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東都アロエ

甲府宰相海手屋敷と三百年の松

浜離宮公園の入り口そばには、三百年の松というのがあります。


甲府宰相海手屋敷と三百年の松_d0080566_18124612.jpg



ライトアップされるとなかなかゴージャス♪
今では都内最大級の黒松だそうです。

この松をみたら、ひさびさに綱豊愛の扉が開いてしまいました☆

この松は元禄時代、甲府中納言(宰相)徳川綱豊がこの海手下屋敷改修のおりに
植えたものだそうです。
それが三百年前。
つまりは、綱豊卿は三百年の人・・・・・なんですよね(笑)。
(綱豊、綱豊いってますが、晩年には6代将軍家宣になる人です)

幕末とは反対に、史料が少なくて困りつつ、20年。
徳川実紀も100%信用できないので、
なかなか真の姿が掴めない、だからこそ面白い人です。

綱豊の父、3代将軍家光の弟・綱重は甲州家の当主となりました。
(さらに下の弟が館林家の当主となった綱吉です)
綱重は幼い頃より、家康の娘の千姫(当時はおばあちゃん)に可愛がられて、
屋敷に出入りしておりましたが、そこの女中の保良(ほら)という女性と恋仲に。
やがて綱豊が生まれるのですが、その当時、綱重には京の公家娘との婚儀の話が
あり、泣く泣く・・・・保良と別れ、赤子は甲府家付け家老の新見正信に引き取られることに。
綱豊は新見左近と名づけられ、駿河台の新見家で正信の子としてのびのびと育つのでした。
ところが、綱重は保良とこっそり復縁し、また男子を授かったりするのですが、
正室とのあいだには子ができません。
そこで8歳になった左近は「実はお前は主君の子です」と衝撃の出生の秘密を
明かされ(笑)、甲府家に引き取られます。
(このおり、左近が綱重の実の子かどうか、甲府家内が割れて大騒動になりましたが、
赤子の頃の左近のホクロの場所を幕府にあらかじめ届けでていた新見の一計のおかげで
無事に落着。新見正信は責任をとって甲府に隠居となりました)
この当時は4代家綱の時代でしたが、
幕政は大老酒井雅楽頭が強大な勢力をもっていました。そして甲府綱重はこの酒井と対立。
綱豊が15歳のとき、父の綱重は突然「急死」してしまいます。
ケンペルが長崎から江戸に出てきていたのですが、あくまで噂として「酒井と争い、
綱重は切腹した」という情報をその著書「江戸参府旅行日記」に書いております。
・・・・かくて綱豊は突然、甲府35万石の当主となりました。
ところが、波乱はここで終わりません(笑)。18歳にして、今度は5代将軍をめぐる
後継者争いに巻き込まれてしまうのです。ライバルは叔父の綱吉。そして酒井大老が推す、
京の宮サマ・・・・・。味方はわすか一人、あの水戸黄門こと光圀でした。
結局、堀田老中のクーデターで綱吉が5代将軍と決定し、・・・・・それから30年。
おチビさんでねちこい性格の叔父さまにジメジメといじめられながら、
綱豊は江戸というアウェーのなかで、それなりに幸せをみつけて生きていきます。
綱吉もウザがるご意見番の水戸光圀を父代わりに、
また正室となった近衛煕子とは仲良し夫婦となり、
22歳のころには美貌にして賢い能役者の西田右京、のちの間部詮房という股肱の臣を得て、
30代には侍講に新井白石、侍医に西洋外科の桂川邦教などの面白い人々に囲まれ、
・・・・・・・世を拗ねることもなく、心優しく、ひたすら静かに。

やがて叔父さん綱吉の浪費のツケに苦しめられる6代将軍時代、そして過労死する
たいへんな晩年はさておき、
それまでの30年は猿楽と学問を愛しつづけ、
今の日比谷公園を上屋敷に、浜離宮公園を下屋敷に持ち、優雅に暮らしたとのことです。

なにかどう興味があるかというと、やはりこの30年で捻くれなかったということでしょうか。
一説には6代将軍職をめぐっては、叔父の綱吉に呪詛までされてしまったという綱豊。
そのせいか、一服もられたのかは不明ですが、大病もしましたけど、
妙な逆襲心や野心も滾らせなかったという点も、素晴らしいように思います。

もっとも。この人がなにもしなくても、綱豊の「徳」を慕って、
男顔負けの政治力を持つ妻の煕子や、人を動かす才能に長けていた詮房が
ちゃんといろいろやってくれるのです(笑)。
(ふたりの女房がいるようなもんだし←元禄は衆道上等ワールド!ですからネ)
ちょうどこの松のように、周りの人々にとってはどっしりとしている主君だったのでしょう。
(「俺も詮房のような家臣が欲しかった。家宣公が羨ましい」と8代将軍を
悔しがらせたぐらいですから(笑))

綱吉と吉宗のインパクトには到底適いませんが、
だからこそ惹かれてしまった、6代将軍家宣・・・・・甲府綱豊です☆

(長年の綱豊ウォッチャーとしては、
10代にわけもわからず、将軍後継争いに巻き込まれ、破れるという不幸の痛さが
とてもわかってしまうので、ヘタレ慶喜に対してすんごく甘いワタシであります☆)

ふと三百年の松に導かれ、長々と失礼いたしました♪
Commented by さかえ at 2013-09-12 16:25 x
甲府徳川藩の下屋敷は根津では?綱吉が綱豊の西の丸入りを祝い、産土神社にと天下普請で屋敷を壊して根津権現を建立したという。
Commented by はな。 at 2013-09-12 19:06 x
さかえさん、コメントありがとうございます。
現在の浜離宮恩賜公園は、家宣の父・徳川綱重が海辺のこの場所を公儀より拝領し、海を埋め立てた後に、甲府浜屋敷、海手屋敷と呼ばれて、甲府藩の下屋敷として使用されておりました。
一方の根津の甲府屋敷は上記の屋敷よりも前から存在し、こちらもまた下屋敷とされていました。
そういう経緯がありましたので、この記事では浜離宮のほうも、下屋敷と書かせていただきました。
(別記事の根津のところでも、下屋敷と書きました)

Commented by 根津伍 at 2014-04-25 12:29 x
甲府徳川家に別邸が二つあり、現浜離宮は海手屋敷、根津は山手屋敷と呼んだと聞きます。
今でこそ根津は下町などといわれますが、江戸時代は谷根千の谷中は寺町で、根津も千駄木も武家地や山林ばかり。もともと山の手でした。根津の屋敷の南側には水戸藩の中屋敷(現東大農学部)があり、根津神社楼門の随身のモデルが水戸光圀というのも、縁の深さを感じます。
もっとも、反対側の随身のモデルは、叔父さんの綱吉だそうですが。

Commented by はな。 at 2014-04-27 11:59 x
根津伍さん、コメントへの書き込み、ありがとうございます。

将軍後継者候補の徳川綱豊でしたが、多くの大名が実子への継嗣を望む綱吉将軍に遠慮してか、
(綱豊の)味方の少ないなか、正室煕子の実家の近衛家と水戸光圀はたいへん心強い存在でした。

根津神社の大造営は綱吉将軍によるものですので、隨身のモデルに綱吉が
なるのは当然だろうと思いますが、その相棒の隨身に綱吉と犬猿の仲の光圀公が
よく選ばれたな・・・・と思います。
綱吉としては、長い間冷遇してきた甥の綱豊の強い要請に
応じざるおえなかったのかもしれませんが、そのあたりのこの両者のやりとりに
興味が沸きます。
by aroe-happyq | 2009-04-07 19:24 | ちょっと元禄・正徳 | Comments(4)