東都アロエ

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アジアンエンタメ&お江戸後期。外国奉行や長崎海軍伝習所がご贔屓☆ BYはな。

カテゴリ:広く幕末ネタ( 118 )

すっかりご無沙汰しておりました。
妙な風邪にとっつかれて、ずるずるしておりました(笑)。
(ただ喉が痛い風邪なのに、耐性菌バージョンだったという感じ)

本日は、ベアトの弟子、日下部金兵衛の撮影した幕末・明治の着色写真が、
ニューヨークの公共図書館のサイトで、無料ダウンロードできちゃうらしい
という情報を知りまして、紹介させていただきます☆


New York Public Library Deigital Collection→こちら

ダウンロードのやり方は、好きな写真をポチると、詳細ページが表示されますが、
そこのページの右端のほうにある、「箱に↓」のアイコンをクリックしてください。
Download Optionsが表示され、smallサイズから、Largerまでサイズを選べます☆

ま、ダウンロードの前に、あれもこれも思わず見入ってしまいますネ!
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by aroe-happyq | 2015-11-13 19:40 | 広く幕末ネタ | Comments(2)
今年の企画展はなにかしら、と国立公文書館のサイトをのぞいたところ、
平成16年度に開催した企画展の内容が、デジタル展示として公開されていました。

激動幕末ー開国の衝撃ー こちら


いろいろ貴重な資料が登場しますが、
わざわざ小笠原回収がコーナ化されていて、なんだか嬉しいです☆


あ、今年の1回目の企画展は「恋する王朝」です。
・・・・・これはいかないなぁ・・・・(笑)。
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by aroe-happyq | 2015-06-11 14:20 | 広く幕末ネタ | Comments(0)
今年はじめ、ぶっちゃけ話のできる友人と酒を酌み交わしまして、
そのおり、長州の若者による悪質な犯罪について語ったところ、
「それブログに出さなきゃ! 大河に主役級で出ちゃダメなやつらなんだから!どーせ×××・・・」
(幕末開国派過激発言のため、後半は自主規制しました(笑))
とのせてくれまして、その友人のエールにおこたえして
松陰の門人&関係者による犯罪プチリストを出してみることにしました。

前に赤禰記事のときに「最初で最後の」長州ネタと銘打ったのに、
もう一回だけ、いわばアンコールです(笑)。
(できればやりたくねぇ、アンコールでございました。だって書いてて面白くない)

プチリストということで、即出ネタと初出ネタまぜこぜですが、
この2015年、もう一度、彼らの悪逆非道ぶり(爆)を思い出していただければ幸いです。
※文久以降の京都における事件はあまりにも有名なので今回は除外しております。


①御使番・中根市之丞一行虐殺事件(現場:萩)

これはもう外せませんね。千年先まで語り継がれるべき事件です。
拙ブログではなんども登場している、幕末史史上、もっとも悲惨にして凶悪な虐殺事件!
※ブログ過去記事はこちらこちらなど。
(なぜ知られていないか?そりゃ勝者の歴史ですから、長州は隠しまくりですわな)
犯行はざっくりいえば奇兵隊ですが、もちろん首謀者は松陰の門人であります。

事件の経緯を簡単に書きますと、
文久3年7月、馬関の外国船撃ち払い事件、および小倉藩領田浦不法占拠問題等について、
徳川公儀は御使番中根市之丞を、詰問使として朝暘丸にて長州に派遣した。
中根の持参してきた書翰が将軍直書ではなく、老中書翰だとしった奇兵隊は激昂、
(長州ごときの詰問に家茂が直書なんか出すか!阿保どもめと、すでにここで奇兵隊に理解不能(笑))
馬関に上陸した中根一行だが、乗ってきた朝暘丸を奪われてしまふ。
しかも奇兵隊の陰謀で、毛利家へ取り次いでもらえないため、8月9日小郡に行く。
詰問がなかなか進まないなか、8月19日夜半、小郡の旅館三原屋に宿泊中の中根一行は
襲撃される。たまたま厠に行っていた市之丞は九死に一生を得たが、中根家の従者長谷川勇助、
家宰の須原栄、小人目付鈴木八五郎の三名が惨殺された。
中根市之丞は従者5人とともに長州脱出をはかり(途中1名殺害される)、
小船(朝陽丸は奪われたままのため)で海上へ。
ところが世にも執念ぶかい襲撃者たちは船に乗って追いかけてきたのである。
(想像していただきたい!中根一行、不案内な土地でどんだけ怖かったことかっっ)
そして船をぶつけてきて乗り込んできた敵と乱闘の末、
ついに中根ほか2名は殺害されてしまうのだった。
幸い、従者のなかで吉五郎、安五郎は負傷しながらも生き延び、広島へたどり着いた。
長州側は中根一行は行方不明と言い張るつもりだったが、この生き残った従者たちのおかげで
この世にも希なる恐るべき暗殺事件は、明るみになるにいたるのであった。
ちなみに、実行犯は、石川小五郎、有馬幸次、児玉百助、藤村幾之進、ほか。
そして主導したのは吉田稔麿、とのよしにございます。

当時の徳川公儀は国際的に認められた日本政府ですから、
いわば国から派遣された糺問使を虐殺するってもう発想そのものが野蛮なテロ集団そのものですわな。
同じ本州にそんな奴らが生きていたかと思うと、ゾッとします、マジで。
なぜ正々堂々、糺問の場で弁論によって戦わない?
反論できないほど、頭がスカスカなのか?(だったら学問しやがれ)
こそこそと宿舎を襲って、しかもその場を脱出できた人びとを追いかけてきてまで殺害におよぶ?!
さすが大河の主人公の兄チャンだ。吉田松陰センセイはご立派な門人を育てたものですわいな。

〈参考文献〉
『維新史料編纂會講演速記録2』「幕府使番中根市之丞長州に於て遭難の始末」
石田恭一『中根市之丞物語 朕が不徳ノ到ス処』
岡崎鎮生編『幕吏中根市之丞暗殺一件』
古川武雄『中根市之丞一行長州遭難の始末』


②御老中安藤対馬守暗殺未遂(坂下門外の変)の黒幕事件
(現場:江戸城付近)

これもかなりヒドイ話。だけどちょっと天罰くらっている、小気味良い事件でもあります(笑)。
坂下門外の変ったら、有名なのでこのあたりはばっさり割愛いたしますが、
そもそもこの安藤公襲撃を考えたのは、長州の桂小五郎、水戸の原市之進だったよし。
ところがそれぞれの御家の事情で、自分たちでは実行できなくなり、
他人にやらせようという話になったわけ。
そこで宇都宮藩儒者の大橋吶庵一派に白羽の矢がたちました。
大橋吶庵は江戸っ子侍なのに、水戸学にどっぷりさん。門人もまたしかり。
しかし彼らも自分たちの犯行にみえないように画策するのですが・・・・・・。
たまたまその頃、外国奉行堀織部正利煕が自刃しまして、大橋たちはこれを利用することに。
堀さんがこれといった遺書を残さなかったことをこれ幸いに、偽の遺書を作成。
(内容はハリスと安藤対馬守が不適切な交流をして、それをとめた堀が命を賭して諫めた的なもの)
この偽遺書は廻し読みされて、当時の若者のいわばベストセラーに(笑)。
そして堀家に縁のある若者もまんまと加わったため、桂小五郎、原市之進はもちろん大橋吶庵さえも
裏に隠れて安藤老中襲撃計画は着々と進んだのですが、ま、徳川公儀もバカじゃないんで、
大橋吶庵は逮捕されてしまいます。しかし計画はすでに実行残すのみというところまで出来ていたため、
逮捕を免れたメンバーで3日後に襲撃を実行するのでした。
文久2年1月15日、坂下門外の変。
で、襲撃メンバーのほとんどは討ち死にするわけですが、
手負いながら仙田彌一郎が現場から逃げのび、
なんと日比谷にある長州萩藩上屋敷へ駆け込んじゃったのです(笑)。
「桂さんに会わせていただきたい」と血まみれの仙田はいい、小五郎は留守だと聞かされると、
「またせてもらおう」と、帰らないわけです。
ちなみに屋敷の外では、安藤公襲撃事件で騒然となっており、目付や町奉行所が血眼になって
下手人を捜しているわけです。長州屋敷ではさぞさぞ困ったことでしょう。
でも桂小五郎の知り合いなので、叩き出すわけにはいかず。
仙田彌一郎は、夜になってかえってきた桂小五郎に会うやいなや、「自害するので見届けてくれ」
という、またまた迷惑なお願いをして(笑)、ホントにそこで死んでしまいました。
これって、桂小五郎が安藤襲撃事件に関与しているって、もうバレバレばわけで、
せっかく大橋吶庵に押しつけたのに、台無しです。
(ま、計画したのだから、やむおえない!?)
で、案の定、後日、町奉行所に桂小五郎は呼び出されて、仙田との関係をねちねち聞かれたのですが、
なんとか襲撃一件に関与していることはバレないで済んだようです。
ま、ちょっとヒヤヒヤしたらしいので、わたしのような桂アンチには楽しい事件でもあります☆

というわけで、松下村塾の門人ではないけれど、関係者として桂小五郎がエントリー。

〈参考文献〉
玉蟲左太夫『官武通紀』
『徳川慶喜公伝』
松本佳子『原市之進』


③御殿山英国公使館焼き討ち事件(現場:品川)


これは、もうくどくど書くより、ウィキみたほうが早いですよね(笑)。
前の2件はりきったので、この事件の概要は割愛しちゃいます。

というわけで、下手人はまるごと吉田松陰門人ズで構成された、
尊王攘夷結社「御盾組」メンバーで、
そのメンツはというと、上海帰りたてホヤホヤの高杉晋作
以下、久坂玄瑞、井上聞多、伊藤俊輔、寺島忠三郎、品川弥二郎、堀真五郎、
松島剛蔵、赤根武人
などなど。以上!(笑)

どうです、この松下村塾門人プレゼンツぶりは!

ちなみにこの焼き討ちの3日前ぐらいに、公使館(建設中のため無人)の護衛兵がお一人
殺されています。下見にきた↑上記メンバーの誰か、が下手人というのが通説です。
火をつけただけではとどまらず、血を見ないとすまない残虐性。
さすがは、松下村塾!!!


④蘭学者手塚律蔵、白昼堂々暴行事件(現場:江戸城付近)

これは被害者が生還しましたので、大きな事件ではないのですが、
現場がすごい。長州萩藩上屋敷付近なもので、
今の東京日比谷公園付近なのですな。江戸城の堀端です。しかも昼間っすよ。やってくれるわネ(笑)

手塚律蔵さんというのは、長州出身の蘭学者です。
出身は長州ですが、高島秋帆や坪井信道に蘭学を学んで、嘉永4年には佐倉掘田家に仕えたので、
かなり早くに長州を出ていたのです。
江戸本郷で「又新堂塾」なる蘭学塾をひらき、桂小五郎や西周などを教えていました。
その後、安政3年、蛮書調所に出仕したのですが、桂小五郎に乞われて、ときおり長州江戸上屋敷で
蘭学を教えることもしていたのですが・・・・・・。それがトラブルのもとに。
文久2年12月20日のこと、手塚律蔵は長州江戸上屋敷に蘭学を語りにでかけてしまいまして、
そこには尊王攘夷結社御盾組がいたんですねっっ。
しかも御殿山焼き討ち成功して、盛り上がってしまっている彼らが。
そこで開国主義者だなんのとわけのわからん理由で、手塚律蔵は暴行をうけてしまうのです。
手塚は上屋敷から逃げのび、日比谷堀端まで走ったのですが、まだ追いかけてくる。
命の危険を感じたため、冬にもかかわらず、堀へ飛び込んで難をのがれました。
12月25日、なおも命の危険を感じた手塚律蔵は瀬脇旧太郎と名をかえて、
妻子とともに佐倉へ居を移しました。
(調所では翌文久3年末をもって退職となっております)
この蘭学者襲撃事件は洋書調所(蛮書調所より改名)につとめていた杉亨二や福地源一郎、
福沢諭吉たちを震撼させ、蘭学者にはインパクトの大きい事件でした。
ただ、手塚さんは長州人で開国主義者だったことがわざわいしたのであって、杉たちは大丈夫
なんですけどね☆
この事件の下手人は、通説によると、
またもや尊王攘夷結社「御盾組」メンバーで、
高杉晋作久坂玄瑞、井上聞多、伊藤俊輔、寺島忠三郎、品川弥二郎、堀真五郎、
松島剛蔵、赤根武人
の誰か、ということです。

手塚律蔵はたいへん優秀な学者だったにもかかわらず、その後慶応2年まで
佐倉から出る事無く過ごしたそうで、なんだかこの3年がもったいない。
しかも慶応2年に洋学所に戻ってきても、瀬脇良弼という改名のまんまということで、
どれだけ暴行事件がこわかったのか!という、本当に気の毒な話です。

〈参考文献〉
村上一郎「手塚律蔵研究ノート」
(『蘭学資料研究会研究報告 81号』)
ほか。

⑤蘭学者東條英庵宅侵入襲撃事件(現場:小石川)

最初に、いっちゃいます。
こちらも、手塚さんとほぼ同時期に起きておりまして、
下手人は、今回も、おそらくは、いえほぼほぼ、
吉田松陰門人ズが作った尊王攘夷結社「御盾組」メンバーらしいです(笑)。

東條英庵も長州出身の蘭学者なのですが、
こちらは毛利家一門のひとという、毛並みの良さ。
(つまり、襲撃メンバーは主家につながる蘭学者でも容赦しないらしい(汗))
そして江戸に出て蘭学者として、身を立てたのですが、ペリーがくるよりもずっと前から
江戸ではかなり有名な蘭学者だったそうです。
安政2年、桂小五郎が浦賀におもむき、中島三郎助に造船学を師事する際も、
東條英庵の紹介状あったればこそ、だったとか。
その後、蕃書調所が開設されると、教授方として招聘され、それから徳川家直参となり、
御軍艦繰練所教授方、外国方で西洋軍学、蘭語を教えるかたわら、
重要書類の翻訳でも活躍されておりました。

そして文久2年12月下旬、東條英庵は小石川に屋敷を構えていたのですが、
その屋敷に突然、「浮浪の徒」が侵入。
東條英庵は裏口から逃げて、からくも難をのがれた。
なんとなく、手塚さんとセットみたく、襲われたっぽいですが、
ご無事でホントによかったです。

「浮浪の徒」としているのは、福沢諭吉著『福翁自伝』での表現ですが、
下手人は、時期といい、動機(ほかに東條を襲撃する人びとって?)といい、
どーみても、すっかりイケイケになっていた上記の輩どもだというのが通説です。
(通説どおり、ええ、決めつけてやりますとも!(笑))

〈参考文献〉
原 平三「東條英庵 蕃所調所教授方小傳」
(『伝記』10巻 2号、4号、5号)

以上、かんたんにおさらいしてみましたが、
吉田松陰門下生&関係者、おっそろしいヤカラ揃いですねっっ。
いったい、どういう教育をすると、こういう凶暴性が芽生えるんでしょうか。

はっきりいって、とてもNHKの顔ともいえる大河ドラマで1年間放送すべき
キャラたちではありませんね。
日曜の夜ですよ、ゴールデンタイムでしょ。
もっと正義ある男たちのドラマを放送すべきでしょうね。

どんなに自分たちの主張があろうとも、それと異なる意見の人びとへ暴力を振るったり、
あるいは惨殺するなどという行為はあってはならないことです。
中根のところでも、書きましたので、繰り返しになりますが、
主張があるなら、拳や刀ではなく、脳みそと口を使って、おおいにやりあいなさい。
それすら知らない、哀れな吉田松陰門下生&関係者。トホホ、南無阿弥陀仏。

われわれのこどもの頃、大河ドラマをみて、歴史上の人物にあこがれたものですが、
今年の長州凶悪男子には、良い子はあこがれてはいけません。
イケメンなんつって、顔なんぞでつられてはなりませぬ。
心はたいそうな不細工さんですからね(笑)。

もっと、あこがれてもよい、いえ、あこがれるべきすばらしい人物はほかにたくさんいます。
間違っても、ダマされてはいけませんよ。
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by aroe-happyq | 2015-06-07 22:56 | 広く幕末ネタ | Comments(6)
昨夜の地震はびっくりでした~っ
そんなに揺れは大きくなかったのですが、なにせM8.5という地震速報での数字に
ぶっとびました(汗)。(※その後、M8.1と修正されました☆)
遠くて、深かったから、この程度の揺れで済んだのね、と
命を拾った心持ちです。
こうしてブログをかける、平常な生活に感謝せねばと思いました。

・・・・さて。

BSではときおり取り上げられる、江川太郎左衛門英龍(号は坦庵)さん。

今回もBSですが、ちょっと面白そうなので、紹介☆

6月7日(日)13:00~14:55  

BSフジ

玉木宏の歴史タイムトリップスペシャル
 戦後70年教科書から消された英雄
 ~韮山反射炉を造った江川英龍~


公式サイト→こちら

公式サイトをみてわかるとおり、江川太郎左衛門役に現江川家当主が扮するという、
なかなかな冒険をしているあたりがポイントかと(笑)。

来週の日曜日、楽しみです!
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by aroe-happyq | 2015-05-31 09:33 | 広く幕末ネタ | Comments(4)
こんな新聞記事をみつけました☆

ジョン万次郎未公開写真か スーツ姿、白人男性と

ニュース→こちら

中浜万次郎さんかどうか、今のところはまだ確定できていないようですが、
でもなんか、ほかの写真に似てるっぽいので、
本人だといいですね!
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by aroe-happyq | 2015-04-24 09:52 | 広く幕末ネタ | Comments(6)
まさかの長州ネタでございます(笑)。

今年の夏、ひょんなことから知りました、赤禰武人サン。
おそらくわたくしにとって、最初で最後の「やっと居たよ、まともそうな長州の人」です(笑)。
しかし「まとも」ゆえに裏切り者にされ、石持て追われる身となる、不運の人でもあります。

心理学では少しでも知識が深まると、好感度が増すものだそうですが、
今回、赤禰武人を知って、ますます長州とか高杉晋作が嫌いになったことは
最初に書いておきたいと思います(笑)。理由はおいおいに・・・・。
(ほかの人達は・・・・薩摩とか、井伊直弼なんかも、識るたびに可愛く♪思える
ようになって、好感度が増しているのに、ここだけ・・・・どーしてだらう!?)

で、その赤禰(根)武人とは・・・・・。

天保9年、周防桂島の村医松崎三宅の子として生まれる。
(長男説やら、次男説がある。でも他家に養子にいくところをみると次男っぽい?)
通称は門平、幹之丞。
11歳で、僧月性の時習館に学んで、その後、松下村塾に入る。
20歳の時、浦家の臣、赤禰忠右衛門の養子になり、士分となり、赤禰武人と名乗る。
安政の大獄では獄につながれたり、いろいろあって、
江戸では、英国公使館焼き討ちのメンバーになったり、スパイ活動したりとヤバイ橋も渡り、
攘夷血盟には、久坂玄瑞や高杉晋作らとともにその名を連ねた。

その後、奇兵隊結成に加わり、第三代総管に就任(部下は山県有朋)。
翌年、四国連合艦隊による下関砲撃事件を経て、赤禰武人は攘夷は不可能だと悟る。
さらに長州内の正義派(倒幕派)やら俗論派(恭順派)などの醜い対立をみるにつけ、
思う所があって、奇兵隊総管を辞して、故郷に帰ります。
この休暇で、さまざま思い巡らし、開眼したようです。

ところが後任の山県がどうもダメダメで、
赤禰武人は再び奇兵隊に連れ戻されしまうのでした。

奇兵隊に戻った赤禰武人は「開眼」したため、前とは打って変わって、
長州は戦争をしてはならない、と内戦回避のために奔走をはじめる。
するとそこへ、俗論派に命を狙われ他国へ渡っていた高杉が戻ってきて、
赤禰を妨害するわけです。

そのときの高杉の演説ですが、これがすごい(笑)。
奇兵隊の同志を前に正論派の勢力回復は今しかない!、とここまではいいとして、
次に「赤禰に騙されるな」的な演説をぶった・・・・のですが。
その理由に、赤禰はそもそも士分じゃない、とか、弁舌はどんどんヒートアップしていき、
「(赤禰武人は)大嶋郡の土百姓じゃないか」と、
自分(高杉)は毛利家の家臣だ、こんなに高い身分の自分と、
土百姓の赤禰武人の言う事とどちらが信用できるか、おのずとわかるだろう!?
とまぁ、つい本音が出ちゃった。
(正確には赤禰は周防桂島の村医の子なんだけどさ)
これには、演説を聴いていた奇兵隊のお百姓さん達がドン引き・・・・・・。
なんせ、奇兵隊のお偉いさんが隊の創設精神をなにげに否定してしまうという珍事が
起きたわけですから(爆笑)。
(そしてこういう口先だけのぺらい差別男が大嫌いなワタクシのなかで
高杉晋作は永遠にブラックリストに刻まれることになりました(笑))

結局、赤禰武人の努力は水泡に帰してしまい、藩内では正論派が勢力を盛り返す。
このおかげで、高杉一派から裏切り者扱いされ、赤禰は大坂へ落ち延びます。

不幸は重なるもので、赤禰武人は大坂で幕吏に捕まってしまい、
京の六角獄につながれます。八ヶ月も。

その獄中で、再度の長州征伐が行われるときくや、『急務五箇条』という意見書を書き、提出。
幕府と長州の戦いを回避し、内戦を行わないことで、諸外国のつけいる隙を与えないよう、
自分は長州の人々を説得したい、というような内容でしたが
この赤禰の意見書が、大目付永井主水正尚志の目にとまります。
永井は赤禰に「長州との和睦に協力してくれるとは本当か」と問うと、
「自分が長州へ行って説得する」という。
では頼むということになって、
慶応元年、長州尋問のため広島へ向かう永井主水正と新選組近藤勇や
伊東甲子太郎などに随行して、赤禰武人は旅立ちます。
道中、赤禰武人は近藤や伊東と随分交流を深めたのだそうな。

広島へ到着すると、赤禰武人は「釈放」ということで自由の身となります。
それだけではなく、『急務五箇条』の内容が高く買われ、岩国や長府、そして萩の藩主にも
「幕府との戦いを回避するよう、高杉たちを説得してくれ」と期待されるのです。
しかし、すでに藩主の思惑とは違い、藩内では幕府と戦う覚悟を固めており、
赤禰武人は近藤や伊東と岩国への入国を試みるのですが、拒否されてしまう。
拒否されるだけならまだしも、「新選組と交流するなど、お前は幕府のスパイだな」と
いう嫌疑をかけられてしまい、お尋ね者に。

近藤たちと別れ、藩内に潜伏した赤禰武人は、まだ説得できると信じていました。
(こういう流れになったので、近藤たちの作戦も失敗になったわけです(笑))

そこで故郷の親類を頼りますが、追っ手が迫ると、
自刃するよう勧められてしまうのです(トホホ)。
しかし「ここで死んでは誤解されたまま終わってしまう。この上は裁きの場にて、
自らの清明をのべ、我が主張のいずれに間違いがあるのか、問いただしたい」
というと自ら縛につきます。
高杉などの正義派が盛り返している藩内なので、取り調べなどもいわば元仲間と関係
のある人が行うわけです。「話せばわかる」と思ったのでしょう。
なにせ元奇兵隊の第三代総管ですから、仲間はたくさんいただろうし。

ところが、まったく弁明を行う場も与えられず、そのまま処刑と決してしまうのでした。
(昔の仲間じゃねぇか、少しぐらい話を聞いてやりゃいいだろ、と理解不能の呆れた結末(笑)。
てか、まったく聞く耳を持たないという、料簡狭さがこわいよ(汗))

処刑前夜、赤禰武人は悔しさゆえに啜り泣いたそうです(さもありなん)。

赤禰武人処刑の報をきいた藩主毛利元周は馬を飛ばして止めようと
しますが、時既に遅かった、ということです。
(藩主への報告ってそんなに後回しなの?と首を傾げてしまうのですが)
この時、赤禰武人は28歳でした。

しかし、この後がまた酷い・・・・・。

処刑された赤禰武人の遺骸から腸を引きずり出して鳥に喰わせ(鳥葬か!?)、
遺骸そのものは通行人に踏みつけさせるよう、埋めたとか。
晒された首だけは何者かが持ち去ったそうで、行方知れずです。

そして、明治の終わりの頃。
赤禰武人の名誉を回復させようという運動が起ったそうな。
帝国議会で了承されるところまでこぎつけたのですが、
元部下の山県有朋が
「下関砲撃事件で赤禰武人は敵前逃亡した」ゆえ、認めないと発言。
とうとう名誉回復の話は頓挫したそうです。
(赤禰の後任を果たしきれなかったクセに随分と偉そうだよな(笑))

ようやく赤禰武人の墓が建てられたのは平成7年のことだそうです。

長州のなかで、ようやくちゃんと時節を読めていた人がいたことは
すごく嬉しいというか、ああ、同じ日本人らしいぞと安心した次第ですが(笑)、
しっかし奇兵隊内部ってドロドロすぎて怖ひ・・・・・。
青春モノみたいなさわやかなタッチで語れんぞ、こいつら・・・・(汗)。

どうするんだろう、来年の大河(笑)。みないから、どうなってもいいけどサ。
(嗚呼、官兵衛面白いのにもうじき終わっちまうのかよ~~~)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

きっかけはお察しのとおり、永井公の広島行きの調査でした(笑)。
ですが、知れば知るほど赤禰武人さんが気の毒になり、
旗本中根市之丞サマを惨殺した鬼畜・奇兵隊の一員ではありますが、
どうしても紹介したくなった次第。

※御使番中根公や一行の惨殺事件についての記事はこちらこちら

長州ネタは最初で最後だと思いますが、
長州の賢人、赤禰武人さんのお話でした。


【おもな参考文献】
『松下村塾の人びと』 海原徹著 ミネルヴァ書房

この本では、高杉演説のくだり、すごーく書きにくそうに描かれていて
長州ファンにとっても、この現実は厳しいものだったのだな、と納得でした。
(アンチファンのわたしでさえ、初見では対処に困ったもの(笑))

このほか、国会図書館の検索でひっかかった細かい資料等々。
なかなか赤禰さん情報がなくて、たいへんでした(細かい調査は現在進行形)。
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by aroe-happyq | 2014-10-08 11:39 | 広く幕末ネタ | Comments(14)
四ッ谷荒木町そばにある、新宿歴史博物館で開催中の
「高須四兄弟」展に行ってきました☆

博物館特別展サイト→こちら

それほど大きな展示スペースのある博物館ではないので、
大きな展覧会ではありませんが、
高須家初心者のわたしにとっては、けっこう充実した内容でした。

容保公、定敬公は経歴などわかっているほうですが、
あとの2人について、尾張藩主をかわりばんこに継がれたりして、
ちょっと頭のなかでぼんやりしている点があったのが、このほど解決できて
たいへん勉強になりました。

とくに昨年、生麦事件について調べていた頃、
上洛した家茂のかわりに、京からお留守番に江戸へやってきて、わけもわからぬままに
生麦賠償交渉に巻き込まれてしまう、気の毒な尾張公に同情愛がわいたのですが、
そのおりの御殿様は次男さんのほうなのね、とか(笑)。
(次男さんとは、尾張茂徳のほう。のち玄同、そして一橋茂栄になる人です)

そ、それから長男さんの尾張慶勝のコーナーで知ったのは、
水戸のみならず、尾張家までが延宝4年以降、尊皇家だったこと。
御三家中、二つもかよ(紀州も微妙だしな)とくると、徳川家を味方してくれる身内は
御三卿と会津家だけってこと!? 
・・・・・・いえ、これは慶勝の行動をみてればわかってはいたけど。
そして江戸開城時には「この裏切り者め」と旗本御家人にえらく憎まれていたのも、知ってたけど。
でも延宝年間(綱吉が将軍になった頃。つまり、8代将軍をめぐって紀州と尾州が競うずっと前)
から「朝廷のミカタ」だったと知ると、なんともショック。

ところが、図録の論考(これまた、実にしっかりしていて素晴らしい文章ばかり)によると、
慶勝公は、関東人として強い矜持を持っていたのだとか。
(戊辰時の旗本御家人が聞いたらマジ「じぇじぇじぇ」だとおもふ(笑))
ま、関東人というか、四ッ谷荒木町人といいますか。生まれ育った土地が大好きだったようです。
(・・・・たしかにお墓も新宿区にある!)

とまぁ、いろいろと四兄弟について知ることができて楽しかったです。

たったひとつ。展示されている容保公のお写真のところに「イケメン大名」とか貼ってあるのには
ちょっと笑ってしまいました。いや、今更だし・・・・・。
もうこの方が美しいのは万人が知っていますワって(笑)。
でも、わたくし・・・・・告白しますと、その容保公のナナメ2メートル前ぐらいに置かれていた、
でっかく引きのばされた、煙管をもってポーズをとってる慶喜サマのポスター並みの大写真に
改めてみとれてしまいました(爆)。ああ、「イケメン将軍」って(汗)。
(忙しいなか、わざわざ資治通鑑とかならべて、あーでもないこーでもないと撮影したすべてが素敵)

さて、ここで四兄弟とはちょっと離れたところで、びっくりしたのは、
四ッ谷御先手組組屋敷・・・・・・・。
慶勝公が撮影した、実家の高須家から養家の尾張上屋敷方面のお写真に写っていたのです。
ふつう、与力や同心の組屋敷というと、八丁堀の町方同心・与力の組屋敷の感じを
イメージするじゃありませんか。
そ、それが・・・・この高須家と尾張家に挟まれたエリアにある御先手組組屋敷は、
茅葺きの農家(戸建て)が庭(か畑のなか)に点在している形式で、どーみても、
江戸の武家が住んでいる屋敷にはみえず・・・・、ただの農家。
(実際にお見せしたいのですが、図録から撮影しようとしたらどうも映りがわるくて)
四ッ谷御先手組組屋敷って、池波正太郎の「鬼平」ではレギュラー同心たちの住まい
という設定ということもあって、忠吾ん家ってこんなダサいのか・・・・・・と(笑)。

小さい規模ではありますが、四兄弟の育った高須屋敷についても地元らしさを発揮して、
珍しい地図などもいろいろ展示しており、また図録もしっかり作られていて、
見応えのある、良い展覧会でした☆

帰りには、ついでに高須屋敷だったエリアをちょっと散歩しました♪
(博物館内、常設展示入り口の机に四ッ谷エリアマップが置いてありました。
これをみれば、迷わず策の池にもいけるかと思いますヨ)

ちなみに、高須屋敷内にあった策の池等々の以前の記事は→こちら
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by aroe-happyq | 2014-09-18 11:01 | 広く幕末ネタ | Comments(8)
先日、久々に横浜開港資料館へ行きました。
お買い物ついでに、開催中の展示もみてきたのですが、肝心の日記がまだ翻訳中
とのことで、中間報告っぽい内容でした。
早く完成して、しっかりした展示がみたいものです。

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横浜に行く少し前、笠原 潔著『黒船来航と音楽』 (歴史文化ライブラリー)吉川弘文館
を読んだので、資料館外のあたりをちょっとぶらつきながら、
来航時の想像をして楽しみました。

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上記の本によりますと、当時、アメリカの軍楽隊が演奏したアメリカ国歌は
今、私たちが大リーグなどでよく耳にする『星条旗』ではなく(←こちらは昭和6年ぐらいからだとか)
『ヘイル・コロンビア』という曲が仮国歌と定められていたそうです。

ちなみにこんな曲です↓



なんか、19世紀っぽい、おとなしめで古風なテイストですよね☆
(なにせ仮国歌。まだまだ新しい国でーす感がでている気がします(笑))

で、『星条旗』という曲ももう存在していたのですが、こちらはもっぱら国旗掲揚時限定
だったそうです(なので、もちろん国旗を掲げた際、日本でも演奏されたそうです)。

なので幕末ドラマなどで、『星条旗』全面推しの作品は、いささかイメージ先行すぎで、
不勉強としかいいようがありませんネ。

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そんな音楽を、↑このあたり、海から交渉場所まで、軍楽隊が演奏して上陸したわけですね。


『黒船来航と音楽』 には、もっといろんな曲が演奏されたと書かれております。

いきなり押し掛けてきた外国の、いわば異国の音楽をですね、
交渉担当の林大学頭や、伊沢美作守、鵜殿などなどはどう聞いたのか。
ちょっと感想を聞いてみたいものです。
(宴会ではバンド演奏に乗って、ちょっとフィーバーしちゃった日本人もいた模様ですが(笑))
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by aroe-happyq | 2014-08-20 10:07 | 広く幕末ネタ | Comments(0)
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新宿を歩いていたら、こんなポスターを見かけました☆

四ッ谷にある、新宿区立新宿歴史博物館で開催するそうですヨ!


新宿区立新宿歴史博物館特別展予告ページ→こちら

【会 期】9月13日(土)~11月24日(月・振)
【時 間】9:30~17:30(入館は17:00まで)
【会 場】新宿歴史博物館 地下1階 企画展示室
【休館日】9月22日(月)、10月14日(火)、10月27日(月)、11月10日(月)
【観覧料】一般300円(常設展とのセット券は500円)、中学生以下無料
※団体割引:20名以上で1名150円


こちらの博物館はまさに高須家のあった、四ッ谷荒木町そばにありますので、
お帰りの際は、ちょっと高須家を偲びながら、散策などがおススメです。
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by aroe-happyq | 2014-08-15 18:23 | 広く幕末ネタ | Comments(5)
なんでも番付にしてしまう、江戸時代。

大名旗本の人々も番付にされておりました(笑)。

それが「文久2年 東西くらべ 為国家」であります。

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ここのブログ・・・・ポチっと画像を押すと大きな画像が出るとかいう便利な仕組みでないので、
スイマセンっっ、かなり読みにくいかと存じますっっ(これでもかなり大きめに加工してみたのですがっ)。

この番付(写しが現存しているのですが)、福井市春嶽公記念文庫に所蔵されているそうです。
ここにUPしたのは、『徳川慶喜とその時代展」の古い図録から・・・・だったりします。
(なので不鮮明なんですっっ。カメラで撮影してみたのですが、ページの隅っこだったもので)
なぜ春嶽公のお手元に保存されたかは、見ればもう納得ですね(爆)!

英雄 松平春嶽  

とあるわけなので、
見た瞬間、家臣一同&ご本人も喜んで「永久保存!!!!」と決定されたかと(笑)。
(おかげでこんな発禁モノの番付が現代にまで伝わっているのでした☆)

また、慶喜展に出展されて、関東にいながら目にすることができたのも、

寛仁 一橋刑部卿

と春嶽さんのとなりにあったから♪だということで。


いや、わたしがUPしたのは実はここからが本題なのであります~~~~っっ

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③ーBの、ももいろ部分をご覧下さい!!!

中央の一番すみから、

才□ (読み取りできず) 岩瀬肥後守

  永井玄蕃頭

□□ 江川太郎左衛門  

どーです!!!素敵な3ショットですよね♪
(どうも、向かって右側・・・・春嶽や慶喜側はわりと、番付製作者にとって(笑)好印象メンバー
のようです。なにせ「赤心報国」らしいし。一方の反対側は・・・・(汗))

永井の「地」のうえがもし「意」の字だとしたら、意地というわけですが、
文久2年で、永井=意地で当てはまるとしたら・・・・・。
永蟄居処分が終わり、名誉回復&軍艦奉行復帰した夏頃、岡部駿河守経由で
入手した薩摩の内部告発を、永井が速攻で政事総裁職の春嶽に通報し、
島津久光の威光を笠に着て威張っていた薩摩の家来某氏が処分された件?
(このブログで前にも紹介しましたが、アンチ薩摩の大名旗本に永井さんはえらく
讃えられたので・・・。そんなこんなで京都町奉行などになったり・・・・。これかな??)

同じ段に、井戸石見守も確認できます。

②ーBの中央には、 老体 筒井肥前守の名も。


さて、問題は向かって左側です。おもに①-A段です。

國 井伊掃部頭
は、良いとして(爆)。

同じく売國メンバーとして、安藤対馬守

とか、大□ 阿部伊勢守

がですね、姦佞 間部下総守などと並んでいるのは
いかがなものでしょうかっっ(ちょっと辛いーっっ)。

その下の段、②ーAには、不覚 川路左衛門尉なんかも、
どーしてかと(川路が不覚をとったのは、安政4年、京での中川宮の一件のみですけど。
しかも中川宮・・・・この番付のど真ん中に、青蓮王ってこれ同一人物ですよネ・笑)
・・・・筒井が右側にいるのに、なぜ川路~~~~~っっ(涙)

青蓮宮のみならず、松平薩摩守や水府景山卿(って水戸斉昭のことデス)が
中央メインで、勧進元ときているという・・・・この番付をつくった人の立場がイマイチ
わからないのですが、かなりの事情通だということはわかります。
(ま、春嶽公を英雄って持ち上げすぎ~っ!って声が聞こえなくもないですが・笑)

それにしても、こんなに堂々とご政道批判ともとられない番付が出回るなんて、
文久頃になると、本当に御公儀の力が弱っていたのだなーと、
そんなときに頑張っていた、若き将軍家茂公が気の毒でなりませんっっ。
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by aroe-happyq | 2013-08-23 10:02 | 広く幕末ネタ | Comments(4)

アジアンエンタメ&お江戸後期。外国奉行や長崎海軍伝習所がご贔屓☆ BYはな。


by aroe-happyq