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東都アロエ

カテゴリ:お宅探訪シリーズ( 28 )

築地シリーズの最後は、木挽町の堀織部正・・・・いいえ、
その父堀伊豆守邸(笑)でございます。

母親同士が姉妹という間柄の、
岩瀬忠震の屋敷からは歩いて7~8分のところにあります。


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堀織部正も「部屋住み」のまま生涯を終えているので、
この屋敷の名義はその父、堀伊豆守利堅から、
文久2年7月に利堅が病気そのうえ老衰のため御役御免を願い出た日に
家督をついだ織部正の子利孟の名義になりました。

堀伊豆守利堅で忘れられないのは、
〈大塩平八郎にあやうく爆殺されるところだった事件〉です。
天保7年に大阪町奉行になった利堅さん、ほどなく大阪へ到着しました。
そして新任町奉行として、大阪の町を初巡回する日に、
大塩一派によって、町にしかけられていた爆薬によってあやうく殺害・・・・という
恐ろしい計画がたてられていたとか。
(痛快時代劇ドラマみたいな話ですが、実際に起りえたというあたりがスゴイ)
計画は大塩の一党のなかから町奉行所へ密告があり、未然に発覚。
大塩一派は奉行所に追手をかけられて・・・ご存知大塩平八郎の乱の顛末となります。
まだ着任早々の大阪で、堀伊豆守はさぞかし驚いたことでしょう。
(と、この話を江戸で聞かされた、若き織部はどんな反応をしたでしょうか。
もうこの頃には「父親に見放されていた」程グレていた時期は過ぎ、学問所で
学んでいた頃だと思うのですが、熱い性格はあいかわらずだと思うので
かなり興味があります(笑))

堀織部正についてはもういろいろな記事で紹介してまいりましたので、
その子の利孟についてなにか・・・と思いましたが、
今のところ、史料不足でとくに逸話もございません(汗)。
ただひとつ、気になる経歴としては、
文久3年1月、目付だった利孟は「浪士取扱懸」を命じられておりますことです(笑)。
どのあたりまで関与したのか、いずれ調べてみたいところです☆
この利孟は、幕末最末期の混乱のなか、紆余曲折を経ながらも、
慶応4年4月まできちんと役目を全うしました。
実の父親の突然の死を乗り越えて、よくがんばったと思います☆


さて、堀屋敷跡とおぼしき建設中のビルの角を歩いておりましたら、
なぜか横断歩道の下に「汐留遺跡」なるものを発見しました。

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汐留の江戸時代の上屋敷・・・・・?
かつて汐留に高層ビル群が出来る前、JR汐留貨物基地跡地では
長いあいだ、広大な伊達藩屋敷跡の発掘調査がおこなわれておりましたが、
これはそのあたりのものなのでしょうか。

それにしてもなぜ、こんなさみしいところにポツリと置かれているのか。
あいもかわらず、遺跡、史跡を大切にしない東京砂漠でございますこと(涙)。
よよ・・・嘆かわしい・・・・・。

しかもなぜここに?(笑)。
by aroe-happyq | 2008-10-02 18:59 | お宅探訪シリーズ | Comments(13)

築地といえば、外せないのが築地軍艦操練所です!
昨年、船のほうからこの跡地をみて満足してしまい、
地上からの訪問が今年になってしまいましたが、
幕府(徳川)海軍ファンとしては、ここは長崎伝習所につづく、第二の聖地です♪

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安政4年3月に長崎海軍伝習所から第一期生が軍艦観光に乗って江戸に戻って
きました。一期総監の永井玄蕃頭は帰府の報告とともに、江戸の近くに一期生の
優秀な稽古人を教授方にして日本人だけで行なう海軍伝習所の設置を上申しました。
一年と少し学んだだけの教授方というのは、実に心もとないのですが、
この当時はまだ外国人教授を迎えておこなう江戸近郊での伝習は不可能だったので、
こうするよりほかなかったわけです。同様の理由で、製鉄所(造船所)の建設も
江戸近郊ではなく長崎に置かれることになりました。
当時は永井を信頼している阿部伊勢守正弘がまだ存命中で、伝習所計画はわりと
早く進んだようですが、しかし長崎の自由な暮らしが長かった永井にとっては
柳営の決定プロセスのゆるさ、勘定方との悶着は耐え難かったようで。
しきりに長崎の勝麟太郎に愚痴手紙を出しております(笑)。
途中で阿部正弘が亡くなってしまったため、多少遅れましたが、
伝習所の場所は築地の堀田正睦中屋敷跡地におかれていた講武所内に決まり、
7月には開所できたもようです。

↑軍艦操練所の看板には、開所に奔走した永井のなの字もなくて、またもや勝さんか!
みたいなものがありますが(そもそも初期教授方頭取は矢田堀景蔵ですもの)、
こういう扱いにはすっかりなれてしまい、日陰の男永井玄蕃頭には心のなかで
敬礼させていただきました。

この看板にもありましたが、この築地軍艦操練所はもとは講武所ですが、
その前は堀田正睦の中屋敷です。
場所は、ちょうど今の築地市場の一部あたりに相当します。
ウォーターフロントということで、景観もよく、庭園もとても整備されていたようです。
堀田老中と親しかった川路聖謨の日記にも登場します。
『川路聖謨文書』6に収録の「浪花日記」によると、嘉永4年(1851)に、
堀田さんに築地の中屋敷に招かれ、一緒に池で釣りをしたそうです。
しかし江戸の大名・旗本は御公儀のひとことで強制屋敷替えという宿命がありました。
講武所開設のおり、堀田は手塩にかけた庭園ともあっけなく別れることに
なったわけです。川路聖謨が『遺書』という子孫への教訓エッセイで、
「屋敷には金をかけるな。最小限にしておくように」と書いているのも、
彼自身、勘定奉行に出世して嬉しさのあまり、もらった屋敷を大金をかけて大改築した
のに、あっけなく屋敷替えとなった・・・・というしょっぱい経験がありました(笑)。
堀田公もまた同じ経験をしたわけです。

しかしその後、軍艦操練所は火事にあったこともあり、
となりの御浜御殿に移転し、名も海軍所と改まりました。
今度は代々御浜奉行をつとめてきた木村家に衝撃が走りました。
将軍のお庭として、また農業試験場としても大切に管理してきた浜御殿が
海軍の役所になってしまうのですから(笑)。
浜御殿についてはいずれまた別の機会に♪

そういえば、軍艦操練所の跡地の話もいたしませんと☆
こちらの跡地は外国人居留地となりました。
幕末最後の頃には、その一角に勘定奉行小栗忠順が立案し、
アメリカ人のR・P・ブリジェンスが設計、清水喜助が建設した
和洋折衷の二階建ての、築地ホテルが建っていたそうです。
西洋式バルコニーと、和風のうろこ壁は名物だったよし。

この軍艦操練所、今ではすっかり観光地???でもある
築地市場にあります。
市場のなかには一般の人は入れませんが、
場外市場という目くるめく世界がどーんとあります☆

そこはもう、わたしの愛するマグロの王国♪♪

思わず、懐かしのマグロの角煮をみつけて、衝動買い!
(この甘からの味付け・・・たまりません☆美味いです)
なんだかマグロブームですけど、
大トロなんかの必要はないのです、マグロはうまい赤身で十分です。
(ここのマグロ丼は観光地ゆえか、意外に高いような気がしましたがね)
いろいろみていたら、くさや、畳いわしまで発見!!!
・・・・・・昔と比べて高級品になつておりました(涙)。
(毎晩のように食卓に並んでいた庶民の味が、このようになってしまい哀しい)

行ったらはまる!と警戒して近寄らなかった築地市場ですが、
やっぱりはまってしまいました。
いろいろなものが安くて、美味しい!

なんだか思わず散財してしまいました。
どーしてくれるんだ、堀田さん&軍艦操練所!(笑)
by aroe-happyq | 2008-10-01 11:51 | お宅探訪シリーズ | Comments(2)

岩瀬邸からはじまった築地シリーズ第二弾は、
江戸の当時、岩瀬邸から目と鼻の先にあった、桂川甫周邸です。

桂川家は6代将軍家宣の侍医となって以来、代々の将軍家の蘭医となりました。
初代の桂川邦教については、こちらへ。

桂川家の幕末の様子については、今川みね『名ごりの夢』(平凡社東洋文庫)に詳しく
書かれております。
以前、木村摂津守の訪問の様子について記事にしたことがあります。
その記事→こちら
貴重な武家の訪問の挨拶の記録です☆

さて、この桂川家にはちゃんと看板がありました。

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場所もわかりやすいです♪




↓桂川邸の看板の古地図を拡大してみました。

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『名ごりの夢』には「おこうやく」という話があります。
桂川家では年に2回ほど、上様御用の御膏薬をつくるのだそうです。
屋敷の大門のところで、大きな釜で牛油や椰子油、松脂、乳香などを
グツグツと煮込むので、ものすごくクサイ。
近所の屋敷にもみな、臭っていたはずですが、公方様の薬ということで
誰もクレームなどいってこなかったそうです(笑)。
この距離なら、おそらく岩瀬家でも「おっ、恒例のお薬を調合しているな」
といいつつ、そっと鼻をつまんだことでしょう。

さて桂川家といえば、触れなくてはならないのは諭吉のことででしょうか(笑)。
彼がラッキーだったのは、この家に出入りしていたことです。
桂川甫周の奥方は、御浜奉行の木村又助の娘くにという人でありました。
(将軍家慶があくまで私的に・・・・二人の仲人をつとめました(笑))
つまり、このくには木村摂津守喜穀の姉というわけで。
木村摂津守が咸臨丸でアメリカへ渡るとき、
アメリカに行きたがっていた福澤諭吉の願いを聞き入れ、
桂川甫周が「一行に加えてやってくれ」と、摂津守に頼み込んだそうです。
(甫周センセ、余計なことを・・・なんて思うアンチ諭吉派なワタシです(爆))

桂川家というと、甫周の父の甫賢さんがまた面白い人物なのですが、
長くなるので別の機会に(笑)。
by aroe-happyq | 2008-09-30 19:07 | お宅探訪シリーズ | Comments(3)

満を持して、岩瀬邸の登場です。
なぜ15回まで遅れたかというと、いつでもいける築地、でもそう思っていると
なかなか行かない築地だったりしたからです(笑)。
夏に歌舞伎座にいったおりにでも寄ろうと思っていてすっかり忘れていたり(笑)。

そもそも岩瀬邸跡地が、いまいちモチベーションがあがらない場所だったり
するのです。看板もたてられないし、おちおちゆっくり偲んでもいられない。
なぜならそこは、

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京橋郵便局前の道路のまんなかなのですから~~~~~(涙)





戸川邸に続く、道路派旗本第二弾です!(笑)

さて、岩瀬邸といえば、やはり岩瀬忠震でしょう!といいたいところですが、
この人もまた部屋住みなので、この屋敷の名義人は義父の岩瀬市兵衛忠正さんです。
永井といい、堀といい、戸川といい、みんなこのクチでございますけど、
いささかややこしい。

岩瀬家800石は三河以来の直参旗本でしたが、義父の岩瀬市兵衛忠正は
とくに取り立てて特技があることもなく、書院番士→書院番組頭→先手組弓頭
とコツコツ人生を歩んだ人でした。
そのため、同じく三河直参設楽家から、
林大学頭の孫にもあたる頭脳明晰の篤三郎(忠震の幼名)が婿入りして、
すっかり頼りにしたそうで。
このパターンて、川路家における義父と聖謨の関係によくにておりますが、
川路のオヤジ様のように、養子にきてまもない聖謨14歳にさっさと家督を譲って
悠々自適な生活をおくる・・・・・というような、タイプではなく、
岩瀬市兵衛忠正は自分の上司に昇進してしまった婿さんとも
一緒にせっせと登城していったそうです。勤勉なお父上なのでした。

岩瀬忠震と市兵衛の娘(名前不明)との間には男3人(2人は夭折)、
女4~5人(このほか後妻もしくは側室に1人生まれているけれど)、
・・・・堀織部にまけない子だくさん家族で、忠震をはじめ、市兵衛もたいへん
明るく愉快な性格だったため、岩瀬家は笑いの絶えない一家だったようです。

岩瀬家、および忠震については井伊家の探索書(スパイ報告)の記事で
紹介しております。
岩瀬家に少しでも興味が湧きましたら、ぜひ読んでくださいね!
その1とか、その2その3など。
いろいろと味のある岩瀬家であります☆

文久元年6月13日に忠震の忰の忠斌君(16才)がはやり病?で急死すると、
もともと病を得ていた忠震(当時は隠居して鴎所と名乗っていた)44才は、
その知らせをきくと、重篤に陥り、7月11日に向島で亡くなった。
で、婿と孫に相次いで先立たれた忠正(68才)もまた、9月28日に後を追うように
鬼籍にはいった。これだけみても、岩瀬家ファミリーがどれほど仲がよかったかが
わかるような気がします。
(この後、忠震の友人木村摂津守の骨折りで、岩瀬家に養子を立てますが
その人が若いまま歿してしまうと、なぜか岩瀬家はそのまま滅んでしまいました)

今は道路のまんなかに、150年ほど前、
基本的には800石なので、それほど大きな屋敷ではありませんが、
ここにはそんな旗本家族が住んでおりました。
by aroe-happyq | 2008-09-29 19:24 | お宅探訪シリーズ | Comments(4)

阿部正弘さんというと、老中在任中に住んでいた辰の口屋敷が有名です。
(老中・若年寄が屋敷を与えられている大名小路の官邸)

今回は阿部正弘が6歳から25歳まで住んでいた、
小川淡路町の屋敷のほうを探訪してまいりました。

年譜(『阿部正弘事蹟』)を確認すると。

文政2年(1819) 正弘、江戸西丸下官邸に生まれる。

文政6年(1833) 阿部正精(正弘の父)老中を辞す。
            西丸下官邸を環納し、小川町邸を給せらる(11月)。
   7年(1834) 正弘6歳、正月、父に従いて小川町邸に移る。

天保14年(1843) 正弘、老中に列せらる。
             辰口官邸(堀田邸)を給せられ、小川町邸の納付を命ぜらる。

とあるように、正弘の引越し歴は官邸→小川町屋敷→官邸が基本でした。
(このほか、火事や災害で一時避難して住んだ屋敷もありますが)
官邸とは違った小川町邸は、阿部伊勢さんにとって、
とても思い出深い屋敷ではなかったのではないでしょうか。


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いきなりですが、ここは淡路広場です。

ここが阿部家屋敷のほぼど真ん中であります。

広場に「淡路町二丁目」の由来についての説明版があったので、
これを目印に行ってみてくださいね!

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現在地については、↓を参照ください。

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この酒井修理大夫屋敷の前が阿部邸でした(その後もまた阿部邸になったらしい)。
大名も旗本も引越し多いです・・・・。


古地図をみると、阿部邸の横の道は坂になっていて、
「幽霊坂」という名前だったのですが、この坂現存しておりました。

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この坂と淡路広場・・・・それなりに距離があります。
阿部邸の大きさがよーくわかりました(笑)。

さて、この場を借りて阿部正弘の知り方、についておさらいをしたいと思います。

接ブログへお越しの方々の検索ワードでも上位ランクインしている阿部伊勢守、
ということで恐らく阿部さんをもっと知りたい方もこの記事をご覧になって
いらっしゃるはず!
いままでちょこちょこ書いてきたのですが、まとめてみました。

いちばんの近道は『阿部正弘事蹟』を読む!これにつきます♪
いろいろな巷説本の本ネタの99%はこの本からの引用だと
申上げても過言ではありません!
が!!!・・・・・買うと目が飛び出るほど高い本なのです(涙)。

そこで便利なのが国会図書館の近代デジタルライブラリー
阿部正弘事蹟もしくは阿部正弘と入力するだけで、
今では全文が公開されておりますので、ここでじっくり読めます☆

この『阿部正弘事蹟』には正弘氏の個人的エピソードもたくさん収録されておりますので、
功績だけではなく、その人間像も垣間見られるかと思います。

活字だけではなくビジュアルを楽しみたいという場合には、

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広島県立歴史博物館の発行した図録『阿部正弘と日米和親条約』→
がおススメです。

正弘は父の正精のように絵画(洋画まで!)好きというわけでもないので、
直筆の「字」ぐらいしか作品はありませんが、それを眺めても楽しそう♪という
ファン道まっしぐらの方には必須の図録です(笑)。
古本屋さんまたは、
こちら博物館のサイト、
ミュージアムショップの「その他の商品/企画展示図録」をクリックして、
購入方法を確認してみてくださいまし。

最後に口直し?に、阿部邸の近所の有名な坂をもうひとつ。

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・・・・・ここらあたりも坂が多いです・・・・。
by aroe-happyq | 2008-07-28 14:50 | お宅探訪シリーズ | Comments(2)

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今では道路の真ん中・・・・・です(笑)。
かつては小川町雉子橋通とよばれた一帯です。



戸川って誰?・・・・・というくらい現代では知られておりませんが、
戸川中務少輔安鎮という人のお屋敷です。

正確にはこの人は部屋住のまま亡くなったので、
名義は父親の戸川播磨守屋敷、となっております。

これまでもなにかのついでに紹介してきた戸川安鎮でしたが、
今回は多少以前の重複もありつつ、まとめて紹介したいと思います。

安積艮斎の門人で、たいそうな切れ者だったそうですが、
慢性の持病(脚気との噂)があって、才能を活かしきれなかった人です。

文政8年(1825) 西丸書院番から小納戸へ
天保3年(1832)西丸目付
天保8年(1837) 本丸目付
天保10年(1839) ニ丸御留守居
弘化2年(1845) 西丸目付
弘化3年(1846)本丸目付 海防掛 勝手掛
嘉永6年(1853) 6月 海防掛辞
嘉永7年(1854)5月 辞

(小川恭一著『寛政譜以降旗本家百科事典』より 少々付け加え有)

本丸目付→ニ丸御留守居のときは、
病気が悪化して一時期、仕事を休んでいたのですが、
彼の才能を惜しむ、阿部伊勢守がちょっと強引に
激職の本丸目付復帰、それどころか、海防掛に
勝手掛・・・つまり目付筆頭(首座)にしてしまいました。
その後、鵜殿甚左衛門が首座になるまでの数年間、
目付衆を仕切っておりました。

「嘉永6年(1853) 6月 海防掛辞」というのは、
そうです、あのペリー来航の最中でした。

『藤岡屋日記』5巻、P477には、
6月8日に御目付堀織部が急に浦賀附近へ見分にいくように
命じられておりますが、その横に

但、昨夜七日、戸川中務少輔江被仰付候処、急病ニ而歩行不叶(かなわず)
右ニ付代り被仰付之。


戸川が急病で歩行さえ困難ということで、堀が代役で行くことが
書かれております。
このすぐ後、海防掛を辞めております。

この件については『川路聖謨文書』6の「房総海岸巡見日記」にも

廿八日 ○戸川中書脚気不宜(よろしからず)其上吐血也。
       この人難得(えがたき)人物に付
       左衛門尉(川路のこと)殊之外に心配いたす


と川路聖謨も出張日記の最後で触れております。
戸川は脚気のうえ吐血したとのことで、本来なら目付そのものを
辞めて治療に専念したかったのかもしれませんが、
「難得(えがたき)人物」ということで、辞職はさせてもらえなかったようです。
実はこうしたなか、自分の代わりにと阿部伊勢守に推薦していたのが、
堀織部、永井尚志、岩瀬忠震でした(『江戸』5巻 木村芥舟「燭籥記」)。

御目付というのは選ばれる際、目付衆内で入れ札によって候補者を絞るので
戸川のような目付キャリアが推薦すれば大抜擢も可能でした。
・・・・・つまり、この3人のファンとしては戸川安鎮は恩人のなかの恩人(笑)
なのです☆

しかしこうして若い目付を入れても、辞めさせてもらえなかったようで(汗)、
ペリーとの和親条約のときも病身をおして、激務をこなしていたようです。

木村芥舟の「燭籥記」には、

当時海防の議、大に起り鋳砲製艦諸工事輻湊し日夜奔走督責して
安眠するの暇なきにより宿痾まさに大に発して終に起□□
人皆之を惜しめり


・・・・・今でいう過労死でございます。
嘉永7年(1854)5月に辞職して、その年の秋には亡くなられたよし。

ところで、戸川安鎮は木村芥舟家と親しく、
ことにかなり上級の刀剣マニア同士・・・・・趣味の友人だったようです。

『横浜開港資料館紀要』11号「幕臣木村喜穀あて書簡」のなかに、
戸川安鎮から木村喜彦宛書簡が収録されております。
木村喜彦とは木村芥舟(喜穀)の父。御浜奉行をやっていた人です。
書簡の内容も、ひたすらに刀の話。なんだか虎徹の話題も出てきます(笑)。
(この書簡だけ読んだら、戸川安鎮はとんでもない刀好きの道楽旗本
だと思われてしまうかも・・・です)


最後に、新参目付の頃、世話になったはずの永井尚志による戸川評です。

目付役之首坐ニ居、性質正直ニ而、人才登庸を重んし、目付役ニ者適当之人物、
中年ニ而死去致候て、可惜事也。


(河内八郎「伊達宗城とその周辺ー続ー岩瀬忠震・永井尚志ほか」 『人文学科論集』
23号 1990.3)
この書簡について詳しくはこちらへ

どうも目付という仕事は「性質正直」な人が適任のようです。
鵜殿も、堀も、永井も、岩瀬も、木村も、みんなまっすぐな人ばかり(笑)。
書類を懐中に入れてはならない、手に持て!というような公明正大さを
求められる職場だけに、それは当たり前のことなのかもしれませんが。
・・・裏工作好きな鳥居甲斐守のようなタイプは×ですね。

川路や木村、永井が惜しむように、
戸川安鎮がもしも健康な人だったら、ひょっとしたら幕末の柳営も
少し違っていたかもしれません。
世間的には無名な戸川は史料もすくなく、実態を捉えることが
できそうもありませんが、それでもなぜかファンの幕臣のひとりなのです。
(私の場合、贔屓の幕臣が多すぎる・・・・・・んですけどね)
by aroe-happyq | 2008-07-26 11:39 | お宅探訪シリーズ | Comments(0)

つい先日は、日本橋の永井邸を探訪しましたが、
基本的には義父の能登守尚徳邸である時期が長かったわけでして、
今回のこちらこそ、正真正銘の永井玄蕃頭尚志邸です。
このあたり、当時は小川町御台所町と称しました。
近くには講武所、のちには新徴組屯所、歩兵屯所などもできるエリアです。

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安政4年12月、永井が勘定奉行勝手掛になったおり、
拝領した屋敷がココです。
勘定奉行勝手掛といえば、旗本では最高位。
さすがに義父のもとで部屋住み生活では仕事に支障があるだろうとの、
閣老(当時の老中首座は堀田備中守)の配慮かと思われます。
(とはいえ、家督を相続していないのに、独立というもの珍しい)

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おおよそこのあたりのようです。



この屋敷といえば、忘れてはならないのは、
オランダ使節ドゥンケル・クルチウス(出島商館長、のち領事)が
江戸へやってきた折、訪問していることです。
こうした外国人の私邸訪問は、この当時、老中邸以外ではけっこう珍しい。
永井は3年弱、在勤目付または長崎海軍伝習所総監(惣取締)として
長崎に滞在し、出島のクルチウス氏とはとくに親しかったということがあったし、
彼が天性の社交家だったことが大きいとは思いますが、
おそらく12月に拝領がきまり、すぐにいわゆるリフォームをして、
翌年の春ごろのクルチウス訪問時にはピカピカだったので、
ちょうど都合がよかった(笑)ともいえます。

クルチウス訪問時には永井邸附近には見物人がひしめき、
なかなかの騒ぎだったようです。(@外国関係文書)

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なぜか永井邸というと、目の前に高速道路・・・・・・・がツキモノです(笑)。
この道路の下には日本橋川があり、神田川へと繋がっております。
江戸初期には堀があったようですが、永井邸のあった江戸後期には
埋め立てられていたとか。それを昭和になって再び掘り起こしたそうです。

永井玄蕃頭はこの小川邸でオランダ使節を迎えるなど華麗な日々を
送っておりましたが、安政6年6月、突然屋敷からの退去を命じられます。
理由はここに蕃書調所を移転する、というものでしたが、
永井さん、なんとホームレス・・・・・・(笑)。
永井能登守屋敷は、まさか婿養子が出戻ってくるとは思わず、
こちらも改築してしまったようで。
それでも結局、永井玄蕃頭と妻子は能登守邸に戻ることになりました。
わずか1年6ヶ月の小川町生活でありました。

それから数ヶ月後、8月に永井尚志にはお役御免、永蟄居の処分が下ります。
いよいよ安政の大獄の本格化でありました。

ちなみに永井玄蕃頭邸は蕃所調所を経て、
万延元年の遣米使節・新見豊前守正興邸となりました。
後に住んだ人が、
永井が行くはずだった(辞令もでて、随行員選定も行なってました)遣米使節
というのもなんともほろ苦いお話でございます。
by aroe-happyq | 2008-06-05 11:31 | お宅探訪シリーズ | Comments(0)

浜町シリーズの最終回は、矢田堀讃岐守鴻(景蔵)屋敷です。


水天宮のすぐそばです☆


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ここの道を少しはいったあたり、ということです。


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おおよそですが、ちょうどこちらの建設中のビル&木造家屋あたりが
矢田堀屋敷の中心です。


うちのブログでは何度も矢田堀さんには登場してもらっているので、
あらためて説明はいらないかと思いますが、
徳川海軍の中核であり続けた人です。


ちょうど植松三十里さんの『群青』を読んでいる最中なので、
(この小説の矢田堀さんは、本当にかっこいいです!!!)
なんとなくこのあたりを歩くのはやや萌え萌えな感じで(笑)、
格別楽しかったです♪



さてさて。堀田&永井邸のような近さではありませんが、
築地操練所責任者の永井玄蕃頭と、操練所教授方頭取の矢田堀景蔵の屋敷は
当時の区画で迂回することを考慮に入れても、5~6分で行き来できそうな距離でした(笑)。
徳川海軍幹部たちも、用事があって二軒をはしごするときにけっこう便利♪です。
by aroe-happyq | 2008-05-18 10:26 | お宅探訪シリーズ | Comments(0)

浜町シリーズ二番目は、堀田備中守正睦の屋敷です。

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ものすごく大雑把に申しますと、
9回永井邸の、水路越えてナナメお隣です(笑)。

写真の高速道路を水路だと思っていただければ、わかりやすい????



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このあたり一体どーんと堀田邸です。

といっても、老中になってからは江戸城下の大名小路に引っ越すので、
こちらは堀田正篤時代の頃のお屋敷です。
改名したのは、「篤」の字でお察しかと思いますが、
あの大河ヒロインが御台所になるにしたがって、遠慮して「睦」に換えました。

堀田正篤は「蘭癖」といわれるほど、西洋に関心をもったので
洋学派のみなさんとたいへん親しくお付き合いしておりました。
学者たちはもちろんですが、川路聖謨とも交流していたり・・・・・。
(川路の「浪花日記」にも、築地の下屋敷の大きな池で一緒に釣りを
しながら午後を過ごした、とありました)
また佐藤泰然を藩医にして、領内の佐倉に「順天堂」をたて、
その子の松本良順の長崎遊学の際も尽力しました。

同じ溜間詰の井伊直弼とも、わりと親しかったとする話もあります。

長崎伝習中の勝麟太郎が、堀田が老中首座になったと聞いて、
たいへん喜んだという、まさに洋学派の希望の星ではありましたが、
朝廷工作に失敗し、あっけなく罷免・・・・。
たいへんもったいないこととなりました(涙)。




永井玄蕃頭とこんなにご近所とは・・・驚きでした。
現代なら1分、当時の掘などを考えて迂回しても、
行き来にかかる時間はだいたい、2分・・・・・です(笑)。
by aroe-happyq | 2008-05-18 09:48 | お宅探訪シリーズ | Comments(0)

久々の「探訪シリーズ」です。
今回は日本橋浜町附近に出没しました(笑)。

トップバッターは、永井能登守尚徳邸です。
・・・・・・玄蕃頭尚志邸といいたいところですが、文久二年まで
部屋住み(途中、別宅を構えるも、あっと言う間に出戻った)なので、
義父の能登守邸とするべきでしょう☆

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だいたいこの附近と思われます。

実をいうと、この旗本永井家は岐阜加納3万2千石永井家の分家。
二代目藩主永井直敬の子の永井尚方が正徳元年に立てた旗本家です。
この屋敷も本家の中屋敷の一部を分けてもらったものでした。
というわけで、お隣はもちろん永井(本家)中屋敷です。
このため、一部の切絵図では「中屋敷」としか出てない場合もあります(涙)。

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このあたり全部が、永井能登守邸。


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この高速道路の下が、江戸時代は掘割でした。
永井家の門前には堀があり、目の前は大川、水路を使えば
日本橋へも繋がっておりました。
こういう立地なので、裏手にある町家には多数の船宿があったと
言われております(『江戸の夕栄』)。
何度も紹介している「永井玄蕃頭随伴記」(『加納町史』)には、
永井玄蕃が戊辰の8月、軍艦開陽へ脱走する際、
釣り船を仕立てて品川へいったとありますが、
間違いなく、この水路→大川→江戸湾という逃走経路(笑)だったでしょう。



ご存知のとおり、永井玄蕃は箱館戦争のあと、
しばらく監獄にいて、明治5年に放免となりました。
まだ調査できていないので、はっきりとした史料が手元に
あるわけではありませんが、どうやら永井本家中屋敷に住んだようです。
(ここには伊東玄朴などもおりました)
中屋敷といえば・・・・・お隣ですが、
名義が戻っただけの元の能登守邸(つまり自宅)だったかもしれません(笑)。
ただ、廃藩置県などもあったのでいつまでいられたかのかは・・・・・
これから調べてみないことにはわかりません。
(明治8年以降は向島なので、ほんの数年ではありますが)

永井邸といえば、岩瀬忠震はもちろん、堀織部正、徳川海軍のみなさん、
松本良順、西周などなども訪れております☆
そう思うと、なかなか幸せな江戸幕末スポットなのでした。
by aroe-happyq | 2008-05-17 14:54 | お宅探訪シリーズ | Comments(2)