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東都アロエ

150年前の今日 通商条約、最終合意へ

8月23日(1858)
安政5年7月15日 にわか雨  江戸

日英の公式会見、4回目。
はやくも条約の条項すべてについて合意に達しました。


仕事、はやっ!

結局、天津条約に近い内容にしようとしたエルギンの思惑は外れ、
日本委員の提示した日米通商条約に則した内容になりました。

この件についてちょっとエルギンは本国宛書簡で言い訳しております。

・・・・そこで遅延を避け、また外国人と日本人との間の正式の貿易を
開始するに当っての混乱や紛糾の危険をできるかぎり除くために、
私は大英帝国のために商議した条約の中で、港の開放、貿易の取締り
その他に関する細かい問題については、ハリス氏の条約の規定に、
また多くの場合にその語法さえも、きわめて接近することにしました。
日本側の委員たちは(その名誉のためにいうのですが)
極端に几帳面で、新しい条項を、またはすでに同意したした条項の語句の変更
でさえも、十分に討議し、またそのような変更の意味やそのもたらすべき効果
について熱心に詮索しなければ、それを認めなかったのです。
そのためにこうした方針をとるのがいっそう必要だということがわかりました。
したがって、イギリスの条約に新しい条項をとり入れようとする
私の努力も、貿易上にとりわけ重要と思われるいくつかの点に
制約されてしまったのです。

         (新異国叢書9『エルギン卿遣日使節録』(雄松堂)274P)

主席全権が水野筑後守というのは、英国側にはけっこう厳しかったかも。
几帳面で、細かい・・・・・人で、なおかつ外国人にキツイ。

でもしおらしく書いているエルギンですが、
英国に有益(つまり日本には不利益)な権利はがっつりいただいて
いっちゃいましたので。
十分に満足じゃないのか!というところです(笑)

この日英通商条約がほかの国の条約と違う点は、
税則について五年後に
「もしイギリスまたは日本政府が希望するなら」改訂されるという規定が
盛り込まれたこと、でしょうか。

税制についてド素人な日本交渉委員としては、この5年間に
海外に視察に行き、学んでくるつもりでいたのです。
岩瀬も永井も年内に準備を整えて、条約批准のため欧米にむかうつもり
だったので、そのときにこれらの条約内容が日本にとって不利益か否かを
チェックしてこようと考えていたわけです。
つまりは安政五カ国条約の不平等さはこのときには、
まだまだ改善される余地がたくさんあったのでした。
あーあ、もったいない!

・・・・・とはいえ、岩瀬も永井もすでにこのとき、
井伊派上層部に厳しく監視されていたので、海外になんか出してくれそうも
なかったのですが。
もし井伊大老が優秀な男で、おのれの感情よりも日本の国益を優先
していたとしたら、もう少し幕末の対外的な混乱も少なかったのでは?と思います。

やっぱり国政のトップには今も昔も柔軟でクレバーな人が必要ですね☆
・・・・・という愚痴はさておき、
条約の調印は26日と決まり、これにて談判は終了しました。
by aroe-happyq | 2008-08-23 10:39 | 五カ国条約150年 | Comments(0)