東都アロエ

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アジアンエンタメ&お江戸後期。外国奉行や長崎海軍伝習所がご贔屓☆ BYはな。

江戸城の二階

江戸東京博物館の「江戸城展」でみた江戸城図面に二階があったので、
ちょっと調べてみたら東京都立図書館のコレクションにその図面があった。
図面の全部を掲載するのははばかれるので、ちょこーっと、加工しつつ、
二階部分クローズアップ画像を載せちゃいます。
(○で囲った部分の黄色の濃いところが二階です)

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文久三年の火事で本丸御殿が焼けた後の元治年間の西丸仮御殿の絵図面です。
財政がきついので、本丸御殿再建を断念した後、西丸御殿を改築して、
そこを本丸仮御殿にしていたというちょっと涙が出るようなお話です。

そのせいかこの二階、かなり「建て増し」感アリアリです(笑)。
(この画像でも見えるかな~~、二階部分は薄い紙に重ねるようにあるのですよ)
ここが外国掛の御用部屋かぁ。
とはいえ、すでに岩瀬世代ではなく、かなり後輩たちの時代ですけど。

当時はふつーの屋敷でも二階、三階(原則禁止だけど、あったみたい。これはかなり贅沢な家らしい)はありなので、これぐらいの建て増しはOKでしょうか?

*追記
そっか!戊辰の恭順or抗戦の大評定もこの西丸仮御殿だった・・・・。
(今頃気がつくオオバカ者・・・(汗))
つまり、深夜の大廊下、矢田堀&榎本&巻き添えの立花さんの
号泣現場はこっち。
東御苑で偲べないじゃないか~~~~(涙)。
うっかり偲ぼうとすると、そこは皇居の中です・・・・(笑)。
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# by aroe-happyq | 2007-02-14 10:44 | 江戸東京あれこれ | Comments(0)
遅まきながら、BS特集「世界からみたニッポン~明治編1」をみた。

・・・・このシリーズって幕末編ってないのでしょうか?
たぶんそこから話を始めたほうが、外国との関わり方が
わかりやすいような気がするのです。
徳川ジャパンと一度は交流をもった列強諸国からすると、
明治新政権はその誕生のプロセスからして世界の評判的に、
微妙な位置に立たされていたという解説がないと
いきなり日本そのものが外国に「侮り」を受けている風にみえてしまう。
(それから英国、米国、仏国などとの関係も戊辰戦争前後の薩長と徳川との
関係性を説明したほうがもっとわかりやすかったかも・・・・・)

岩倉使節団INアメリカで受けた対応も、約10年前の万延元年に
裃のサムライ風俗の徳川代表がやってきたことがある前提で話をすすめないと、
いきなり世界の田舎から出てきて「なに、あんたたち全権でもないの?」
と軽いいじめに遭ってしまう日本代表使節団の姿に映ってしまふ。
そうではない。
条約改正をやりたい岩倉たちだったが、彼らは全権使節ではなかった。
(もともとただの使節として行ったので全権委任など持ってこなかったのだが)
ちょっと世界の外交ルールの基本を知らなかっただけなのだが。
なぜ知らないかといえば、前政権から外交のいろはを教わらなかったし、
新政府と仲良しの英国は教えてくれるほど親切ではなかった。

で、アメリカ側は「前(10年前)のときはちゃんとわかってたのに、どうしたの?」
とか、「外交ノウハウを前政権から引き継いでいないの?」といいたいのだ。
(事情はよく知っているくせに意地悪ね、めりけんも)
で、この番組をみているとやはり彼らはよくわかっていなかったらしい。
大久保や木戸や岩倉はアメリカ側にこういわれて、
「おれたち条約交渉できる全権じゃないみたい?」
「アメリカがいうにはうちらのもってきた国書に全権って言葉はないってさ」
「わかった、日本へ戻ってもらってくる!」
と、大久保たちは急いでワシントンから日本へ戻り四ヶ月かけて「全権」委任を
とってきたが、すでに条約交渉そのものが終わっていた(涙)。
(木戸は地団駄踏んだらしいが、たしかにかわいそうだ)

徳川を倒して新しい政府を作ったとしても、前政権も明治政権も外国からすれば
日本であることは同じ。
岩倉使節団は旅立つ前にかつての外国奉行とか(中心にいた人はほとんど亡くなって
ますけどね)勘定奉行とか(小栗もいません)に外交のいろはぐらい聞いていけば
よかったわけで。
辰の口の牢獄には永井玄蕃さんもいることだし(笑)。←安政五カ国条約といえば!
牢屋では漢詩作ったり、榎本さんから英語習ったり、米粒と木片を加工してそろばんを作って
町人の罪人から算術を学んでいたみたいだしで、つまり暇そうだから、
「幕末外交についてどんな交渉をしたのか、教えて」と聞けば、
日本のためなら永井さんは教えてくれたはず。
(少しはおいちゃんに頼ってもいいんじゃないの。なんでも若いモンだけでできると思っちゃ
いけねぇよ BY寅さん(笑))
人材は活用しなくちゃ! 
そうすれば取って返しの四ヶ月なんて無駄はなかったはずだ。

徳川政権と新政府との政権交代にはこうしたノウハウの断絶があるが、
これは日本にとってとてつもなく大きなマイナスだったと思う。
(話は脱線するが古代中国には「禅譲」革命ってズルくて賢い王朝交代方式がある。
王朝は新しくなるが、旧王朝の官僚組織、ノウハウは刷新しつつ、そのまま頂戴するのだ。
ゼロから作るのは時間の浪費だということを古代の人はよくわかっていたわけ)

さて番組に戻ると、そのあとはちょっとグレた?モードで、
「世界は弱肉強食だ。大国になればなんでもできる」みたいな
すごい魔法の言葉をビスマルクにもらい、
そのあと新政府のとった政策は「がむしゃらに西洋化」作戦だった(涙)。
悪評高い鹿鳴館、軍備拡張・・・・・・そして、まるで自分たちがペリーになったのか?
のような勢いで鎖国の朝鮮を開国し(アメリカで岩倉使節団がいじめられた鬱憤をなぜかここで晴らす愚かさよ)、やがて日清戦争へと、傲慢なる強国への道へとひた走る。
(で、ここで1回目は終わり)

とくに鹿鳴館は何度みても読んでも、ホントに恥ずかしい・・・・。
だって似合わないんだもの(涙)。
かつて露西亜全権委員の川路聖謨が、
「我々は軍艦や西洋の化学や技術は必要だか、オルゴールはいらないのだ」
のようなことをいってましたっけ。
(露西亜側にプレゼントされて、ま、ホントに個人的にいらなかったらしいという説もある(爆))
文化は日本にあるからいらない、って。
この日本文化を誇れた江戸の心意気も、「攘夷」を愛したメンバーが作った新政府には受け継いでほしかったなぁ(あ、それがいちばん無理か!?)。
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# by aroe-happyq | 2007-02-13 11:10 | そして明治 | Comments(0)
江戸時代末期の徳川家臣(ほぼ旗本)の書簡などを読んでいて、
前々から気になっていたのが、「幕府」という言葉が使われていないこと。
「公儀」とか「柳営」、「政府」、「廟堂」・・・・現代の私たちが「幕府」一言で済ませてしまう
言葉を場面場面でTPOにあわせて(笑)、言い換えている。
『昨夢紀事』など、徳川家臣ではない人の本にも、ほとんど幕府という言葉は
出てこず、さてさて我々は本当に安易に「幕府」って使ってはいけないのではないか?
ということをかなり長いこと、疑問に思ってきた。
(前にも書いたかもしれないが当ブログではほとんど幕府って使わないようにしていて、
でもたまーに便利なのでちょこっと使ってみたりしたりした・・・・)

どなたか専門家のご意見はないだろうか、と思っていたところ、
先日紹介した無料ダウンロードの、
小川範一さんの「格付けしあう大名たち」の注8にその手がかりはあった。

「幕府」や「朝廷」などは「公儀」「禁裡」というべきですし、
「天皇」も「院」とすべきですから


・・・・・・・やはり言うべきだったのか。
その文章の前に藩のことも書いてある。

じっさいのところ「藩」という名称は幕末、いやむしろ明治に普及したもので、
当時はたとえば前田家のことは「加賀候」とか「加州様」と呼び
「加賀藩」とか「前田藩」などとはいいません。
「藩士」といういいかたも同じで、当時は「○○家家来」「○○家家中」などと称して
たものと思われます。


「~思われます」なので、確定ではないらすぃーけれど、
たしかに江戸で飛び交う書簡(旗本同士)には「藩」という言葉もあまりみかけない。
(使わないのは、あくまで江戸で、ということのような気もするけれど)
「幕藩制ってひずみ出ていると思わない?」みたいな会話も(爆)、
ぜんぜんしていなさそうであったのだ。

長州や薩摩のみなさんの書簡を未読なので、なんともはやですが、
幕府とか藩とか、どこの国で熱心に使っていたのでしょう?

・・・・・この問題はなお続く!
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# by aroe-happyq | 2007-02-11 10:07 | 江戸東京あれこれ | Comments(0)
勝安房守こと海舟さんは癖のあるお人だ。
癖のある人の日記もとんでもなく癖があるに違いない・・・・・と思っていたら
やっぱりあるらしい。

松浦玲『検証・龍馬伝説』によると、
(スイマセン。龍馬の検証でなく、勝さんの検証のために読んだも同じで)

嫌いとか、不快に思った人物について日記に書かなくなる。
龍馬も神戸で50両を勝さんの元から持ち出して以降、日記から抹殺されたらしい(笑)。
たとえ面会したり、家に泊っていたとしても日記には書かないともある。
龍馬は途中からだからいいけれど、木村芥舟(摂津守喜毅)や矢田堀鴻などは
最初から抹殺!らしいのだ(爆)。

木村は長崎伝習所二期生のときの総監で、勝海舟は随分とお世話になったし、
その後も上司になったり同僚になったり、木村と岩瀬の間のメッセンジャーになったり、
晩年までおつきあいしていたというのにっっ。
・・・・嫌いというよりは、木村さんのそのあまりに恵まれた家庭環境や財力にジェラシー
していたのかも?(でも晩年は日記に木村の名前が出てくる)
矢田堀は、これまた伝習所で幹部候補生として共に切磋琢磨した同志。
ただ学問所でも優秀な成績をおさめた矢田堀さんは伝習所一期生でトップの成績で
修了し、永井総監たちが江戸へ観光丸で帰ったときの艦長もつとめた。
居残り組の勝からすると、永遠のライバルだったともいえる。
・・・・つまり木村、矢田堀側にはなんのいわくも、落ち度もなく、ただ勝さんの気持ち的に
日記に書きたくないリストに入れられてしまったようだ。かわいそうに。

そこで思い出したのが、
以前勝海舟の明治の日記をとりあげたときのこと。

そう、戊辰の年まではコンスタントに日記に登場していた永井玄蕃。
見事に明治8年まで抹殺されていました(爆笑)。
それってちょくちょく会っていての抹殺だと、ちと痛いんだけどなぁ。
(たとえば、出獄してからすぐに榎本さんなどが勝さん宅に挨拶にいっているけれど、
そこに同行していたのに、永井の名前だけ日記にかかれなかったとか(汗))

そんな癖のある、勝さん。
天下国家の構想とかデカイことを考える割に、
ちーさいところでやっかんでいたりする、大政治家にして小市民なところが、
なんだか人間味溢れていてけっこう好きです。
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# by aroe-happyq | 2007-02-10 10:50 | 長崎伝習所系 | Comments(0)

妖奇士&いろはにほへと

どちらも2回たまったら一気に見るパターンで視聴中。

妖奇士のほうは、
先々週に寺社奉行・阿部伊勢守が空気銃で狙撃されて、
危ないところ(爆)でしたが、それよりも最近、鳥居さまが登場しないような。
かなり怪人っぽい異様なキャラですが(史実のご本人はシャープ顔のちょっといい男らしい)
なんだか出てこないと寂しいです。
これほど江戸で嫌われた町奉行もいないというほど、評判の悪い鳥居ですが、
岩瀬肥後守と堀織部正の母方の叔父さんということもあって、興味津々の人です。
長い幽閉生活に耐え、その間に医学を身につけて幽閉先で病人を治したりしながら、
明治まで生き残って自由を得たそのバイタリティーには見習うべきものがあります。
「いわんこっちゃない、開国なんてするから瓦解したのだ」
なんて言ってたらしいですが、筋金入りの洋学嫌いとしてはまさにこの感想だったでしょう(笑)。
そんなかれはこのアニメでも洋夷、ではなく、妖夷を退治・・・・していくのでしょうか?

そしていろいろなところで噂になっていた「幕末機関説いろはにほへと」。
正月の再放送でざっと見て、最新ONAIRになんとか追いつきました。
が・・・・、品川沖脱走時の榎本さんにとんでもないものがとりついてしまって以後、
どうもそれが心配すぎて、主人公のことも、
せっかく出てきたかっこいい土方歳三さんのことも、
なんだかうわの空でとてももったないないことをしております。
(そーかそんなに榎本が心配か、と贔屓の大きさを痛感いたしました)
とはいえ、このアニメの土方さんとてーも素敵です。
声優さんは違えど、声の感じが「銀魂」の土方に似ているのもオツです(笑)。

それはいいから、誰か、はやく榎本さんをフツーにしてくださいっっ~~~。
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# by aroe-happyq | 2007-02-09 10:35 | ほんの世間話 | Comments(0)
今日はちょっと自分用のメモみたいですいませんっ。

松平乗謨は最後の三河奥殿藩藩主(後に信濃田野口に移る)で、
そして日本で最後にお城を作った人。
17歳で和漢の学問を修めきって(この年齢で宣言ですか。スゴイ)、その後は大好きな洋学、それも洋学砲術・築城学へどっぷりはまった俊才。
いくら幕末の混乱期とはいえ、24歳にして若年寄とは驚きです。
藩主としては、西洋築城学の研究から、やはり洋式の城、五稜郭を築きつつ、
幕政では、開明派として知られ、陸軍奉行、そして陸軍総裁(老中格)になって軍政改革をおこないました。
ちょっとどうでもいい話では、この人は永井玄蕃頭の親戚(いとこ?)。
永井の実家の叔父さんの息子さんです(甥ともいうか?)。
叔父さん(永井)は軍艦のエンジンだの大砲好きだし、
甥と話が合いそう・・・・。←メカオタ会話!?
奥殿松平さんの血には好奇心旺盛で、新しいモノ好きDNAが入っていたのでしょうか(笑)。

さて、竜岡城五稜郭が完成する前に、明治に。
彼は若いし、優秀な人材だったので、大給恒と改名して、新政府に出仕した。
有名なお仕事はメダル取調御用掛(爆)。
政府としては勲章スタイルを制定しなくてはならず、彼が世界中の勲章を研究し、
やがて日本の勲章デザインを確立させた。
一説には文化勲章を除いて、ほとんどの勲章は大給恒によってつくられたといっても過言ではないという(勲章の影に大給アリ!か??)。
のちに日本赤十字社の前身、博愛社を佐野常民とともに創立した。

地味ですけど、輝かしい業績を残された人物です。
メダル取調・・・・・ってのはちょっとツボでしたが、やはり幕末の軍政改革のおいての
彼の役割について非常に興味があります。
おそらくプチ五稜郭作っちゃった人として有名な人だとは思いますが、
一方で日本の勲章といえばこの人というのがナイス!(おいおい)です。

と今回はメモ代わりの基本編。
もっといろいろありそうな人なので、またなにかありましたらいつかの次回!

エキサイトブログにもようやくカラーだの、太字だの、文明開化がやってきたので
さっそく太字を使用!(まさかメダルのところで使うことになろうとは(爆笑))
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# by aroe-happyq | 2007-02-08 10:36 | 江戸東京あれこれ | Comments(0)
まだ本にまとまっていない小川恭一氏の柳営談がこちらでダウンロードできるのです☆

このサイトにたどり着いたのは先日の江戸城展をみたあとふと思った疑問が発端。
「江戸城職員のトイレってどこにあったのかな?」
・・・・いささか尾篭なお話ですいませんが、でも一日中働いていたら
老中や目付や奉行たちにとってトイレは食事の次に大事な施設のはず。
で探したら、家にあるのは将軍さまのおトイレ事情の本ばかり。
職員のトイレは・・・・・!?
とことん徳川家臣を調べつくすと決めた以上、やはり知らねばなるまい!

で、答えは上記の小川さんの文章たちの下のほうにありました。
「江戸城のトイレ、将軍のおまる」 です。

しかしそこには悲惨(悲喜劇というか)な話もちらほら。
評定とか、儀式とかでどうしてもトイレにいけない事情がままある江戸城ワールド。
最終手段は「おもらし」しちゃうとのこと(涙)。・・・・・合掌です。
そして、トイレにいったらひと間違いされて、あだ討ちされてしまった細川の殿様の悲劇。
犯人はじっとトイレの暗がりで潜んでいたらしいが、殺そうと思っていた人と細川さんの家紋
が似ていたのでついつい・・・・。こんな場所でしかも間違いで落命した殿様、哀れっす。

そして題名の、家茂のぷかぷか。
同方会3号の回顧談からの引用でしたが(うかつにも未チェックですた)、
大阪湾で船に乗ることがままあった、家茂将軍。
彼が船上でトイレしたくなると、さっとおまるが用意され、彼の周りは布で囲われる。
で、用済みになったおまるはなんと使い捨てで(爆)、そのまま海にドボン!
・・・・・それって、もしかして、家茂は上洛する際に江戸から大阪まで船旅をしたけど、
その間もこのおまるポイ捨て作戦だったのだろうか。
太平洋にいくつもの、おまるさんがぷかぷか・・・そして、今も海のどこかに
眠っているのか・・・・・。
それとも上洛時は、洋式軍艦だから、
艦長(当時だと船将)用西洋トイレを使った可能性もある?
(それじゃ勝安房守と共用になってしまふか(汗))

いまどきの言葉でいえば、人に優しいと評判の家茂将軍も、
地球には優しくない将軍だったわけですね(笑)。アンチエコ将軍・・・・。
(すると、慶喜のおまるも海のどこかに・・・・・・・あるわけだ(爆))
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# by aroe-happyq | 2007-02-07 10:38 | 江戸東京あれこれ | Comments(0)

カノッサの屈辱2007

ホイチョイの映画の宣伝とはいえ、一夜かぎりでも復活がうれしかった!
そのぐらい、「カノッサの屈辱」は大ファンの番組。

そして今回もあきれるぐらいどこまでもパロディをしながら、
「携帯電話」の歴史を見事におもしろくみせてくれた。

しかし、この番組の面白さを、世界史や日本史未履修な若者は
わかるまい。

この深夜の、知的でばかばかしい遊びは、世界史や日本史を
ひととおり高校で学んでいないと楽しめないだろう。
知識とは、試験のためにあるのではなく、人生を愉快に過ごすために
活用するものだと思う。
そのためには面白みのない基礎は苦労して吸収することになるが、
(年表とか、人物の名前とか。ローマ皇帝の長い名前は実に覚え辛い!)
それを乗り越えて、応用の段階になり本をどんどん読む段階になると、
格段に歴史(人間というものを知ること)は面白くなってくる。
この番組についても、とんでもなく楽しめることになるしね!

ひとつでも多くのことを知っていればいるだけ、人生は豊かで面白くなる。
・・・・というのが持論なのだけど、この番組は改めてそのことを教えてくれた。
「ベル左右講和条約」・・・・・・このすっとぼけた可笑しみを味わうために、
世界史、日本史、勉強しましょうね!(って誰に言っているのでしょうね(笑))
ただし教科書をそのまま信じてはつまらないので、ひととおり基礎を覚えたら、
自分で本を読んで、自分なりの歴史を紡いでいきましょう!
(幕末維新はとくにですが、教科書とは違う新たな世界へ飛び出そう)

それにしても、この番組、そして当時少し遅れて大ヒットした「料理の鉄人」
ともに、富士電視台(中国語でいうところのフジTV)系列の日本テレワーク製作だ。
「あるある」騒動で話題の会社だが、このように面白い番組を作り出してきた
ホントは腕のある会社なのだ。どうかまた面白い番組を作ってほしいですぞ!

カノッサの屈辱、またまた続編希望しまーす!
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# by aroe-happyq | 2007-02-06 18:45 | ほんの世間話 | Comments(0)
金曜日にタモリ倶楽部をみたら「江戸市中引き回しツアー」という企画で(爆)、
小伝馬町から延々・・・・引き回しルートを歩くというゆるーい番組をやっていた。
そこで、紹介されていたのがヤフーの期間限定サービス江戸・明治・昭和地図
というかそれを頼りに番組が進んでいったわけで・・・・。

というわけでさっそくそのサービスを使ってみた。
自宅付近は・・・・周りは繁華なところだったようだ。自宅あたりは一万石の大名さんの屋敷だったのだが、明治には・・・出た!やっぱり茶畑だ!!いいかげんな跡地利用の典型にうちのあたりもなっていた(涙)。そして昭和には元の町並みに。
繁華→廃れて田園→繁華。
これがうちの近所の歴史かぁぁ。なんだか進歩、後退、進歩・・・・・・。
ぶっちゃけ、自宅付近の歴史限定でいえば、明治時代は無駄な時間の浪費!?(涙)

それからはもちろん岩瀬、堀邸(みんな築地木挽町界隈)を探す。すぐにみつかった。
次は川を北上して永井邸を・・・・・。永井邸は日本橋浜町・・・・・・。
ん?あれれ、まてよ。永井能登守(養父の名義)邸は・・・・なんと、
永井肥前守(本家)の敷地、つか池になっているよ!(爆笑)

この古地図、どこかでみたと思ったら、江戸東京博物館の常設展示コーナーの床に張って
あったのと同じだ!だってそれにも同じ現象が起きていたのだから。
(池になっている~~と心で叫んだ記憶が)
うちにある切り絵図にはちゃんと能登守邸(三千石)あるんですけどねー。
ただ、うちの地図は古くてまだ堀田老中の屋敷が浜町にあった頃のなので、
このやふーとか博物館の地図だと、江戸城辰の口屋敷(老中首座の公邸)に堀田さんは移っているので、こちらのほうが後年のバージョンだ。
では永井ん家はどこに・・・・・。一瞬、玄蕃頭尚志は大きな屋敷をもらったので、
(すぐに罷免、永蟄居なので屋敷を返上しちゃったのだ)
湯島~小石川のほうにでも・・・・・。探したが、「永野岩之丞」という家はあったけど、
まさかこれじゃないしなぁ(玄蕃頭とつけてくれないはずはないし)、とやはりみつからない。
するとやっぱり、養父と妻子と池に住んでいたのでしょうか(爆笑)。←河童かい
ちなみにこの地図には矢田堀ん家はあっても、
榎本さん家はなかった(神田和泉町三味線堀近くの組屋敷街なのですが)。

とかなんとかいいながら、存分に楽しみました。
ぐーぐるあーすと張るぐらい、ナイスなサービスです!
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# by aroe-happyq | 2007-02-05 09:56 | 江戸東京あれこれ | Comments(0)
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(←画像をアップしたら白い本なのでどこまでが本だかわからないっっ)

随分まえに近所の図書館でみかけた、浜離宮と幕末に焦点をあてた本。
本屋さんで見かけたら、もう一度読みたくなって買ってしまった・・・・。
自分はホントに御浜御殿が好きなのだ、と改めて実感(笑)。確かに十年ぐらい前、まだ汐留がJR跡地で伊達家屋敷の大規模発掘調査中だった頃に、何度も足を運んだ。
今は汐サイトとかいうビル群に囲まれてしまったが、その当時は潮風も心地よく、空もよくみえて、とても良い気分を味わった。
ただその頃は甲州藩下屋敷を偲ぶツアーとして、友人を案内したのだが・・・。
時を経て、幕末までちょっとかじってみると、むむむここは徳川海軍にとって
とても重要な場所だし、木村摂津守の育った家(爆)でもあったのだ。
この本はそうした幕末の、木村御浜奉行の管理する将軍の庭だった浜御殿から、
軍艦操練所、そして幕末を経てめまぐるしく変っていくこの場所について紹介している。

細かい箇所で間違いがあるものの(エラそうですいません)、面白い話をたくさん
知ることができる。
例えばペリーからもらった通信機をここで初めて将軍家定に披露した場であるとか、
(通信機を動かした日本初の場所になるのかな?)
家茂の棺が大阪から上陸したのもこの地。
そういえば、大阪から開陽で“帰ってきちゃった”
慶喜と会津、桑名、板倉一行もここから上陸したわけだ。
(ついでにいうと、お腹が減っていた彼らにこの浜御殿で木村芥舟がビスケットを
食べさせたという可愛い?エピソードの地でもある・・・)

最初は甲州家の海手屋敷となり、将軍の庭になり、軍艦に乗るVIPの出発の場になり、
パークスや朝廷の使いを接待する場所になり、明治になったら鹿鳴館もありましたっけ(汗)。
この江戸初期の埋立地も幕末~明治には随分活躍したのですね。
今は都民の憩いの場、公園(とはいえ有料)になっておりますが。

再訪して、しみじみと往時を偲んでみたいものですが、今は高層ビルに囲まれて
かなりしょぼん・・・なので、頭のなかだけにしておこうっと。
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# by aroe-happyq | 2007-02-04 18:27 | | Comments(0)
とうとう出ましたか!? 日本書紀が歴史の捏造だらけの証拠が!?
・・・・とわくわくしてみた、昨日のNHKスペシャル。
面白かったです!

大唐帝国や近隣諸国との融和を図りつつ、飛鳥の都の防衛を固め、天皇(でもこの時代はまだ大王)を守護する蘇我氏三代。彼らは渡来系の一族ということもあり、開明派であった。
一方、保守攘夷派の中大兄はそんな蘇我氏の方針が気に入らず、中臣鎌足とともに、
ついにクーデターを起して、蘇我氏を滅ぼす。
蘇我氏亡き後、中大兄は新たな改革案もないまま、天皇への忠誠を強めようとキャンペーンを展開(尊王キャンペーンとでもいうか・・・)なんとかその場をしのいだが、
同盟国百済が唐や新羅連合軍に攻められると、情勢判断もしないまま、意気揚々と大軍を派遣して、見事なまでの惨敗を喫した(白村江の戦い)。
その後、天智天皇となった彼はあわてて、唐からの攻撃に恐れつつ、中央集権、律令国家の道へと歩み始める。
・・・・・・・つまり、大化の改新といわれるものはなかった。

というのが、発掘や史料の読み直しから現時点で分析したこの番組の説。

大化の改新については以前から怪しいなぁと思っていた。
信用がおけない日本書紀でもいくつか真実といえる記述を拾っても、
蘇我氏が奸臣だとするなら、それを倒した中大兄に向かってその母斉明天皇が、なんということをしてくれたのだとひどく怒ったとか、改革の具体案がぜんぜん載っていないとか、蘇我氏の名前が馬子だの入鹿だのとわざと動物の名前に変えているクサイとか(一生懸命蘇我氏を貶めないと自分たちが肯定できないのか?という疑問が)、日本古代史の素人の自分からみても、なんとも釈然としなかったのです。
そんなわけで、昨夜は少しだけすっきりしました(笑)。

しかし、開明派っていつの世も脇が甘いのですかね?(涙)
頭の固い保守派にあっさりやられちゃう。
そして日本って開明派より復古的な保守派が「~○新」とかいって、秩序をぶっ壊すだけ壊して、せっかくの進歩の芽を摘んで、(でも必要に迫られて結局は開明派のやろうとしたことを急いで真似て)わざわざ遠回りをするのが好きな国なのか?

ちょっと重いため息がでちゃいます・・・・・・。
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# by aroe-happyq | 2007-02-03 10:52 | ほんの世間話 | Comments(0)
昨年?おととし?のCUTで初めてこの映画の製作を知ってからずっと楽しみだった映画。
ソフィア・コッポラ監督なら予算はかけまくりだろうし、
ポップな映画になるだろうと思っていたら、
まったくそのとおりのゴージャスな作品になっていた!

とはいえ・・・・映画をみて驚いちゃったのは、
「ベルサイユのばら」って改めて、凄いってこと!

この映画は最近出されたイギリスの歴史家のマリーアントワネットに関する伝記をもとに
作ったそうだけど、「それまで悪女というイメージだけでない、等身大の彼女の姿がはじめて浮き彫りにされた」というが、日本の漫画はもうン十年前に、すでにその境地に到達していたのだ。
池田理代子さん、よくぞお調べになられました。すごいです、ホント。
なので、あらすじは昔に親しんだベルばらを思い出しながら、まるでなぞっていった感じで、
単にオスカルとアンドレ、というかジャルジェ家がないだけ!?(爆笑)でした。
いやぁ、日本の名作漫画のレベルの高さに改めて驚きっす。

というストーリー面は置いといて、ベルサイユ宮殿全面協力という恵まれた映画だけあって、
英語という以外は(フランス語のほうがムード出る!)、とても満足でした。
お菓子も美味しそうだし、フランス王朝の因習(王族にプライバシーはなく、出産までギャラリーがいる世界)についても本で読んではいたけど、映画でみるととんでもなく、ぎゃほー(@のだめ)な感じでした。
マリーといえば「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」
で有名ですが、これってただのゴシップ記事だった、というのは新鮮でした。
いや、こうして反対派の宣伝がまるで事実のように歴史で語り継がれてしまうって
ままあること。怖いですね、悪意あるメディア情報と人の噂って(汗)。

さてさて、この映画、賛否両論だそうですが、
歴史映画って真面目で、暗いだけじゃ面白くない。
ホントはこういう映画をフランス人の手で作ってほしいけど、なかなかブルボン王朝を賛美
するっぽい映画はまだまだ作りにくいだろうし。
だから、ハリウッド映画で、現代からのこういう形のアプローチもアリ!だと思いました。

ただタイトル的には「ベルサイユのマリーアントワネット」のほうが妥当かな?
(ネタバレになるのでわけは書けません)
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# by aroe-happyq | 2007-02-02 10:51 | ほんの世間話 | Comments(0)
本日、2月1日は旧暦の12月14日。
つまり、元禄15年に赤穂浪士が吉良邸に討ち入った日。

たしかその日って大雪の次の日だったはず。

平成の今日は雪の気配ゼロの、かなりの暖冬です!
昨日なんて春かと思っちゃいました。
この気候の違いはなんだ!(笑)

赤穂の浪士の義挙、ということで有名だけど、
吉良さんの事情を思うとちょっと胸がいたい。

賄賂をねだったとか、いじめたとか、こういう有名な話は実のところ、
浅野さんがなぜ吉良さんを襲撃したのか、はっきりしないゆえの憶測にすぎない。
吉良が「まったく、なぜ斬りかかられたのかわからない」
と3月14日の事件後の取調べで証言しているのは本音ではないか。
浅野に賄賂をねだるほど銭に困ってないし、勅使の接待の準備で、
いじめる暇もなかったのだ。
もし浅野さんが怒ったとしたら、ちょっと心あたりがあるのですがそれは旧暦シリーズの
3月14日の日に(爆)。

さて、浅野に斬りつけられてからの吉良はさんざんだった。
将軍の下した吉良への処分が軽すぎたのも、世間の悪い評判に油をそそぎ、
痛くもない腹をさぐられ、高家のトップ的役割からはおろされ、
ついには屋敷を本所に移すことになった。
まさかそんなことになるとは思いもしなかったため、移転前の一等地にあった屋敷は
趣向をこらした素敵な家にリフォームしたばかりだった。
それを捨て、泣く泣く本所へ。
華麗な交友関係の友人ともなんとなく疎遠になり、吉良は気鬱の病で床についてしまう。
やっと床から這い出して12月の初旬には茶会など催して(実は赤穂のみなさんは
茶会とぶつかるのを避けて14日に討ち入り予定日を変更している)
再び家はきれいにしたいと、本所屋敷をリフォーム中に12月14日はやってきた。
改装中だったため女中たちは別の屋敷にいたことで助かったが、どうやら
赤穂浪士に襲撃されるなど露とも思っていなかったらしく、無防備なままで襲われている。
いや、しかし予兆はあったはずだし、幕府の知り合いからは危ないよと警告は受けていたと思うので、それを信じなかったというべきか。
「まさかそんなこと・・・・」
とおもっていたのかもしれない。だって天下泰平の世だもの。

討ち入りされなくても、吉良はすでにしおしおでよれよれで、やはり同情してしまう。
もちろん、主人の一瞬の暴挙で無職になった赤穂の浪士も気の毒だ。
この事件、誰が悪いって、やっぱり松の廊下事件で、
微妙な裁定をくだした綱吉だと思うのだが、どうだろうか?

よくある「裏の裏の歴史」というやつで、実は徳川家康は征夷大将軍になるため、
源氏の系図を吉良家から買ったという話があるとかないとか(笑)。
それゆえ吉良家に頭が上がらず、五代将軍としてはいいかげんなんとかしたかった・・・・
なんて、それはただの噂ですけど(笑)。

でもやっぱり義挙ということになっていますが50人弱で
明け方に屋敷を襲うって、どんなに理由をつけても武士のモラル的にそれって・・・・。
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# by aroe-happyq | 2007-02-01 14:56 | 旧暦シリーズ | Comments(0)

あれよあれよで半年。

気がつくと、八朔の日にいきなり思い立って始めたこのブログも半年が経ってしまいました。
元来飽きっぽい自分がこんなに続けてこられたのも、
ひとえにもふたえにも、わざわざこちらのお越しくださり、
言いたい放題のつたない文章を読んでくださるみなさまのおかげです。
謹んで御礼申し上げますっっ。ありがとう~~!!

半年にしてやっとこさリンク集コーナーをつくったという亀亀すぎるブログですが
これからもどうかよろしくお願いします~~~。

半年記念ということで、いきなりスキンも春!にしてみました。
梅よりも桜が好きなもので・・・・・・・。
でもきっと今頃、皇居東御苑(旧江戸城)では梅が見ごろです(笑)。
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# by aroe-happyq | 2007-02-01 09:35 | お知らせ | Comments(0)

リンクを少しずつ・・・

初心者にはちょっとわかりにくくて、なかなかリンクコーナーを作れず半ば放置(汗)
していたのですが、その方法がわかったので、このたびちょいちょい作業を始めました。

おそらく解説をつけるべきなのは、風俗博物館ではないでしょうか。
源氏物語を前面にどーんと打ち出してはいますが、
ページの下のほう・・・・・・・・の日本風俗史のコーナーの、
江戸時代や近代の服装というところがツボでして。
最近は行っていませんが、以前はこの博物館では時代ごとに特集をしていて、
京都へ行ったときに寄ったりして、運がよいと自分の興味ある時代の風俗人形が
たくさん出迎えてくれたのです。
(ま、最近は源氏というか平安絵巻がどーんと・・・・・・・・)

そんなわけでまだまだつたないばかりのブログではありますが、
あいかわらずのマニア心で、こつこつと進めてまいりたいと思いますので
よろしくお願いいたします☆
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# by aroe-happyq | 2007-01-30 11:03 | お知らせ | Comments(0)

国会図書館に行く。

仕事の調べもの・・・・・・という理由をつけて、今年初の国会図書館にいってまいりました。
調べものをしながら、本を請求し、雑誌を請求し、コピーにいき、雑誌はオンラインコピー
したり・・・・・・といつものごとく、落ち着いたかとおもうと動く!の繰り返しでしたが、
今日はとっても空いていて♪、サクサクと作業が進みました。
(論文シーズンはそういえばほぼ終わり?のはずなので、それもそうかと・・・・)

本日のメインの獲物(爆)は、『岡山県史』26巻に収録されている、
「艱難実録」というもの。

木村宛書簡の史料をコピーした際、同じ『横浜開港記念館紀要11号』のなかに、
西山武臣 「松山藩士の見た戊辰戦争」
という史料紹介があり、興味津々でこちらもコピらせてもらったわけで、
そこで紹介していたのが「艱難実録」だったのです。

これは松山藩主板倉勝静の家臣辻七郎左衛門の回想録。
朝敵となり北へ北へとむかう板倉の、箱館、そして蝦夷地脱出、自首を傍らでつぶさに
みていた回想で、当事者でない分客観的にみているので興味深い。
だけど板倉&小笠原は、「大名はいらない」榎本たちに冷遇され(爆)、そこのあたりは
忠実な家臣として涙涙の・・・・軽い恨み節が入っていて、厳しい榎本発言なども楽しめる。
で、その「艱難実録」の原文が読みたくなったわけでした。
(おいおいこちらも紹介していくつもりです)

それから、昌平坂学問所に関する論文4本などなど、なかなかの収穫でした。

自分で昔からささやかながら不思議な能力というのがあって(笑)、
ぱっと本をひらくと、探そうとしている項目にバッチリ当たること。
今日も寛政譜で、とある元禄時代のある人を探そうと、まずは索引で巻数を確認し、
その巻を適当に開くと、その名前の人にピンポイントで当たりました。よっしゃ!
ということで仕事の調べものがスムーズに進んだ分、趣味に時間を費やせました。

ただ、ひとつだけ失敗したのは、請求した紀要がまだ国会図書館に未納だったこと・・・・。
この紀要、たしか2004年なのですけど・・・・京都大学さん、もう何年たっているのでしょう。
待ってます・・・・。
だって、論文の後半(つまり(下)というやつです)が収録されているのに!

都立図書館も、なかったし(あるのですが途中で停止になったまま)。
ちょっとほかのところもいったら、2002年でとまっていた・・・・・・・。
国会図書館は2003年で止まっている。←なので(上)だけがうちにあるのだ!
かならず探してみせよう、ホトトギス!(爆)

*追記*
探していた紀要は、あっけなく
京都大学で電子無料公開していたので、PDFで保存しました。ホッ。
だけど93P・・・。プリントアウト・・・・。
(上)はB4コピー済なのに、こっちはA4。嗚呼、我的コピー収集美学が・・・。

ちなみにその論文とは、
高橋秀直「文久二年の政治過程」 京都大学文学部研究紀要42.43号掲載
でして、電子公開は、
こちらです。

岩瀬の史料がそろいつつあるところで、永井さんのことを調べていくと、
このあたり(文久二年)は押さえておかないといかんと思い、
今まで王政復古の論文をいろいろ拝見してきた高橋さんの論文にて教えを乞おうかと思いたった次第。
(上)を読みましたが、とても面白いです。
(さらに41、44にも高橋さんの論文があります!・・・・44号のは今日知りました♪)
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# by aroe-happyq | 2007-01-29 19:01 | 広く幕末ネタ | Comments(2)
香港唯一の映画雑誌、電影双周刊が休刊となった。

映画は娯楽であり、ただ消費するもの・・・・という観念の強い街で、
映画論、その芸術性についても真面目に取りくんでいた良心的な雑誌だった。

香港にいくとかならず街の売店で即刻この雑誌と新聞を買い、映画のチェックをしたり、
日本で通販したり、バックナンバーを求めて、この雑誌社にお邪魔したこともあった。
香港映画好きにとっては必須アイテムだったのだ。

確かに90年代の香港の好景気の時代(途中にブラックマンデーがあったとしても)には
相当に厚手だったこの雑誌も、97年の回帰、そしてSARS騒動をはさんで、
香港の不景気、そしてメインチャイナの経済的な台頭のなかで、
映画産業の低迷とともに、ずんずん薄く、内容もさみしくなってはいた。
なにせ香港で映画に投資する企業は、即儲からない映画には投資してくれないし、
そのあたり芸術性など無視、というか、超合理主義であるから、
不景気=映画産業の衰退とわかりやすい構図になっている。
投資がなくては映画は作れない。
香港の映画人もまた合理主義なもので、活路を求めてメインチャイナに、
アメリカに、たまに日本や韓国に・・・・香港以外に活動の拠点を移してしまった。
おかげで香港映画は若手が育つ環境が整わないまま、ここまでの危機を迎えてしまったのだ。
そうした映画界の影響をもろに受けながらも、この雑誌は映画人を支え、かなり努力して存続していたといえるかもしれない。

だけど、なんだかなぁと思うのだ。

映画は芸術!とは思わないにしても、こういう熱意ある雑誌が消えていくのは寂しい。
これから映画の情報を得ていくには、新聞記事のゴシップの隅っこに出る情報を
眼を皿のようにしてチェックしなくてはならないし。
おそらく、こういうものは失われてはじめて、その便利さとか良さがわかるものだろう。
資金繰りの悪化が休刊の理由らしいので、ぜひとも素敵な企業が現れるように、
廃刊ではなく、復活するように、願うばかりである。
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# by aroe-happyq | 2007-01-29 10:48 | 香港&アジア映画 | Comments(0)
児玉さんの本はほかにも『宮廷柳営豪商町人の食事誌』などいくつかもっているが、
この『日本の食事様式』はとくに興味深く、何度も何度も読み返している本。

日本には中世からはぐくまれてきた伝統的な日本料理があり、
それは支配層が変わるたびに形をかえて、より豊かに継承され改善されていき、江戸時代に
いたって「本膳料理」という最高の姿となった。
今はなき、その本膳料理がどんなものだったかは、史料も乏しく、幕末に日本にやってきた外国の人々の記録、または外国使節への饗応料理の記録によってかろうじてその姿がわかる。
酒で酔って舌が鈍るのを防ぐため、本膳料理を味わう間は酒はなく、白湯のみで、料理を楽しむ。(酒を飲みながらの料理は別につくり、それは「酒膳料理」といった)
西洋のディナーのように前菜に始まって、次々に料理がでてくる趣向で、あまり量をとりすぎないために白飯を絶妙なタイミングで腹におさめていく。献立の料理は医食同源にかなうもので、現代の栄養学からいっても非常にバランスのとれたものであったらしい。
酒を飲まず、料理のおいしさをじっくり楽しむ・・・・・。なんという風流な!と思う。

ペリーに饗応した場合などはお一人様三両というとんでもない値段だが、こうした饗応料理をどこの店に発注するかを応接掛の面々(勘定奉行とか、目付とか外国奉行たち)が決めるあたりをみると、この人たちも三両の最高料理ではなくても、そこそこのお値段で食べにいける本膳料理もあるらしく、ときには自宅に仕出し料理として注文することもあったらしい。旗本の中流クラスなら味わえた日本料理であったとみえる。
そして徳川瓦解とともに、本膳料理は消えてしまった。

明治の新支配層は味オンチが多く(私が言っているのではありませんっ、本に出ているのですっ)、あまり本膳料理には興味がわかず、最初から酒を飲んで食べる(できればそこに芸者もいるとなおうれしい)、酒宴料理、今の料亭料理のような形のものしか欲しなかったというのだ。
またそれまでの政権の移り変わりと違って、明治の支配層は徳川とほとんどかかわりのない人たちであったため、例えば室町の足利将軍から信長、秀吉、家康というような近い関わりの支配者の移行と違って、徳川から明治への政権交代では、日本料理の伝統を継承する流れが途絶えてしまった。
もちろん明治になると西洋料理という新しい文化がはいってきたので、本膳料理の伝統継承はそれだけでもかなり厳しかっただろう。しかしこうした事情で、本膳料理という名の日本料理の伝統は明治をもって消えてしまったのである。

『日本の食事様式』はもちろんその後の日本の食事についても書かれているが、本膳料理などというもの自体を知らなかったので、最初の読んだときは、誰か再現してくださーーい!と叫んだものだが、しっかりとしたレシピがないらしくなかなか難しいものらしい。
でも、ハリスやアーネストサトウやロッシュが知っているのに日本人が知らないのはかなり哀しい。

岩瀬たちが親しんだはずの本膳料理、いつかかならず・・・・せめてテレビ番組で再現した姿をみてみたいものだ。
(もしかすると、長崎の卓袱料理はその流れを受け継いでいるような気がするのだか?)

・・・・永井介堂の、木村宛書簡に書かれていた、岩瀬忠震没後三十年周忌を開催した枕橋の料亭八百松は本膳料理っぽかったのだろうか?参加した木村&永井、そして勝海舟、榎本、荒井、白野・・・・その他諸氏、誰か教えてプリーズ!(笑)
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# by aroe-happyq | 2007-01-28 14:09 | 江戸東京あれこれ | Comments(0)
2003年の正月時代劇。
もちろん当時の本放送をみたのですが、
CSの時代劇チャンネルでの再放送を録画して、またまた観てしまいました。

2003年のときは一般的な幕末知識のちょっと毛がはえたぐらいだったのですが、
今回は詳しくなっていた手前、細かいところで突っ込みやら感動やらいたしました。

とはいえいまでも小栗さんに関してはそれほど詳しくなく
(岩瀬たちと接点がないために後回し中・・・・・)、
横須賀のドッグを造ることに心血注いで、またフランス式徳川陸軍の組織の際にも
尽力した優れた幕臣という知識はありますが、自伝など未読なので、
ドラマは素直に拝見しました。
(ただ・・・洋装はまだ早いのでは・・・・などと軽く突っ込みはしましたが・・・・)

そのなかで、
2003年当時にも驚いたのですが、徳川慶喜さんのダメダメな描かれ方に再笑撃・・・・。
いつも勇ましい役を演じられる比留間さんがなんともわがままでトホホな上様を
見事に演じられていて・・・・・・。仮にも大河の主人公になったこともある、慶喜さんが
これほど見事に、ときどきかなり正直(爆)に描かれたこともなかったでしょう。
大阪城から逃げ帰ってくるあたりの慶喜は・・・・素敵でした。
(わたしのなかの慶喜さんは十年以上前からこんな一面を持つ頭の回転のよい人。
頭が回りすぎてたまにショートなさるぼっちゃんなイメージがあります。だからといって嫌いにはなれない感じで、むしろその器用ななかの不器用さがやみつきです)

ですが!
いきなりラストのほうのことで恐縮ですが、
出ていたのです、大鳥圭介&榎本釜次郎さんが!!
慶喜が江戸に戻ってきてからの大評定のシーン。
小栗のうしろに控える、二人が!!
釜さんを演じている若い俳優さんは知らない方でしたが、
圭介さんは長森雅人さん!←男前です!!
ちょんまげで陸軍の黒い制服でした(その前のちょっとしたシーンでは裃でした)。
釜さんはどっちのシーンでも洋装。ひげなし。

ちょっと小栗さんが羨ましいのは(って誰の立場になっているのか?)、
知行地をお持ちだったこと。
岩瀬や永井や堀たちは、当主ではないため、ただのサラリーマンなので。
自分の領地があると何度辞めても食べていけていいなぁ・・・・・・(笑)。
でも知行地に隠遁したからあらぬ疑いをかけられてしまったのか?小栗さま。


いけませんね、すっかりマニア観してしまいました。
でも同じく時代劇チャンネルで「燃えよ剣」の最後の二回ほど
なんとなくみてしまい、ここの大鳥さんと榎本さんがビミョーだったので、
小栗ドラマのおかげでスッキリしました。

しかし、幕末物でしかも小栗さんや榎本さんたちがド映像になるだけでも
ほとんど奇跡に近いのですよね。ケチをつけてはバチがあたるかも。
再放送をみてありがたみがさらに増しました。

岩瀬ドラマも出来ないかな・・・・なんて大それた望みは抱いてはいけないのです(涙)。
だって真面目なだけのキャラにされたら、それこそ良さが半減ですから(爆)。
(冗談ばかり言う主人公なんて時代劇コメディーになってしまいますし←むしろ大歓迎)

それにしても、小栗さんも本当に日本にとってもったいない人物。
この人を殺めてしまうなんて、西軍も頭のめぐりが悪いこと・・・・です。
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# by aroe-happyq | 2007-01-26 18:57 | 幕臣系 | Comments(0)

江戸城展。

開催を待ちわびて、年始に行くはずが風邪でヘロヘロになり、やっとやっと
行ってきました。だが・・・・・・・・・・苦労して、空いている平日の昼間を狙ったのに、
こ・・・・混んでいた(涙)。
たしかに上野の国立博物館の国宝展のような殺人的な混み具合ではなかったですが、
混んでいると、妄想に耽りながらじっくり展示物と対話(爆)する余裕がないので、
困るのにーーっっ(すいません、ビョーキです)。

江戸氏の発展から始まり、なかなか徳川江戸城にたどり着かない構成でじらされつつ、
いきなり「登城」コーナーから愛しき江戸城ワールド満開となりました。
いろいろあるなかで衝撃だったのは、・・・・無知をあえて告白しますと、
江戸表(行政部分)の建物、いた中奥(将軍居住部分)もですが、二階建てだったこと・・・・・・。
わたしの机に常駐の長年の愛読書、深井雅海著『江戸城をよむ』では城中図はぺたんこ
だったので、まさか二階があるなんて思いもよらず、ショックだったのです(汗)。
で、二階の城内図をみると外国方とか、諸役人の一部が二階に御用部屋(執務部屋)を
持っていたのでした・・・・・・・・。ドラマで階段あがっていく役人なんて見たことなかったのに!
おかけでこの「江戸城に二階があったとは。なんたる己の不覚・・・・」と頭のなかがこれで一杯になってしまい、真ん中あたりでは、展示物をフツーに見られませんでした(爆)。
ですが松の廊下の模型があると、「あ。ここで榎本と矢田堀となぜか若年寄の立花が、戊辰の年に号泣した場所・・・・」と、感慨に耽ってしまいましたが・・・・。
たぶん一般的には松の廊下といえば、赤穂浪士の発端・・・・・・と思うべきでしょう(笑)。
マニアは本当によろしくないです、はい(反省)。

この江戸城展、入場してすぐ家康公の木像にお出迎えいただくのですが、見送りは、
勝海舟の絵でした・・・・・・・・・・。なかなか風流な趣向です(爆)。
でも出口出てからのサプライズ!なんと幕末の江戸城付近の写真パネルが並んでいました。

常設展示もほうも行ってきました。しかしマニア魂をあおるかのように、なぜか
「徳川家茂とその時代展」を開催中で・・・・・・・・・・・・・。
こ、こっちのほうがよ、よかったです(おいおい)。
家茂くんのファンとしては、ちょっとたまらない展示がひっそりとありました。
(前期展示は今週までで、後期が来週からだとか!。入れ替えとはっ。ええい、また来なくちゃ!!)
11歳から21歳まで、それも一番たいへんな時期に将軍で、はっきりいってお気の毒な方ですが、ひじょうに優れたる資質をお持ちで、惜しむらくはもうちょっと大人であったなら・・・・と思える将軍です。大人の家茂とその傍で宮廷政治を操る慶喜さんがいて、岩瀬忠震が存命であったなら、戊辰もかなり違った展開をみせたかも・・・なんてぼやいてはいけませんね。

その家茂の言葉集(こんな記録があるのですね)とか、松平春嶽への書状とか。これは政治総裁職に就いた春嶽が思い通りにならないため拗ねて出仕してこないので、顔を出してほしい旨伝えた内容。困らせているのは御自分なのに、手紙をもらって嬉しかったらしい(あいかわらず勝手な男、春嶽さん(笑))。
そのほか、いろいろ良かったです。北斎展もやっています(常設展示内)。すごく美味しいです。
(その他、こまごましたレポはまたいずれ☆)

さて、図録や・・・江戸城DVD(爆笑)で散財してしまい、とぼとぼ幸せな帰り道。
両国のこのあたりといえば、ちょっと北上すると阿部伊勢守下屋敷があります。
ご母堂が住んでいた手前、阿部正弘は激務の合間を縫って、ちょくちょくこの下屋敷に顔を出したそうで。おそらく両国橋を通ったのではないでしょうか。
(宮廷政治家として名をはせる彼ですがこういう庶民を忘れないあたりが素敵なのです)

そして総武線で都心へ向かったのですが、よーく考えれば両国の隣は、浅草橋駅。
そうです、三味線堀そばといえば、榎本釜次郎さんの育った町です。
そのとなり、秋葉原駅。・・・・ここから御茶ノ水駅までの間はかなり近い。

そこで気がつきました。
先日行った湯島聖堂のとなりの町は、萌えタウンアキハバラなのですね。
オタクの街と聖堂が隣同士。なんかすごく深いです。
日本のサブカルチャーの殿堂は今も昔もこのあたり。

お後がよろしいようで(ん?そんな終わり方か!?)。
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# by aroe-happyq | 2007-01-25 18:50 | 江戸東京あれこれ | Comments(0)
中根雪江の「昨夢紀事」3,4巻を読んでおります。

その途中、かねてより気になっていた水野筑後守の一件について
岩瀬が橋本左内に面白いことを語っておりました。

(水野は)忠赤餘りあって確實なる事當世無双とも可稱由
去年墨使初而備中殿と應接の時、
御席に連なり居しかハルリスの英夷の事を説きしを虚喝として更に
承引せず固く執て極論に及ひ殆と評定一坐の面々を動揺する勢いにて
當前の事機に於て支吾せし故止事を得ずして當役へ轉せしなり。
                   (『昨夢紀事』3巻 353P)

「忠赤餘りあって確實なる事が当世無双な」水野さんは、
ハリスと堀田備中守が初めて会った席上、ハリスがイギリス(英夷)について説き始めると
「それは虚喝だ!」と非常に熱く論じてしまい、応接掛みんなでびっくりしてしまった。
このように談判の席上でいきなり応接掛が進行に支障をきたしてしまうのはよろしくないので
(田安家家老へ)役替になった・・・・・ということでした。

でも岩瀬さん、水野をけして否定してはおりません。
「当世無双」・・・・・・これってそれなりに褒めていると思います(笑)。
だから橋本さんに語って聞かせちゃうのです。
「困った人なんだけどさぁ、ははは」という感じでしょうか。
というのも、あいかわらず、「信念の人」水野さんは一橋派官吏として大活躍しております。
彼の頑張りがあるからこそ、岩瀬たちは条約の勅許のほうに集中できるのですから。

でもこの史料からみると、カモフラージュ作戦は偶然の産物!?(爆)
役替になって暇になった水野はたまたま一橋派の運動に夢中になれる環境になっただけ
ということかも。むむむ、予測が外れた。

三巻にはいると、永井玄蕃頭が鵜殿にかわって活躍をはじめ、3~4巻はだいたい、
水野、永井、岩瀬が一橋派として、また開国派として奮闘しております。
ただ、かれらは宮廷政治には向きません。大奥への工作は薩摩の西郷さんたちが
担当してはいますが、そのあたりのツメが一橋派全体的に足りないぞ、と素人眼にも明らかです。大奥の影響力を侮ってはいけませんのに(笑)。
・・・・・などと、ぼやきながら読み進み中です。
でも結果を知っているからこんなぼやきも出るわけで、それは彼らからすればズルイですよね。明日を知らないから探りながら走っているわけで、知っていたらちゃんとツメていますもの・・・・・。
歴史をみるとき、結果(未来の出来事)を時には忘れないと判断を誤ってしまいます。
王政復古~明治維新の流れから逆算するから、攘夷志士が正義で、その反対勢力が
だらしない過去の遺物扱い(爆)されてしまうわけです。
当時の記録をみると、相当・・・・・攘夷志士なぞただのワルですからね。
味方が勝ったからこそ、英雄呼ばわりなわけです。
『昨夢紀事』の一橋派も敗れたからいまいち忘れられた存在ですが、結末のまだ知れないこの本のなかでは(この書物はずっと後になってから編まれた本ですけど)、彼らは江戸を、天下を動かしているわけですから、そのあたりを踏まえて、冷静にひとつずつ調べていきたいと思います。
(井伊さんだってまさか数年後、自宅出てすぐ駕籠を襲われた挙句、首をとられちゃうなんてそんな未来は想像だにしなかったに違いあるまい)。
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# by aroe-happyq | 2007-01-24 19:34 | 外国奉行ズ | Comments(0)
『同方会誌』(又は『同方会報告』ともいう)27号に、
「詞遣ひ」というコーナーがあり、「江戸言葉」「江戸と田舎の言葉」について紹介している。
このなかから、旗本ぐらいの武家が使った言葉についての項を拾ってみる。

○「~なさい」というのは「~遊ばせ」という。
○朝「起きる」ことを、「おひんなる」とういう。寝るは「げしなる」という。
○衣服をきるは、「衣服をめす」という。ふんどしも下駄もみんな「めす」を使う。
○人を呼ぶときも「人をめす」という。
○放っておく→「うっちゃっておく」
○来い、とかお出でなさいは、「いらっしゃい」。

そして、おはよう、こんにちは、こんばんわ、さようならは一切使わず、
すべて「御機嫌よう」を使う。

・・・・・・・御機嫌ようといえば、ざーます山の手夫人の言葉かと思いきや、元は江戸侍言葉!?

なんとまぁ、風雅な世界(爆)。

「風邪をめされたかとか。どうぞお気をつけ遊ばせ」
「かたじけない。では拙者これにて」
「では、御機嫌よう」
「ご機嫌よう」

・・・・・・・・・こんな感じでしょうか???
御自分」につづき、なんだか軽いカルチャーショックです(笑)。


さらにこのコーナーは指摘する。
明治の官吏が「どうだい、暑いじゃねぇか。達者か。うん忙しくって困らァ。(略)・・・暇があったらどっかに行こうじゃねぇか」・・・・・・などと使っている、乱暴な言葉遣いを武家はしない、そうです(爆)。

ということは、江戸侍のべらんめいはなんかまた違うリズムの言葉なのか・・・・・。
(確かに榎本釜次郎さんのべらんめぇは↑この明治官吏とは違う流れのような気が)
なお、調査はつづく!
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# by aroe-happyq | 2007-01-23 10:40 | 幕臣系 | Comments(2)
自由業をやっていて、仕事の保障もなにもないけれど、
ちょっとだけいいことは時間さえ許せば
たとえ午後5時だろうが、テレビを見られてしまうことです。

というわけで、仕事は置いといて、見ちゃいました。第一話。

偶然、最近デジタルケーブルTVがみられるようになったばかりなので、
ハイビジョンが見られると思うと、ついつい・・・・・(DVD持っているくせに!)。
本放送も全話逃さずにみたはずなのですが、やはり見たくなってしまったのです。

しかしなんとキレイなのでしょう!
とくに光がいろいろな表情をみせてくれて・・・・・・・本放送の頃は
ざらざらでゴーストいっぱいの画面で見ていたので、
まるで別のドラマのようでした(涙)。

いろいろ「史実と違~~う」な面はありますが、
これは三谷ドラマとして最後まで楽しめちゃう、そんなひじょうに出来のいい物語です。
長年大河をみてきたなかで、最後までちゃんと物語の糸がすべてたゆまず、
ひとつに集約していく構成の見事さもたまらない感じで、
ちゃんと江戸の雰囲気が伝わってくる、不思議なゆるい空気感も好みでした。
(なんだかやたら偉そうですが・・・・・・・・)
なので細かい突っ込みはせずに、笑い転げ、ときには泣いて楽しみたいと思います。

これから2ヶ月、打ち合わせは夕方をなるべくはずさなくては・・・・・(汗)
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# by aroe-happyq | 2007-01-22 19:34 | 新選組! | Comments(0)

川路聖謨という人。

幕末の能吏で、かつ戊辰の徳川瓦解のおり、壮絶な最後を遂げられた、
徳川家臣の鑑のような人。
渡辺崋山たちと交流し、開明的な幕臣だが「蛮社の獄」で奈良奉行に左遷。
のち、勘定奉行に復帰し、海防掛としてプチャーチンとの交渉を、筒井との絶妙な
コンビネーションで乗り切った(後半は水野、岩瀬とのチームだったが)優秀な外交家。
そののち、一橋派として退けられてしまったが・・・・・・、
なにせ切腹の末拳銃自殺というその最後が鮮烈で、
古武士のような頑健な人、というイメージがあった。

吉村さんの本を読むと、まさにそのとおりという、非常に凛とした川路に会える。

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ところが、次にこの↓を読んだとき、
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「ん?」と思った。
この日記にはなにげないユーモアがちりばめられていたのだ。
もしかして、川路聖謨も・・・・江戸ッ児侍のひとりとして、岩瀬たちのように愉快な人では
ないのだろうか。
その疑問を解消してくれたのが、
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この本だった。さすが氏家さん!!!
氏家さんが思わず、溺れた(爆)川路家の世界・・・・・その気持ちがよくわかりました。
やっぱり・・・・・・川路もフツーの江戸侍と同じく、下ネタOKさんだし、
なにより家族(家来のファミリーも含む)がみんな可笑しい!
なかでも報復絶倒なのが家来の娘のお栄ちゃん。天才少女です。
(あまりここでは例にあげられない××ネタなので名前だけ紹介します)
三歳のお栄ちゃんに、なんと川路は「お前の両親はむらむらきてどう抱き合うかい?」
というとんでもない質問をすると、「・・・・ま、それはおいといて」と話題を
さらっとかわすのです!三歳の児が~~~っっ(爆)。
(でもそれを家来一同と爆笑してみている川路お奉行の屋敷ってあったかで楽しそう♪)
さらに、「ゲロゲロ病」と川路命名の奇病・・・・現代でいえばちょっと自律神経失調症な川路の奥方は知識が豊富で、夫を理論的にやりこめることもしばしば。
それも、とても正論で、読んでいてすがすがしい。
江戸旗本の家庭ってみんなこんなに夫婦はフランクなんでしょうか?
すでに封建時代っぽくない、近代的な会話もあるのです。
そして、やはりその家庭の中心にいる川路さんが誰よりも可笑しいのだ。
星一徹のような父に育てられ(このあたりは新井白石のよう)、かなりのマザコンで、
川路の養父は絵に描いたようなぐうたらな江戸侍で、本人は四回も結婚をし、
そしてひたすら家族へむけて日記を描く家庭人・・・・それが川路の一面である。
(全部ではない。仕事面ではかなりの切れ味がある(爆))
おそらくこの本と「落日」と両方を読むと、さらに奥行きのある川路像に出会えることだろう。

*一日考えて、川路さんの不名誉ギリギリ部分をちょっと補足しました(汗)。(1月23日)
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# by aroe-happyq | 2007-01-22 10:15 | 幕臣系 | Comments(0)
日本を訪れた外国人の旅行記を読むのはとんでもなく大好物。
なぜなら細密な描写があるので、当時の日本の様子や会話が
リアルな感覚で味わえるからだ。

というわけで、前回の水野外国奉行問題が出たところこともあり、
今回は日仏修好通条約のためにやってきたグロ男爵一行の記録を紹介。
もちろん独断と偏見にみちているので、外交会談のところだけ。
このときの外国奉行はもちろんあの五人。

筆頭全権委員 水野筑後守
第二全権    永井玄蕃頭

そして、英国使節と同じく、いつものツートップなわけです。
(井上と岩瀬はハリス掛で忙しいし、堀は箱館奉行兼任なので)

六人(目付を外国奉行と間違えている)の外国奉行に別れの挨拶をし、
フランスでの再会を約束した。
そして第二全権委員永井玄蕃頭はチュイルリ宮つきの大使に拝命ずみであると
我々に説明した。(略)・・・・


そこでどのように渡仏するのかとたずねると、永井は、

日本人の乗組員とともに日本の軍艦に乗ることになるだろうし、
軍艦はメーンマストに国旗、つまり白地に日の丸をなびかせてツーロン港に
接岸するだろう、とのことだった。


提督、なんだかかっこいいですぞ(笑)←なぜか
つまり徳川海軍でおフランスへ参るという素敵な計画だったのです。
きっと勝も矢田堀も沢も榎本もわくわくしていたに違いないでしょう。
でも艦長(というか船将)は勝麟さんより、矢田堀さんのほうを推薦します。
慎重な性格なので長い航海向きではないかと思われるので。
・・・・という妄想はさておき。

こうしてこの時代についての本を読んでいると、日の丸ってしみじみと
徳川ジャパン(サッカーみたいか!?)の旗しるしなのですね。
思うに、なんで明治新政府はこれをそのまま採用したのか?(と意地悪なつぶやき)
「維新」したなら旗もかえればよろしいのに!
おほっほっほっ (フランスだけにベルサイユ風@宝塚)

いささか飛びすぎましたが、さてさて。
この旅行記の珍しいのは、岩瀬の記録がないこと。永井だけなのも珍しい。
・・・・・さては岩瀬さん、英語習得に夢中でフランス語には興味なしか!?

というわけで、英国の記録に続き、安政五カ国条約締結の記録から
外国奉行の部の紹介でした。

「フランス人の幕末維新」 有麟堂新書53 
第一章 全権団随行員の日本観 より

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# by aroe-happyq | 2007-01-20 10:55 | 長崎伝習所系 | Comments(0)

アジアンエンタメ&お江戸後期。外国奉行や長崎海軍伝習所がご贔屓☆ BYはな。


by aroe-happyq