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東都アロエ

2008年 09月 05日 ( 1 )

咬菜園から弥生坂を下り、小学校で右折し中華会館を眺めつつ、
基坂をめざしました。

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松前氏の始祖は享徳3年(1454)に蝦夷地にやってきたのですね。
(年季が入っていることを再認識しました)
この宇須岸河野館は遠くからみると箱に似ていたため、
箱館と呼ばれるようになった・・・・のが「箱館」の由来の一説になっているらしい。

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箱・・・・・に似ているかも?

この看板にあるように、この箱館御役所一帯は、
最初から箱館(というか和人による蝦夷地)の行政の中心地だったのですね。

続いて、基坂に曲がる角には!

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武田斐三郎、キターーーーッ!!!!

ペリーの箱館寄港にはじまった西洋諸国の軍艦の寄港ラッシュのなか、
箱館奉行たちはそれらの軍艦からもたらされる西洋の最先端の科学技術情報を
分析し、日本の近代化に役立てたいと考え、
蘭学者の武田斐三郎に命じて、その研究・分析、教育を行なわせました。
安政3年8月、箱館奉行はこの研究教育機関を「分析所」として開所の許可を
公儀に上申したところ、「諸術調所」と改名して開設のはこびとなったわけです。
箱館奉行支配諸術調所教授役となった武田斐三郎は、
オランダ語(のちに英語)、医学、薬学、植物・動物学、天文・地理学、
数学(測地・測量)、兵学(城築学・戦術・砲術)、造兵学、鉱物学、造船・航海術、
物理・化学、機械工学などなどを、たった一人で教授していた(汗)。
諸術調所は江戸の蕃書調所に匹敵する機関といわれますが、
一人とはちと心細い。
とはいえ、北方探検家の松浦武四郎、仙台藩の玉虫左太夫、佐賀藩の島義勇など
優れた人材が箱館に集まり、武田をサポートし、彼らは集っては「終日談話」
などして、たいへん熱心に新しい知識を吸収していたようです。
そんな諸術調所のホットな雰囲気を慕って、越後高田藩の前島密、
薩摩の吉原重俊、長州の井上勝など、のちに明治になって活躍した面々が
箱館にやってきて、武田の門下となりました。
なかには新島襄のように情熱が有り余って脱国して留学しちゃった人もいたけど(笑)。
(参考:井上能孝「開港場・箱館に開花した洋学の起源」函館大学論究37号)

しかし元治元年に武田斐三郎が開成所教授として江戸に戻ると、
諸術調所は終焉をむかえました。

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箱館病院跡です。

文久元年、箱館医学所として開設。
その当時は船見町にあったらしい。この看板のある場所には
明治になってから移ってきたとか。
つまりは高松凌雲先生のいたのは、船見町のほうですね(笑)。
この病院といえば、凌雲先生の敵味方の別なく治療するという、
日本初の赤十字精神の実行です。何度きいても素晴らしいです!
それにひきかえ、箱館戦争における官軍による箱館病院別院での蛮行。
天下を獲ったのがこういう精神の輩ですから、
近代日本のやらかした数々の乱暴・狼藉も、
すでにこのとき予見できたといっても過言ではありません。
勝利した者=善ではないということを、歴史はちゃんと教えてくれております。
(参考:『はこだて歴史散歩』北海道新聞社)

さて、いよいよ、ついに!とうとう!!(笑)
次は箱館奉行所なのですが、それはまた次回!!

・・・・この記事、半分以上書いたところで一度、消えちゃいまして(涙)。
泣きながら打ち直しましたのさ。
なので、もう今日はここでギブアップ!!
by aroe-happyq | 2008-09-05 11:19 | 箱館または釜さん | Comments(2)