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東都アロエ

2008年 09月 29日 ( 1 )

満を持して、岩瀬邸の登場です。
なぜ15回まで遅れたかというと、いつでもいける築地、でもそう思っていると
なかなか行かない築地だったりしたからです(笑)。
夏に歌舞伎座にいったおりにでも寄ろうと思っていてすっかり忘れていたり(笑)。

そもそも岩瀬邸跡地が、いまいちモチベーションがあがらない場所だったり
するのです。看板もたてられないし、おちおちゆっくり偲んでもいられない。
なぜならそこは、

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京橋郵便局前の道路のまんなかなのですから~~~~~(涙)





戸川邸に続く、道路派旗本第二弾です!(笑)

さて、岩瀬邸といえば、やはり岩瀬忠震でしょう!といいたいところですが、
この人もまた部屋住みなので、この屋敷の名義人は義父の岩瀬市兵衛忠正さんです。
永井といい、堀といい、戸川といい、みんなこのクチでございますけど、
いささかややこしい。

岩瀬家800石は三河以来の直参旗本でしたが、義父の岩瀬市兵衛忠正は
とくに取り立てて特技があることもなく、書院番士→書院番組頭→先手組弓頭
とコツコツ人生を歩んだ人でした。
そのため、同じく三河直参設楽家から、
林大学頭の孫にもあたる頭脳明晰の篤三郎(忠震の幼名)が婿入りして、
すっかり頼りにしたそうで。
このパターンて、川路家における義父と聖謨の関係によくにておりますが、
川路のオヤジ様のように、養子にきてまもない聖謨14歳にさっさと家督を譲って
悠々自適な生活をおくる・・・・・というような、タイプではなく、
岩瀬市兵衛忠正は自分の上司に昇進してしまった婿さんとも
一緒にせっせと登城していったそうです。勤勉なお父上なのでした。

岩瀬忠震と市兵衛の娘(名前不明)との間には男3人(2人は夭折)、
女4~5人(このほか後妻もしくは側室に1人生まれているけれど)、
・・・・堀織部にまけない子だくさん家族で、忠震をはじめ、市兵衛もたいへん
明るく愉快な性格だったため、岩瀬家は笑いの絶えない一家だったようです。

岩瀬家、および忠震については井伊家の探索書(スパイ報告)の記事で
紹介しております。
岩瀬家に少しでも興味が湧きましたら、ぜひ読んでくださいね!
その1とか、その2その3など。
いろいろと味のある岩瀬家であります☆

文久元年6月13日に忠震の忰の忠斌君(16才)がはやり病?で急死すると、
もともと病を得ていた忠震(当時は隠居して鴎所と名乗っていた)44才は、
その知らせをきくと、重篤に陥り、7月11日に向島で亡くなった。
で、婿と孫に相次いで先立たれた忠正(68才)もまた、9月28日に後を追うように
鬼籍にはいった。これだけみても、岩瀬家ファミリーがどれほど仲がよかったかが
わかるような気がします。
(この後、忠震の友人木村摂津守の骨折りで、岩瀬家に養子を立てますが
その人が若いまま歿してしまうと、なぜか岩瀬家はそのまま滅んでしまいました)

今は道路のまんなかに、150年ほど前、
基本的には800石なので、それほど大きな屋敷ではありませんが、
ここにはそんな旗本家族が住んでおりました。
by aroe-happyq | 2008-09-29 19:24 | お宅探訪シリーズ | Comments(4)