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東都アロエ

『幕末の将軍』 面白かったです♪

実は随分まえに読み終えていたのですが、なかなか記事にできずっっ。

以前、紹介した本、久住 真也著 『幕末の将軍』(講談社選書メチエ)です。


家慶、家定、家茂+慶喜をそれぞれ紹介しつつ、
基本的には家茂将軍をメインとして、
徳川将軍代々のあまり顔をみせない「権威の将軍」から
率先して人々にその姿をみせる「国事の将軍」への移行について検証していく、
徳川将軍ファンにはたまらない画期的な試みの一冊でした。
夢中で読んでしまって、アッという間に終わってしまいました(笑)。
幕末の政治史をかじりたいという方には必須アイテムの本です♪


詳しい内容はそれぞれ読んでいただくとして、
いくつか個人的にツボだったところを書きたいと思います。

家茂について詳しくない自分としては、ここで紹介された若くて意欲的で決断力あふれる姿に
とにかく、感動してしまいました。
一生懸命がんばっていたのはわかっていたのですが、想像以上に自ら主体的に動くし、
新しい時代の将軍として才能豊かな青年だったのですね♪
相談ごとがあれば、人を遠ざけて、サシで話をし、即決することが多かった家茂。
多くの幕臣のハートが家茂に鷲づかみにされたのも、これで納得でした☆

しかし。
彼の最大の不幸は、
あの・・・・・あの、文久の無責任男こと松平慶永(春嶽)を師父と仰いでしまったことです。

そんなに信頼してしまっていたのかーーーっっ
と読みながら、頭をかかえることが幾たびもありました(爆)。

途中で投げ出し屋さんな慶永に、上洛中に放置された家茂公、
慶永がやってきたと勘違いをして、二条城で迎えに出たりするのです(涙)。
結局、ソラミミだと知るとしょぼんとしてしまう。
それを別室でみている会津侯や一橋侯もまた上様お気の毒にと・・・・凹んだりして。

思えば春嶽は家茂がたいへんなおりには側近くにいなかった感がある。(222P)

本当にそのとおりです。

とてつもなく、哀しいやるせない気持ちと同時に、慶永ふざけんな!と怒りを新たにいたしました。

ふざけんな!つながりであとひとつ。

この幕府が倒れて間もない時期の外国人参内という未曾有の事態に際し、
強固な攘夷主義者だった廷臣大原重徳は、新政府の議定職にあった松平春嶽に対し、
涙ながらに反対論を述べた。
そのなかで大原は、「只々徳川氏へ対せられ御不都合と存じ候」と
かつてあれだけ攘夷を命じた徳川に対し、朝廷(新政府)は顔向けできるのかという
非難の言葉を述べた・・・・・・
(263P)

あれだけ幕末を通して、長年にわたり攘夷だ、開港不許可、禁裏に外国人をいれるなど
ありえないとネチネチと叫び続けた朝廷(新政府)。
開港・開市を決断しはやく近代化を進めようと考えていた徳川公儀(幕府)
の抵抗勢力としてその前に立ちはだかってきた彼ら(やつらといいたいのを我慢)は、
鳥羽伏見の戦いからほんのちょっとで、あっさりと外国人を京に入れて、参内も許しちゃった
ことに関して、これぞ新政府のインチキの根源であるわけですが、この彼らの自己欺瞞について
少しは反省とか罪の意識はあったのかい、と思ってきたのですが。
この本の大原の言葉をみて、いちおうは「顔向けできない」とか
少しは心の隅っこでも、思っていたことを知ってちょっとホッとしました。
でも大原ひとりだけなのか???ホントは新政府みなさんで大いに
反省してほしいと思わずにはいられません。
(明治になってちゃっかり洋服なんかきちゃってる写真みるとカチッときますです、ハイ)

この抵抗勢力どもが古い頭で攘夷攘夷とやらず、国際情勢を理解し、
開港・開市はやむおえないことだと知り、もっと前から徳川とともに「挙国一致」で
海防対策に協力してくれれば、岩倉使節団のような恥はかかずにすんだし(爆笑&涙)、
より合理的な近代化(それは西洋化とイコールとは限らない)が推進できたかもしれない
というのに、だ。
大原しか涙を流さないのか???(笑)

そして攘夷攘夷と反抗しなければ、家定や家茂の寿命ももっと伸びていたかも
しれません。
彼らのストレスの大いなる原因は間違いなく攘夷運動ですからね。

最後にあまり多くのページを割かれていない慶喜について(笑)。
この本で指摘されたとおり、慶喜は歴代の徳川将軍と同列に扱うにはちょっと??な
異色な将軍です。
いちおう将軍宣下はしたものの、代々おこなってきた江戸城で3日間にわたる「お披露目」儀式
もやらなかったし、やる気もなかったようです。

近世の徳川将軍の権力はおおいなる権威に包まれていました。
権威を高めるためには、面倒であっても儀式を重んじ、格式社会に生きねば
ならないのでした。
(これは徳川だけでなく、近代以前のそれこそ数千年もの間、
世界のあちこちの「王朝」がおこなってきた行為でした)
徳川が儒学を大切にしたのも、「儒教」は権威付けにたいへん有効なもの
だったためもあります。
幕末になり、徳川公儀の学問所の主要スタッフが
儒学から洋学を重視しようとした段階で、自らの権威付けのしくみを
放棄したともいえなくもないです(笑)。
(でも彼らのかっこいいのは、ベースはあくまでも儒学。洋学はオプションなんですけどね)
やはり、公儀は自壊した・・・・のかもしれません(笑)。
と、本とは関係のない雑談はさておき♪

つまりホントは最後の将軍は家茂公だといっても過言ではない???
のかもしれません。

幕末の公儀側の研究は近年、たいへん進んでいて、わくわくしております。
わたしとしては有難いことばかりなのですが、
今回の幕末将軍についても、知っているようでまだまだ知らないことばかりでした。

今回たいへんに勉強になりましたが、自分もますます精進したいところです☆


そしてますます、久住 真也氏の『長州戦争と徳川将軍―幕末期畿内の政治空間 』
が読みたくなってしまいました☆
Commented by sinsky at 2009-04-05 13:59 x
はな。さん、ご無沙汰しております<(_ _)>

『幕末の将軍』のご紹介ありがとうございました☆

ご紹介いただいて、先日からぼちぼち読み進めています。

まだ半分ちょっとですが、これまでぼんやりとしかイメージできなかった家茂像が、目の前の霧が晴れるかのように明らかになっていく過程が快感でもあり、少し寂しいような複雑な心境です。

このエントリーでも触れられていますが、文久3年の上洛にあたって、家茂青年に降りかかった数々の受難を今回初めて知り、本当に胸が痛むとともに、翌年の第1次征長に供奉した立花種恭が兄のように、時には親のように家茂を温かく見守っていたことがオーバーラップされてきて、このような彼の境遇を知ったうえで、種恭の日記を読み返したら、また違った印象受けるのではと思った次第です。

かつて家茂のためなら命を捨ててもかまわない言い放った春嶽は責任を放棄し、信頼する国持大名も家茂の周囲を次々と去っていった。それでも残された家茂は、将軍の職掌と向き合わねばならなかったのである。(p.170)

これからどうなることやら(汗)
種恭目線で今後の成り行きをしかと見届けたいと思います。
Commented by sinsky at 2009-04-06 21:04 x
上記コメントを読み返してたら、種恭が供奉したのは第1次征長ではなく、第2次の間違いでした。1回目は、長州藩3家老の切腹で手打ちをして、将軍の進発そのものがなかったですもんね。

それと、第2次征長時の家茂滞坂中の出来事として、長州征伐が遅々として進まないにもかかわらず、「阿部老中などは自分の屋敷などで打毬(騎馬で行う球技)ばかりやっていた」(p.209)という他人事のような一橋慶喜の後年の回想が目にとまりました。

たしかに滞坂中は、閣老の間で松前崇広邸を会場として、種恭も参加しての打毬大会が繰り広げられていましたが、8月7日の上覧試合には橋公、あなたも参加して楽しみよったやろーもん!とついつい方言で突っ込まずにはいられませんでした。
Commented by はな。 at 2009-04-07 10:27 x
sinsky さん、いらっしゃいませ☆
この本は家茂についていろいろと学べてたいへんな好著ですね!
また長州戦争と家茂の関わりについて細かく研究された方でもあり、この時代の情勢に詳しく触れてくださっているし、とても面白い本です♪
慶喜以上にいいかげん?な(笑)わたしのなかでの2次長州征伐の家茂滞坂中の事件というと、立花種恭さまが永井尚志の人事的口出しにお怒りになり、脱走する!という素敵な出来事があったなー、というぐらい(笑)。永井が人から誤解されたり嫌われるのもたいへん珍しくて楽しいのですが(爆)、なにより小野友五郎たちと脱走計画を練っている立花さまの様子が可愛らしく微笑ましい♪
できれば少しでも実行してみてほしかった☆・・・・というのは冗談として(笑)。
家茂さんにはもっと長生きしてほしかったです(涙)。
by aroe-happyq | 2009-03-03 11:31 | | Comments(3)