カテゴリ:幕臣系(老中など)( 37 )

本日は伊勢守の生まれた日

急な寒さのためか、うっかり風邪をひいて寝込んでおります(涙)。
ホントはこの日に合わせて、阿部どの情報をいろいろ記事にしようと
思っていたのですが、薬の作用で眠くてっっ。なにもできません(笑)。


とりあえず、本日は西暦1819年12月3日こと、
文政2年10月16日生まれの阿部伊勢守のバースディということでした!


昨年の記事は→こちら
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by aroe-happyq | 2008-12-03 10:00 | 幕臣系(老中など) | Comments(2)

正弘の父・正精の遊び方 @想古録 後編

前回、硬派?な一面をみせた阿部正精さんとそのお友達の青春編。

さて今回は・・・・その後のお話です。


365 大久保侯の機智、阿部候を驚かす(想古録1 P189)
※一部読みやすくしております

阿部侯或るとき大久保侯の弁当を開き、
ひそかに其飯を食尽くして素知らぬ顔して居られたり。


状況を説明いたしますと、阿部正精と大久保忠真は共にと登城日
だったのでしょう(大名は弁当持参)。
いつの頃かはわかりませんが、老中の同僚であった時代よりは
若い頃のお話かと思います。
とはいえ、立派に家督をついだ大人同士です。
ここは学校ではありません(笑)。
でも阿部侯は弁当の盗み食いをやらかしました!

すでにして時刻もはや正午となりければ、銘々弁当を取り出して食事しけるに
大久保侯の弁当は器のみにて正味なかりしかば、一座の人々
みな気の毒に思いけるに、(大久保)侯は左まで意に介する模様はなく、
「今朝少しく食し過ぎたれば、いまだ物欲しからず」とて平素の如く談笑し、
しばらくして何事か用向きありとて先に帰られぬ。


当たり前ではありますが、ランチタイムは今も昔も正午なのですね(笑)。
殿中席(大名が詰める部屋)が同じ人々はみんなで弁当を開けるようで、
なんだか微笑ましい光景であります。
・・・・・が、大久保の弁当だけ中身がカラ。周囲が気の毒がるのをよそに
本人は「朝食を多めにとってきたから、空腹ではない」と意に介さず、ランチトークを
楽しんでいた様子。

阿部候さもしたり顔に、今日こそ大久保を担いで、食物に事を欠かせやりけりと
喜び笑うて邸に帰り、近侍の士にこのことを誇りて話されけるに、
侍士は膝をたたいて感歎し、
「なるほどそれにて始めて会得したり、先刻大久保侯お立寄にて、
『時分になり、腹空きたれば湯漬けにても振舞われよ』とて、
たくさんに料理を召し上がられ、かつお供の衆までことのほか多量に
食用して帰られたれば、奇怪のことを考えおりしが、
これ正しく弁当の復讐に来られたるものに相違なし」
と云いたれば、
阿部候呆然自失して、「ああ我れ彼を担がんとしてかえって彼に担がれたり」
と大笑いにて笑われけるとなん。 (羽倉外記)



見事に弁当の復讐(笑)を果たした大久保侯、素敵です!

お互い友人同士だからできるお遊びですが、
なかなかに少年のこころを忘れない、面白い大人になった二人です(爆)。

情報の出所は前回と同じ、羽倉外記ですが、
前回の褒めちぎり話とうってかわったおバカ話・・・・その双方を
提供してくれる羽倉さんは素晴らしい☆
フツー褒めたらそこで終わりそうなものですが、
阿部&大久保のユーモアある一面も教えてくれております♪
(この正精お父さんに目に入れてもいたくない♪ほど愛された正弘君ですが、
彼にはどうしてこういうエピソードが伝わっていないのだろうっ。
きっとたくさんあるはずなのに~っ)

それにしても殿中席でのお弁当エピソードって、盗み食い以外でも
いろいろありそうですよね(笑)。

想古録、ぼちぼちではありますは、まだまだ続きます☆
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by aroe-happyq | 2008-10-15 11:19 | 幕臣系(老中など) | Comments(0)

正弘の父・正精の遊び方 @想古録 前編

想古録第二弾は、阿部伊勢守正弘の父、阿部正精の登場です。

正精も老中でしたが、どちらかというと福山藩の政策のほうで
手腕を発揮した人物でした。また西洋画も描く、たいそうな蘭癖だったとか。

そんな正精さんの若い頃の、お友達との遊び方についてのお話です。

743 閣老の卵、古今の異同 (想古録2 85P)

文政天保のころ閣老と為りて其政績を遺したる小田原侯、脇坂侯、阿部候
などが少年にして世子たりしときの交際遊戯は、今の諸藩の惰世子等とは
天淵の懸隔ありしと云へり


小田原侯とは小田原藩第7代藩主大久保忠真。
文政元年(1818)~天保8年(1837)まで老中職。川路聖謨や間宮林蔵を登用した。
また藩政改革を二宮尊徳を起用し断行したことでも有名。

脇坂侯は、播磨龍野藩第8代藩主脇坂安董。
外様系大名としては異例の抜擢で、寺社奉行、老中を歴任。
寺社奉行当時の大奥を巻き込んでの女犯事件で辣腕を振るったことで有名。

阿部候は福山藩第5代藩主、ご存知、阿部正精のこと。

・・・・・・「今の諸藩の惰世子」って
天保弘化嘉永の頃、世子だった人たちのことですよね??
ということは安政万延元治慶応の頃の幕閣の面々かぁ・・・・。
うーむ。思わず深く頷いてしまいます(笑)。
さて、続きとまいりましょう。

会遊のときは日を期して順次に各侯の邸に集会し、昼は文学又は政治のことなど
談論し、夜に入れば酒宴を張りて互ひに劇飲を誇りなどしけるが、
婦人じゃ近づけず、卑事を語らず、小姓中の年少者をして酌を執らしめ、
宴たけなわに酔熟するときは、或いは庭前の芝生に飛び下りて相撲を取り、
或いは池水の中に投込み合うて全身水に委し、淡白活発なることのみ為して
楽しまれしとぞ、


なんとまあストイック&クールな遊び方をする若者さんたちだこと!
昼は文学&政治談議、そして夜は劇飲

でも・・・・酔っぱらって相撲なんて・・・・余計に酔いが回るし、
そのたびに池にどぽーんとやったら、鯉やめだかが気の毒のような?(笑)
いやいやワイルドな青春でござる☆

素質此の如くなりければ、老いて要路に立つも一片の
気骨は依然として胸底に横たわり、我が執る所の意見は謂われなく
他人に蹂躙せられざれども、今の惰藩の惰世子等は其遊惰淫佚言語に
断えたるもの多ければ、今よりのちの執権者の施政は思いやられて浅ましきなり。
余の記憶するところに拠るも、世風の日に衰ふる証跡多きは憂きことと
謂わざる可らず  (羽倉外記)


今の惰藩の惰世子って、
「惰」の字がいっぱいです~~~~~っっ。
というより、こういう幕末の世子たちは、政治もロクに語らず、
そんなにエッチ話ばっかしどーでもな話で盛り上がっていたのですかね(涙)。
それじゃ黒船来なくても、幕府は滅びまさぁ~~~~。

ちなみにこの情報提供者、羽倉外記さんとは寛政2年~文久2年まで生きられた
羽倉簡堂という人。
儒者であり、幕府代官、勘定吟味役でありました。川路聖謨等と親しかったらしい。
嘉永2年には「海防私策」を献策。三宅島や大島などを巡察した経験もある。
想古録ではかなり頻繁に登場する、当時の事情通らしいです。

この羽倉さんがひたすら嘆く天保以降の世子どもの有様はさておき、
小田原侯、脇坂侯、阿部候などのわりとまじめな?世子たちは
こういう遊び方としていたようです。
これが彼らの息子たちに受け継がれたかは定かではありませんが、
できれば阿部伊勢守あたりには、そうあってほしいものです(笑)。
(世代的にはもろに惰藩の惰世子世代ですけども)

後編は、阿部正精たちの遊び【大人編】です(爆)。
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by aroe-happyq | 2008-10-08 11:13 | 幕臣系(老中など) | Comments(0)

立花種恭卿の肖像写真@東京横浜毎日新聞

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明治24年7月1日 毎日新聞附録 貴族院議 肖像付小伝コーナー より


当方ブログでは初期の頃から御世話になりっぱなしの
立花種恭氏。
この記事にはじまり、 日記の特集や、
そのほかも史料のなかでの偶然の再会が続きました。

そして、またもや再会してしまいました。
例の東京横浜毎日新聞紙上で(笑)。
しかもたまたまですが、永井さんの命日に。
ほかにはなんの収穫もなかった7月1日付新聞でしたが、
これをみつけたときには「ルネッサーンス!」な気分でした(爆)。

あんまりいつもお世話になっているので、
敬意を表しつつ、お顔にかかった余分な太い線を画像処理で消させていただきました。
(図書館で閲覧にしているときにはまったく目立たなかったフィルムのキズで、
一度線のない姿をみていたので、複写で上がってきたとき、
ちょっとショックだったのですっっ)

この肖像写真シリーズ、けっこうたくさんみかけたのですが、
基本的に公家の極端な長細い系と、薩長等の濃い系の顔ばかり。
立花サンのバランスのとれた、一瞬西洋の紙幣の肖像!?と見まごう程
のスッキリ顔に癒されました☆
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by aroe-happyq | 2008-07-10 11:12 | 幕臣系(老中など) | Comments(2)

閣老衆の遠馬

老中とは、激務であるということは以前にも紹介したことがありますが、
今回もまたそういうお話です。

江戸時代の武士には「遠馬」という軍事訓練がありました。
夜が明ける前に出発し、馬を乗り継ぎながら、鎌倉などを一日で往復するという
ちょっとハードなものでした。
大名となると供人などを連れて、盛大なものになるようですが、
だからといって途中の茶屋で美味しいものを食べたりもせず、
戦国時代さながら腰に兵狼袋をさげての道中です。

葛飾北斎が好んで描いた「早駆け」・・・・・・武士が2~3人連れ立って、
馬で駆け抜けていく姿・・・・・の絵がありますが、あのような感じだったのでは
ないでしょうか。

さて、先日紹介した、『父より慶喜殿へ 水戸斉昭一橋慶喜宛書簡集』(大庭邦彦著 集英社)
に、こんな手紙がありました(P141)。

安政2年3月21日付、慶喜宛斉昭書状

然る所拙老義ハ
昨日閣老一同出候義断申候所、・・・・・



この前後の書簡には、慶喜(19歳)が自分も遠馬をやりたいので
アドバイスを斉昭にいろいろ聞いたようで(慶喜からの手紙はない)、
斉昭がまたまた親バカぶりを発揮し、懇切丁寧に遠馬のうまく行なうあれこれを
したためていて(落馬しないように、お守りまで同封して(爆))、
で、その途中の話題として、
昨日、閣老衆(老中・若年寄)も鎌倉へ遠馬を行なった、という話がでてきたのです。
思わず「げ・・・・元気だ、阿部伊勢たち」と思わずつぶやきました。
阿部さんは37歳だからまだよいとして(でも肥えてますので馬はたいへん!)、
ほかの方々はそんなに若くないというのに、日頃の贅肉を落とすためにも?
こういう軍事訓練はやらなくてはならないのでしょうか・・・・(お疲れ様です)。

時代も政治体制も違うけど、すごく単純に例えるなら。
問責くらっている福田さんとその内閣のみなさんが、東京から鎌倉まで
「馬」でほぼノンストップで日帰り・・・・しているようなものですから(爆)、
そりゃたいへんだ(SPのみなさん含めですけど)ということです。

この時期、阿部伊勢守は安政の軍制改革をはじめるあたりですので、
デモンストレーションとして、必要な行事だったのかもしれません。
かつて、いかに自分がタフであるかを証明するため、
アメリカの大統領が、大統領専用機へとタラップを元気よく
駆け上がるのは当たり前・・・・といわれた時代がありましたが、
(ブッシュさんが自転車で転倒、歩いていて転倒・・・して以降は死語?)
武士の政権ですから、江戸の閣老衆も同じようにタフであること、
馬術に優れていることなどを世間にアピールしなくちゃいけなかったのでしょう。


知れば知るほど、老中・若年寄って、たいへんなお仕事です(汗)。


ちなみに。
その後、慶喜も無事に遠馬に成功しましたとさ(笑)。
(父親、大喜び・・・・(汗))
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by aroe-happyq | 2008-06-12 10:44 | 幕臣系(老中など) | Comments(2)

老中の朝はとんでもなく早くやってくる

ちょっと前に、順聖公伝説1のところで

私等は御供の方を致しましたから、その御出懸といえば
ヒドイものでありました。
その時分の御老中の筆頭は阿部候で始終阿部家へは朝御登城前に
いらっしゃる。そうすると御登城の時間になると阿部候はそのまま御登城に
なると、公(斉彬)は後に残って御居てのことが多うござりました。


という話がありました。
そこで、老中の面会について調べましたところ、
土屋千浩「江戸幕府老中の対客について」(『皇學館史学』19号 2004.3)
という論文に行き当たりました。たいへん詳しく調べておられて、
感謝しつつ、こちらの論文を参考に老中の対客を紹介したいと思います。

まず、老中の登城(出勤)時間ですが、
通常は四つ(午前10時)の太鼓を合図に屋敷を出て、
四つ半五分前(午前10時55分)に登城、となっていたようです。
(参考 松平秀治「江戸幕府老中の勤務実態について」『幕府制度史の研究』吉川弘文館)

午前11時まえに登城なんて・・・・優雅ね、というのが
よくある江戸ものエッセイなどで語られる老中話ですが、これがとんでもない誤解!

たとえば月番(当番)老中は登城前に対客を行なうことになっていたそうで、
「対客日」が設定されておりました。
3,5,7,11,13,18,21,23,25日
だいたい2日に1日弱の割りあいで、対客は行なわれておりました。
(非番老中は月に2日と定めておりました)

相手は基本的には大名ですが、坊主やその外もおります。

対面場所は小書院、対客間、勝手の三箇所などなど。
(↑相手の家格などで使い分けていた)

問題は対客の時刻であります。

七つ半すぎに開門し、六つ半時に終了

つまり、午前5時~午前7時だったりするわけです。

平時では20~40人の来訪があるようですが、
老中就任時には100人以上が押しかけていたよし。
(それでも六つ半時に締め切っていたようで・・・・・)

老中もたいへんですが、会いにくる大名のみなさんは
さらに道のり、身支度などを考えると夜明け前起床は当たり前???

>その御出懸といえばヒドイものでありました。

・・・・・・そりゃ、ひどい!と御供のみなさんへも同情させていただきます。
(しかも、この話でいけば、島津さんは六つ半以降も居残っていたので
御供も付き合わされていたはずですからっっ)


話を老中に戻します。
対客のあと、打ち合わせや執務(領主でもあるのでそちらのお仕事もあるはず)
などがあるので、登城は遅めなわけですね。
退勤は八つ~八つ半(午後2時~3時)ごろなので、
労働時間としてはそれほど長くはありません。
(幕末には午後3時以降でも老中が城に留まるのが多かったようで、
それより前に最終の函(上申する書類をここへ入れる)が廻ってきて、「もう帰る気か」
と切れた外国奉行もいたようデス(福地ですが)・・・・(笑))


月番は数ヶ月に一度やってくるのですが、なかなか老中もたいへんです。
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by aroe-happyq | 2008-03-18 10:48 | 幕臣系(老中など) | Comments(2)

立花出雲守種恭に関する史料【メモ】

年末年始に図書館から借りて『日本史籍協会叢書187 淀稲葉家文書』を読んで
おりました。

これは江戸最後のときにも老中を務めていた淀の稲葉正邦のメモ集・・・のようなもの。
個人的には、老中の手元に寄せられた、
慶応年間の江戸や京の情報をまとめた「探索書」が目当てでした(笑)。

と、そのなかで、またまた立花情報を発見。
『淀稲葉家文書』の274P-285Pにありました。

慶応3年7月ごろに老中に出された、立花出雲守家来庵原覚兵衛の願書です。
内容は二代前(でしたっけ(汗))に政変に巻き込まれて
領地を減らされたので、
増やしてもらえないか(もとに戻すということですね)、
ということを願うものでした。
しかし、老中の間では「六ツケ敷(むずかしい)」と判断され、結局は願いは
届けられなかったのですが、秋にいたるまで、根気強く、何度も願書が
提出された経緯がわかる史料です。

ちなみに、立花出雲守さんの日記にはこの件は登場しません(笑)。

当時、前の月の慶応3年6月より、
立花出雲守は若年寄と会計奉行も兼任していたので、
これだけ忠勤に努めているわけだし、・・・・ということで、
ちょっとチャレンジしてみたのでしょうか。

『藩史事典』の三池藩のところをみると、
旧三池藩領地のうち、9840石余がいまだ柳川藩の預かり地に
なっていたようです。
当時1万2000石ぐらいだった立花家にしてみれば、
旧領9840石は大きいです。


こういう願書ではお決まりの冒頭だとは思いますが、

出雲守勝手向従来困窮・・・・・・

と始まられると、やはり哀れを誘います。

最後のほうには立花家家譜まで添えてありました。
領地交渉への熱意を感じます。

でも・・・・秋すぎると、大政奉還などで忙しくなってしまい、
それどころではなくなってしまって、とても残念っっ。



以上、立花出雲守関連史料メモでした072.gif
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by aroe-happyq | 2008-01-07 10:35 | 幕臣系(老中など) | Comments(6)

藤岡屋日記15巻と立花出雲守

久しぶりに『藤岡屋日記』15巻(抜粋コピー)を眺めていて、慶喜さんネタなど
ひろってしまったわけですが(3回も続いてしまった)、
もうひとり、気になる人物が!

その名は、若年寄・立花出雲守。

立花サンには日記でさんざんお世話になってまいりましたが、
慶応3~4年部分の『藤岡屋日記』をみていると、日々の登場回数が多いことに
気が付きました。

たとえば、

○七月二十二日
一 立花出雲守・平岡丹波守不快ニ付、今日登城無之。



○八月六日
一 立花出雲守快、今日登城。


とこんな感じ。

日々の老中、若年寄の出欠席が克明に綴られているあたりは、
さすが藤岡屋さん!(こまめに情報を売りにくる役人がいたわけですが)
ですが、
立花サンが目立つのは、「不快」が多いからなのです(涙)。


体調がすぐれないのに、外国掛なんて仕事が増えているし・・・・・。


とここで、はたと気がつきました。
『藤岡屋日記』を読んていた頃はまだ立花サンのこと、よく知らなかったので、
ちゃんとチェックしていなかった・・・・・・。
立花さんが華麗にご活躍だった15巻以前も読み直したほうがよいかも、
なんて思いました。
なにかそこで発見できましたら、レポいたしますーー。


立花出雲守について当ブログでは、ひきつづき注目してまいります☆
談話といい、日記といい、本当にたくさんの当時のことを記録してくださった大恩人で、
大名だというのに、直参の榎本釜次郎や矢田堀鴻と、徳川の行く末を思って
泣いてくれた、熱くて、優しい方なのですから♪
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by aroe-happyq | 2007-11-10 10:11 | 幕臣系(老中など) | Comments(2)

保命酒と阿部正弘

保命酒(ほうめいしゅ)というのは、何種類もの生薬(高麗人参や桂皮などなど)を酒に
漬け込んで作る江戸時代の薬酒です。

江戸前期からあったようですが、江戸での記録(日記など)で頻繁に登場するのは後期になってから。先日紹介しました『慊堂日暦』でも飲まれておりました。
さらにペリーへの饗応に始まり、『幕末外国関係文書』にみるかぎり、ロシア、オランダ、
イギリス・・・・とにかく日本側が接待するとき、または日本側が彼らに贈る品のなかに
かならず、保命酒が入っているのが、とんでもなく気になっておりました。
もちろん饗応された外国人に「ウマイ♪」とたいへん好評だったというのが大きいわけですが、
しかしこの強力なるPUSH効果は・・・・・?と疑念を抱いていたところ・・・。

保命酒って、阿部正弘さんのお膝元、
福山藩特産だったのでした。


老中筆頭のセールスならば、そりゃ、もう!!!(笑)
そしてちょっと調べたところ、マジで・・・阿部さんが老中になってから、
将軍献上品、禁裏献上品などなどめざましいブランド化が始まっており、
人生のなかでわずか数ヶ月しか滞在したことのない福山への阿部さんなりの愛と
商魂がみえて、たいへんほほえましく感じてしまいました。
おそらく大名の友人にも、保命酒といえば阿部伊勢、阿部伊勢といえば保命酒
といわれるぐらい、(宣伝のために)プレゼントしまくったかもしれません。
(ちなみに福山は清酒も美味しいらしいです。川路聖謨の『長崎日記』に赴任途中に
福山に寄ったら、美味しいお酒を贈られておりました)


なんとなく気になったので、新宿にある広島のアンテナショップに見にいったら、
保命酒がありまして!!!
お試しサイズがあったので、ついついゲットしてしまいました!


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十六味保命酒  300ml  700円也。


食前に御猪口1~2杯、ということで規定どおり(笑)に飲んでみました。

とっても甘いお酒でした☆冷やして飲むとさらに美味しい感じ!

そして薬酒だけあって、まずは高麗人参の香りがして・・・・ほかの生薬のかおりも
なかなか良い感じです。
(元気になりそうな香り、とでもいいましょうか♪)

効能を読むと、夏バテに効く、また冬は暖かくして飲むと血行促進によいみたいです。
お酒に附いてきた解説によると、頼山陽も愛飲していたよし(笑)。慊堂先生といい、
文人業界にも大人気だったようです(江戸後期には一般でもよく飲まれていたようですが)。

・・・・・というわけで、外国文書によく出てくる、保命酒を愉しんでみました☆
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by aroe-happyq | 2007-08-30 10:26 | 幕臣系(老中など) | Comments(2)

阿部伊勢守正弘の御命日 IN谷中霊園

本日は旧暦にすると6月17日・・・・・・・・・・・。
厳密に計算すると先週の金曜日という噂もありますが、
普通のカレンダーにある旧暦の本日に、阿部正弘さんの命日にかこつけて
きりゅうさんと谷中霊園にいってまいりました♪

だけど・・・・・・・。

・・・・途中、マジで遭難するかと思いました(涙)!

それほど谷中霊園は大きい・・・・・・!!!

ちゃんと調べていったはずが、谷中霊園のなかなのに、寛永寺の敷地にあるという
複雑な事情で場所がわからないしくみになっております。

そういうわけで「わたしも阿部さまにご挨拶したい」という人は
まずは谷中霊園事務所にいって案内図をもらったり、臆することなく、
事務所の方にどこにあるんですか??と尋ねてから行くことをおススメします。

最初、自力で探そうとした私たちは目の前に目的地を見ながら、
「ここじゃないねー」と立ち去るという恐ろしいミスを仕出かしました(爆笑)。

いったんは諦めかけたわれらクルー(って2人)ですが)、
事務所に救助を求めたところ(笑)、
親切にも事務所の方が案内してくださいました~~~~(他力本願・・・)。

「最近阿部家の墓地を尋ねてくる人が多いよ」

以上はソラミミではありません。
事務所の方が教えてくださった言葉です。

・・・・・・なんで、かはわかりませんが、

阿部正弘、なんか↑きてます??

パチパチパチ!!!

・・・・・・・・・でもなんの立て看板もありませんけどーーーーーーーーーーー。


阿部家のいくつかの墓石を
「6月17日に39才でなくなった伊勢守」という情報を頼りに
探し回ったら、とうとうみつけつことができました。
(案内くださった方はそこまではご存知ないのです→明日からはわかりません)

とりあえず、たどり着けたわれら一行は2度目のアタックで登頂できました!!!!
(挨拶もそこそこに、おもわずガッツポーズしてしまいましたです。
伊勢守、ごめんなさい)



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ここは立ち入ることのできる区域(乙11-1渋沢は×)ですが、
礼節を守って(わたしのようにガッツポーズなどもってのほか!)気持ちよくご挨拶しましょう!


ついでに、

徳川慶喜にもご挨拶・・・・・・・・・・。

そして、もうひとつの目的(そう阿部さんの次にという意味)、
高松凌雲先生にもご挨拶してまいりました。
※高松先生は乙5-2ですが、この5-2・・・二箇所あるのでご注意!
 慶喜に遠いほうの乙5-2に先生はおられます。


今回、写真は載せませんでしたが、見たい!という方は
個人的に連絡くださいませ(笑)。

・・・・・実はまだまだついで、があるのですがそれはまた明日!
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by aroe-happyq | 2007-07-30 20:48 | 幕臣系(老中など) | Comments(6)