東都アロエ

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アジアンエンタメ&お江戸後期。外国奉行や長崎海軍伝習所がご贔屓☆ BYはな。

2007年 04月 30日 ( 1 )

久々の旧暦シリーズです。

今回は元禄14年辛巳3月14日について。
のちに『忠臣蔵』として語りつがれていく大事件の、まさに発端の一日。

忠臣蔵の物語は美しいので、それはそれで置いといて(笑)、
史実とはどういうものだったのでしょう。

『「忠臣蔵事件』の真相』(佐藤孔亮 著 平凡社新書205)に
そのヒントが書かれておりますが、
意外にも松の廊下刃傷事件の史実をさぐるための史料は少なく、
基本的には
『梶川氏日記』と『多門(おかど)伝八郎覚書』の二つなのでした。
(『徳川実記』でさえこれを参考に書いている・・・)

とくに多門のほうは、この人が当日の本番御目付だったため、
描写がこまかい。・・・が、こまかすぎてほとんど小説?のような。
しかも多門本人が大活躍しすぎ(笑)で、ほとんど妄想小説のよう・・・・。
いちばん困るには浅野内匠頭切腹の場面で、辞世などもこの『覚書』に
書かれているけれど、どうも・・・・・・これが多門の創作らしいのです。
(いまだに意見の分かれるところですが、ほかの史料にまったくないので)

風さそふ花よりも猶我ハまた春の名残をいかにとかせん

・・・・映画やドラマですと桜がひらひら・・・なんて素敵な名場面なのですけどね(涙)。
(時期的に桜もむりという話もある・・・・)

でも多門のおかげで仮名手本忠臣蔵が生まれて、美しい物語となりましたので、
それはそれでいいか!みたいな(爆)。

ただ吉良上野介さんだけはなんだか気の毒かもしれません。
というのもどうやら浅野内匠頭をいじめた形跡はなく、
賄賂をとるような強欲な人でもなく、いたって真面目に朝廷と幕府のあいだを
取り持つ役目に励んできた男のようです。

たったひとつ吉良さんが浅野さんに恨まれたとしたら、
それは3月14日当日、この日は朝廷からやってきていた勅使に
将軍綱吉が言葉をかける「勅答の儀」の日だったのですが、
当日朝になって儀式の時間が前倒しになった件を、高家衆(吉良も含む)が
勅使を接待する係の馳走人・浅野内匠頭に伝達ミスしてしまい、
儀式に勅使を送り届ける役目の浅野は儀式に遅刻しそうになったという
・・・・・伝達忘れ?・・・、その一点のようです。

でも間に合った浅野内匠頭は松の大廊下の所定の位置に座り、儀式が
始まるのを待っていたのですが、その廊下で、留守居役の梶川と吉良が
立ち話をし始めた(『梶川氏日記』より)。内容はもちろん時刻は早くなった件。
吉良と梶川は知り合いらしく、話し込んだのち歩き出した。
浅野内匠頭はその歩いている吉良を後ろから斬りつけ、・・・刃傷事件となった。

・・・浅野さんが吉良さんを切ったのはいちおう高家筆頭だったから?
立ち話をきいているうちに、むしょうに腹が立ってきたのかも??

『「忠臣蔵事件』の真相』の佐藤氏は浅野内匠頭は恨んでいたというより、
怒っていたのだといっておりますが、梶川さんの日記を読むと頷けてしまいます。

しかし言ってしまえばこんなことで、浅野家は断絶。藩士は職を失ったのです。
なんだかやるせないお話です。

『多門・・・』も『梶川』の史料もすべて、
『忠臣蔵 3巻』(赤穂市市史編纂室)に収録されております。読みやすいです。
ほかのいくつかの断片的な史料もすべて掲載されておりますので、
物語とは別に、いったい赤穂事件とはなんだったのかを探ってみるのもよいかも。
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by aroe-happyq | 2007-04-30 14:53 | 旧暦シリーズ | Comments(0)

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