛からの転属なので
微妙に↓左遷っぽいです(汗)。
(この後、さらに小さい部署・・・軍艦奉行行きですし)

岩瀬はこの人事異動について、
友人で後輩の木村勘助(当時は長崎海軍伝習所二期総監)への
書簡(8月13日付)で語っております。

この程の時期 忽ち寒く、人事もまたかくの如くにて、
僕輩の転遷も天意の在る所、何れか知るべからず。
栄か、将(はた)瘁(すい)か。
不言のなかに黙識すべし。
 
(『木村芥舟宛岩瀬忠震書簡注解』岩瀬忠震書簡研究会 74P)

実はこの安政5年の夏はひどい冷夏でした。
この日も品川フュリアス号付近は、23度という気温です。
それとひっかけて「人事もかくのごとし」と言っております。

昇進か、はたまた左遷か。
それまで柳営内の情報をすべて知ることができ、
多くの役所の仕事に関与できた目付部屋の筆頭(5月から)だった
岩瀬からすれば、奉行職より低い役職だと言われていても
目付職であることの大きさはよくわかっていたはず。
岩瀬忠震が阿部・堀田政権で奉行に昇進せず、
目付であり続けたのも、貿易開始の推進力として
彼の才能を発揮させるためで、
自由に多くの政策に関わらせたかったようですし。
それが外交専従となれば、権限を狭められたわけで、
岩瀬的にも、この人事はやっぱり左遷でしょうね。

一見すると、栄転にみせておいて実は左遷……。
柳営の誰もがすぐに気がつきますわな、こんな小細工。
井伊大老もイジワルなお方でございます(笑)。
(安政の大獄も目前です)


さて品川沖の英国使節ですが、
この日に江戸へ上陸しようと思っていたところ
またもやどしゃぶり雨につき、中止。
ヒュースケンと数名が宿舎に割り当てられた
愛宕下の青龍寺に視察にいったところ、
「せまい、古い、汚い」ということで、宿舎を変えてくれと要求。

急遽、芝の西応寺に変更となったのでした。
Commented by Aki_1031 at 2008-08-18 13:11 x
おおお!外国奉行ゴレンジャー!(笑)
ビギナーとしては、こういう風にまとめて下さると分かり易くてありがたいです。

愛宕下の青龍寺が、
>せまい、古い、汚い
などとヒドイ言われようだったなんて…!(泣笑)
かの寺院は、イバハチの仲間・林の殿さま(遊撃隊・旧請西藩主)の
菩提寺なのですよーぅ。
そんなボロいお寺だったなんてぇ~!!(衝撃)
Commented by はな。 at 2008-08-19 10:46 x
いよいよ、きました!外国奉行誕生です☆

>愛宕下の青龍寺
どちらかというと、英国側の難癖っぽいのです。
日本側はそんなつもりはちっともなかったのですが、
(言われるほど、古くも小さくもなかったようですし)
疑心暗鬼になっていたのか「わざとこんな寺をあてがうとは。
日本側はイジワルしているのだ」とか・・・思ってたみたいです。
強引に品川乗り込みしてわがまましているだけに、
英国側としては必要以上にアウェイ気分でナーバスになっていたようです。
青龍寺だったら、ロシア使節のいる真福寺(たしかにこちらは立派ですから。比較したのかも??)のそばで、便利なのにィ、変更するの?・・・・と、永井たちは首をかしげたことでしょう(笑)。
by aroe-happyq | 2008-08-16 10:05 | 五カ国条約150年 | Comments(2)